日常ステッキ【ま行】

っすぐにのびる
らいへの道
げんの日常は
からうろこが溢れ出す
んだいはキミなのだ

◆マドリストという名の窓

家探し、といえば、間取り図ですね。最近ではインターネット検索で部屋探しができるので、便利この上ないですね。この間取り図を収集するヒト=MADORISTマドリスト)なるヒトがいますが、素敵な感覚! だと思ったものです。ぼくも、いわゆる間取り図を見るのが好きなのでして。引っ越しの度に間取りをながめてあーだこーだ想像をめぐらせるのですが、間取り図と実際に見る部屋の感じはやはり差があって、部屋探しは大変だぁ、といつも思うのです、が、間取り図をただただ眺めていると、いいなこんな間取りと思ったり、こんな間取りに住むヒトいるのかな、と思ったり、で、ここにあれをおいて、ここにあれをおいて、などと想像するのは呑気なことだし、なにより楽しいですね。いつか自分の部屋の間取りを自分で設計したいなあ、などと思いますが、大きな夢ですよね。

◆マニュアルカメラとEYEの行為 

 デジタル化のへ波は昔ながらのカメラマンの気持ちさえ、ぐらりぐらりゆすりはじめて、その誘惑にときにはやむを得ず、魂を売ってしまうことだってある。でも、どこかで、きっとこう叫んでいるに違いない。本来オレはカメラが好き、このなんかおもちゃのような魔法の箱のようなカメラのから繰りそのものが好きなんだよ、と。
 そんななか、マイカメラブーム、なかでもマニュアルのカメラはとみにモテモテだそうである。あたしもいっちょヒロミックスみたいになあろっといってカメラを握ったとしても、その根底にあるのはカメラというオブジェへの嗜好だ。そう信じたい。ちなみに、ぼくは友達から譲り受けたニコンのFM2をずっと愛用している。デジカメはまだない。いずれは持つかもしれないが。だが、待て。この操作そのものがやはり楽しい。とりわけ熱心なカメラマニアでもないけれど、いったんカメラに触れると、やはりモノズキとしてはいとおしく感じてしまう。
 そもそも、カメラに限らず機能重視のモノが、さて、いかほどに人のお役にたっているのか、どうもよくわからない。モードがいくら充実していてもドーモね。
 マニュアルカメラは、気易く扱えない分、愛が必要なのだ。つめたくするとすねて実にいい加減な表情を見せる。微笑んではくれないのだ。でも、いったん心が通 じれば、こいつが実にステキなセンスでときめかせてくれちゃう。手で触れて、目で見つめて、そして対象を切り取るEYEの共同行為は、まさに恋愛と同じなのだね。

◆マメな話

ビールの当ては枝豆に限るよなあ。豆腐が好きなひとだったら、理屈からいうとマメが嫌いじゃないはずなんだ。まあ、元が同じといっても、豆腐はマメの跡形がないものだから、見た目には大きく違いますがね。味噌、しょうゆなんてのもこれ、マメたちの一族だ。マメといってもサヤエンドウや、インゲン、クロ豆、お多福豆、そら豆、それにレッドキドニーガルバンゾー(がんばるぞー、ではない)などといろいろあります。どれも好物なんです。また、これはいわゆる食品ではないけれど、手首のあたりを押さえると、小さなコブ、といかマメ状のものがあらわれます。これは一体なんなんでしょう? 根拠もなく、俗には子供の数をさしているなどといわれたりすることがありますが、実際のところはその人のまめさだったりして。マメというのはいい意味で、熱心という意味もありますからね。また節分には鬼を払うのにもマメは活躍いたします。
魔目を潰して魔滅する、ということらしいのですが、面白い習慣ですね。こんな風に、日本人と豆の関係は古くから生活に根付いているのですね。まめまめし、とは真面目、実用的という意味があって、なるほど、真面目さこそは日本人にとって、実用的な習慣なんだと改めて思うのであります。

◆マロンブランド

 朝食は絶対パン派、というわけでもないし、パンに必ずジャムを塗るという習慣はないのですが、塗るとしたら、マーガリンでもなく、マーマレードでも、ブルーベリーでももなく、マロンジャムがいいですね。他のジャムと比較して何が違うのか。それは透明度ですね。こちらはほとんど透明ではない。不透明でいわゆるマットな感じ。濁りの美学。色合の含蓄とでもいうのでしょうか。谷崎先生の「陰翳礼讃」の世界です。カルディやカーニバルといった輸入食材屋さんで比較的手ごろに買えるbonne Mamanのマロンジャムはけっこう美味しいと思うな。

