日常ステッキ

なんでも自分のものにしてもって帰ろうとすると、難しいものなんだよ。 ぼくはみるだけにしてるんだ。そして立ち去るときには、それを頭のなかへしまっておくのさ。ぼくはそれで、鞄を持ち歩くよりもずっとたのしいね。

(スナフキンのことば)ムーミン(トーベ・ヨハンソン)

日常という名のステキを集めよう

MR.STEKKI

日常にこだわる真の詩人なら、ペンをもつ前に、まずは天からの思召したるそのエーテルに配付された、あらゆる言語の解読から試みるかもしれない。そうして、意味もなくあたりをうろうろし、あたかも、不審人物のごとき様相を呈しながらでも、彼/彼女独自の言葉を発しながら、場合によっては、おとがめを受けるやもしれぬ喧騒を利用しながら、新境地開拓に勤しむに違いない。

 日常の倦怠が成熟すれば、非日常の連帯を呼び、風の色まで変えることができるのではなかろうか、などと一体何処の誰が考えうるだろうか? 実際のところ、そうやすやすとは、巷の倦怠感など一掃できやしないものだ。だからこそ、その目で見、その耳で聴いて、直に触れ確かめるためにその足を使うのが真の詩人たちだ。よって、詩人はステッキに固執する。素敵を纏い、素敵を従え世界を歩きまわるための杖を携えて。

 ステッキの達人、といえば晩年ステッキを愛用していた詩人瀧口修造。あるいは光の男マン・レイ。またはアルト-。はたまた、トリュフォーが映画の詩人と敬意を評したオーソン・ウエルズが、映画史に燦然と名を残す伝説の三分強の長回しで幕を開ける『黒い罠』で、自ら演じた巨漢の悪徳刑事ハンク・クインランか。老いのささえさえも、詩人が持てばステッキな日常を演出するしゃれた小道具というわけだ。が、ここに、「彼自身によるロピュ」というテーマにおいて、頬杖をつく前に、ため息をつく前に、小粋に一息いきつくために、日常のステッキなるものを、アトランダムにロランバルト先生風に書き留めていこうと思う。そんなわたくしと、ちょいと小粋な言葉のプロムナードはいかが?

ステッキ目録

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