石井輝男『ねじ式 』をめぐって

ねじ式 1998年 石井輝男
ねじ式 1998年 石井輝男

ネジれた感じでちょうどいい。シュールの定義を弛めよう

シュールというタームは、表現者にとっては
一つの大いなる幻想であると同時に
確かに、巨大な源泉であることもまた、間違いない。
夢や無意識というものに狂喜した
かつてのシュルレアリスム運動の本質はそこにある。
ややもすれば安直なテーマに成り下がる場合もある中、
本来、その領域は、どこまでも壮大な宇宙そのもの
といって過言ではない奥行きがある。

さて、その“シュール”についての薀蓄から始めよう。
現実を超えるという意味でのSUR
(元は「〜の上に」という前置詞)
すなわちこのシュールという言葉は、
20世紀初頭パリでシュルレアリスム運動を伴って
急速に浸透していった美術用語である。
元はというと、ピカソ、コクトー、サティといった
当代きって、名うての芸術家たちが集って作り上げた
前衛バレエ『パラード』への序文に、
それまでの演劇に新たな美学を持ち込んだという趣旨において
「超(シュル)現実的(リアリズム)」と呼んだ
詩人アポリネール自身の造語から始まったもの、
というが定説なのである。

その後の発展過程から、現在の捉え方でいうと、
なにやら風変わりで、“ヘン”、というイメージだけが
すっかり市民権を獲得し定着してしまっている。
改めて、ヘンテコなものの総称として
一派一絡げにシュールといってしたり顔する風潮には
どこか違和感を覚えないでもないのがホンネではあるが、
そこはこの際大目に見るとしても、
映画においては、このシュールという響きだけが一人歩きし
どうしても視覚的アヴァンギャルドの強度にのみ引っ張られて、
冷静にシュールなるものの実態を
ゆっくり捉え直す機会が奪われている気がするのである。

そこで、つげ義春の漫画の持つ本質に目を向けて見ると、
このシュールをめぐる、モヤモヤした思いの答えは
この映画版『ねじ式』のなかでも
やはり解決することは決してないことを悟るばかりである。
作品自体は、いかようにも語れる切り口を有しているが、
真面目に扱うほど、どうも半ば支離滅裂になるという、
アンビバレントな感性が邪魔をするのはいうまでもなく、
いってしまえば、この変態作品(カルトムービー)と称される作品を
理屈抜きで支持するのは、ズバリこの主人公への偏愛の情なのだ。
つげワールドの住人たちにとっては、それで十分成立するのだ。
この不条理を抱えこんだ人間が、いかに魅力的かということを
まるで催眠術のように慣らされてしまうからであり、
実際のところ、ただそれだけのことに過ぎないのだ。

それにしても、浅野忠信と言う俳優は
いつも不思議なオーラを放っている。
『ねじ式』のツベ(言うまでもない、つげ義春の分身)
と言う男はその不思議な存在感
そして個性の可能性をどこまでも冷静に押し出してくる。
このシュールで不条理な作品が
浅野忠信という俳優が出演しているだけで、
なぜこれほどまでに安心感ある絵になってしまうのか?

テーマがテーマだけに、下手な役者がヘタに演じると
眉唾物として、むしろ興ざめするものものだが、
こちらは、必ずしもそうはなっていない。
その空気感が、なぜだか心地よいものにすら感ぜられ
特に理由らしきものがなくとも成立してしまう。
誠に不思議な現象をひきおこす。
日本の映画界の中で、テレビや通俗的ドラマなどに毒されておらず
ひたすら映画を中心に仕事をこなしてきたという、
そんな純粋培養で培われた存在感が
職業俳優と言う意味の、生真面目なだけの形式を
綺麗さっぱり振り払っているのかもしれない。