◆Mr.チンのカンタンレシピ

 わたしゃこう見えてもさ、料理のひとつやふたつ、いやみっつ、よっついつつ・・・とまあ、要するにけっこうな料理好きであります。が、作り方はかならずしも行儀もよくなく、テキトー、でございやしてね、まあ、男の料理ですからね、期待されても困りますがね、それなりのものは作れますよ、はい。

そんなわたしの、助手はチンさん。そう、電子レンジというものは、人類の素晴らしき発明のひとつですな。ただただ温めたり、解凍したりするだけじゃあつまらない。チンさんをあなどることなかれ。わたしは、野菜を茹でたり、さかなを焼いたり、いろいろ活用しており、料理といっても、コレ一台ですますことも少なくありませんの。

お気に入りは、サツマイモを輪切りにし、10分ほどチン、で、ヨーグルトを混ぜるサツマイモとヨーグルトのサラダ、サバの味噌煮、卵スープ、あさりの酒蒸しなど、すべてチンさんにやってもらえるので、非常に助かっております。料理下手な奥さん、あるいは一人暮らしの不自由さを嘆いていないで、さあ、チンさんとご一緒に、気軽に三分クッキング。

◆蜜泥棒 

蜂蜜大好きのミ-。甘さを含んだ純度がそそる。フランスの食品メーカー、エディアール社の蜂蜜のビンは六角形で、オブジェとしてもしゃれている。量も少なく、値段もけっこうするので、なかなか手なぞでるものではない。じゃあこっそりと頂いちゃおう、などと考えてはいけない。この社会、それは御法度なのである。おかしなことに、その中身はといえば、われわれ人間が蜜蜂から堂々盗んだものなわけで。いや、搾取したものといっていいがそれをいっちゃあ始まらない。その蜜蜂たちもまた、花からこっそりと蜜をせっせと密輸しているわけだけれど、彼らはただ頂戴するだけの図々しい輩ではない。ポリネーターとして、ちゃんと花の受粉に手ならぬ足を貸したりするわけで、密なる関係を結んだいわば共生の契りを交わすことで報酬に蜜をいただくのである。それに比べて、人間は三つ子の魂百までか……。
 いっそのこと、スズメバチが蜜蜂の巣を襲撃するを聞きつけて、保健所役員が対人間のケース並に常時出動して、レスキュー隊をかってでればどうだろう? もちろん、我らが蜜蜂くんたちの命は優先せねばならない。そのあとで、お礼に蜂蜜をもらうってのはどうかな?もちろん、これは心付け程度で構いはしないのだが。
 これって純然たる共生じゃない? でもなんか強制的だなぁ。

◆矛盾に賛成の反対なのだ

バカボンのパパが時折口にする言葉の一つに、「賛成の反対なのだ」という言い回しがある。初めから反対といえばいいところを、あえて先に賛成をつけるところがミソ、つまり天才のなのである。思うに、赤塚不二夫の大傑作である「天才バカボン」という漫画の面白さは、ひとことでいうと「矛盾」に満ちているにもかかわらず、それがときに人情と常識をくすぐりながら、なるほど、いやそうかもしれないと本気で思わせるところにあるんじゃないか、と思う。主にテレビアニメとしてみていたので、その記憶が元になっているので、原作の漫画本、および原作者のことはさておき、そう思うのは、苗字のないバカボンのパパが普通に家と家庭をもち、ちゃんと仕事もしている市井の人というところです。彼は植木職人で、これが実に腕がいいとくる。時にはアクロバティックなパフォーマンスで、まわりを驚かせる、でも、それは十分、日常でありうることの範疇において、彼はきちんとした評価を得ているということなのですね。そして妙に現実味がある。
 分析はそれぐらいにして、実は、植木職人というか、庭師というのにはどこか憧れのような思いがあるんです。ただ、植木職人というのはある意味アナログ的なデザイナーだと思うんですね。その昔美容師にも憧れたことがありましたが、庭師や植木職人というのは、ひと時代前、ひいては中世時代にも存在していたわけで、普遍的な「職人気質」みたいなものに憧れているのかもしれません。といって、それが天職としてうまくやりこなせるかはまったく別で、ある意味バカボンのパパ並みに矛盾しているんですが8バカボンのパパを通して、植木職人が自由人だという刷り込みが行われてしまったのかもしれない)。もっとも、実際に職業にしてしまうと、楽しくないのかもしれないけれども。