要するに、『ねじ式』のような、
どこか、現実と乖離している話においては、
有無を言わせぬ絶対的な世界観や美意識の存在を
偶然成立させているような口実として不条理な世界が扱われ、
所詮、シュールなんざ、夢の続きのようなもので、
実態など、この世のどこにもないというのが、現実なのではないだろうか?
そう思えてならないのだ。
そんな堂々巡りの思いのなかでさえ、
浅野忠信は作品と己の個性、そのどちらをも侵食することもなく
超然と演じうる希有な俳優だと、改めて思わぬわけにいかない。

さて、この『ねじ式』は映画版において
『もっきり屋の少女』『やなぎ屋主人』といった短編が盛り込まれて
一本の新たなツゲワールドとして再編されている。
『もっきり屋の少女』は茅葺き屋根の居酒屋もっきりに
ふらりたどり着いたツベをもてなす、
これまた不思議おかっぱ少女チヨジの話である。
二人の会話の妙もさることながら
赤い靴をかけて客に乳首をいじらせているが
毎回毎回負け続けているだけという、
実にナンセンスな話が挿入される。
そこから一転して『やなぎ屋主人』へと続く。

ヌードスタジオでの女とのネガティブなやり取りの後
千葉の海へと向かうツベ。
漫画版では新宿から衝動的に海が見たくなって
内房線N浦駅で下車することになっているのだが
映画版では特に特定されてはいない。
駅近くの「やなぎ屋」という食堂での話が
そのまま挿入されている。

こうしてあたかも夢の中の話の再現のように
繋がりがあるんだかないんだかわからないままの話が続き、
一年後、再訪した海でメメクラゲにさされてしまうところで
やっと本題『ねじ式』へと相成るわけだ。

ところで、メメクラゲって?ということなのだが、
オチをいうとなーんだと一笑に付す事になる。
原稿に表記した「××クラゲ」が誤植され
そのままメメクラゲとして採択されただけなのである。
しかし、こういうあたりがいかにもツゲ式なのであって、
まさしく意味などない。
そしてこの不条理漫画〜映画へと流れる骨子なのだと
理解すればいいだけである。

さされた後は、ひたすら医者を求めて彷徨う主人公の独断場だ。
まさにシュール以外何者でもない世界が最後まで展開される。
ここまでくると流石に真面目に筋を追ったり
中身について哲学的考察をしたりすることが
無意味でアホらしいことがわかっていただけるはずである。
これが世に言うシュールものの定め、オチである。
だからと言って、この映画には
一刀両断にナンセンス=くだらないと切り捨てられない魅力が端々にある。
まさに趣味趣向の問題でしかない情感が滲み出している。
何人をも言説だけでねじ伏せてしまう力は、もはやない。
映像や漫画の持つ画力、イマージュの効能に太刀打ちはできはしない。
たどり着いた産婦人科の女との意味なき絡みの後
静脈を文字通り接合するためのバルブネジによって
無事施術成功、そういうわけで話の幕は閉じる。

こうして見ていくと、まさに一つの夢として成立しているものを
如何にかこうにか映像化したもの、と言えなくもない。
作者は否定してはいるが、
所詮、これが夢かどうか、モティーフが夢オチなのか
と言うことにはさして価値はない気がする。
文字通り、感性に合致するか否か、ただそれだけが問われるだろう。
自己の感性に従うなら、十分楽しめる作品である。
映画としての評価はさておいても、
様々な影響力を持つエキセントリックで、
かつ計り知れない謎を持った作品であり、
人知れず、どこか見知らぬ町へと旅に出たい気分のときなどに
この漫画本をバッグに忍ばせておきたい、そう思わせる。
まさに、私小説ならぬ私漫画風情の趣がある作品だ。

ちなみに、映画化に当たっては
漫画をオムニバス形式で盛り込んだ形で構成されているのだが
目ばかりが描かれた眼科の看板立ち並ぶ通りを初めとして
漫画版ではそれぞれのコマにインスパイアされた写真が
存在していることが明らかになっている。
そういった元ネタ探しや、内容について
あれやこれやと想像た膨らませるのもまた楽しく、
実にゆるいシュールレアリスムとしての映画、
そう言う見方で、自分は一応納得している。

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