◆むすんでひらいておむす美学

 おにぎり、というより「おむすび」という響きが好きですね。にぎる=にぎり、というのは寿司のイメージがどこかにありますでしょ。だから、「結ぶ」というほうがすっとするんです。
 だから、むすうんで、ひらいぃて……この童謡を聞くと、おむすびを連想してしまうのです。つまり、米粒の固まりを水をなじませた手と愛情とでひとまずきゅっとにぎって、きゅっと締める。そしてバレンや笹の葉なんかで弁当としてきりりと結ぶ。そして、旅先やどこかで、結びをほどいていただく、というようなイメージ。
 具でいうとツナマヨネーズが好きですね。オーソドックスに梅干し、おかか、シャケもいいです、たらこでも、天むすもいい……まあ、しょせん中身はなんでもいいんですよね。何のことはない、オコメ好き、ゴハン党なもんで。
 でも形なら海苔が巻きやすく、弁当箱への収納もスムーズな俵形がポピューラーでしょうか? コンビニ感覚ではどうも三角形が定着しています。
 余談ですが、相撲で結びの一番の後、優勝者に米俵を贈るという儀式があったりしますね……なにに結び付けるやら。
 こだわり、それは手でにぎられたもの=愛情、ということでしょうか? 弁当で売られているものはおおかた型で押されたもので、ひとのぬくもりをへたコメの飯粒とは違いますね。なにより、農耕民族としての長い長い遺伝子レベルの情感を感じさせますもの、ちょっと大袈裟ですか。

◆めがねにかなう六角形

ちかごろ町中では、ずいぶんオシャレ眼鏡が増えましたね。色とりどり、形いろいろたのしいことです。実をいうと、自分は眼鏡が嫌いでした。(昔は牛乳ビンの底メガネってのがけっこういて、蔑視のアイテムでもあったな)いったん眼鏡をかけると眼鏡依存症になるという話を聞いていたので、眼鏡なんてかけるものかと思っていました。でも、やはり実際視力は低下するものですね。いま、0.7、8あたりでしょうか。まあ、なくても生活に支障があるわけでもないし、見えないわけではないですけど、確かに目つきが悪くなります。一番困ったのが免許証更新時にされる視力テストでして。眼鏡なしでは厳しくなってしまって、やむをえず眼鏡を採用、ってなことになりました。まあ、世間的に眼鏡がお洒落アイテムになっている時勢なので、すんなり移行できて、今日では必需品となったわけです。
 ほんといろいろタイプのちがった眼鏡があるので、気に入るのを見つけるのは大変ですが、今は、やはり縁(フレーム)がポイントでしょうか。ひとつはメイド・イン・フランスのセルロイドのもの、ひとつはメイド・イン・ベルギーの六角形のメタルフレームのをみつけてこれだとばかり愛用しています。
 六角形の眼鏡、というのは珍しいでしょう。ちょうど南仏で語学のサマースクールに通っていた時に、マダム・ラゾという女のセンセイが確か正六角形のシルバーフレームの眼鏡をかけていらしたのを見て、素敵だなあ思っていたのです。
 日本ではあまりみかけたことがなくて、今かけているのもハンドメイドもののようです。それはすべて六角形好き、ミツバチ愛好癖からくる、すなわちミツバチの神秘への憧憬から来ているんですよね。

◆もじもじするよなふぉんとの話

デザインの仕事に携わっていれば多かれ少なかれ、文字に関心があるはずなんですよ。なきゃやっていけませんからね。書体ひとつで、雰囲気が変わるし、いわばデザインの要は、文字。字だけで十分、デザインが成り立ってしまう。ゴダ-ルの映像に持ち込まれたこの視覚的な文字ヅラのカッコ良さを、ブルーノートのジャケットで、Reid Milesによるデザインワークに見られるタイポグラフィーの洒脱さを、思い出してみてください。とはいえ、書体を極めるというのはこれが案外難しい。書体選びから、文字のレイアウトまで、文字詰めというのは、一つの技術なわけですね。きれいにみせるには、センスがいるものです。ぼくは、ようやくこの文字、フォントの面白さがわかってきたような気がしています。

で、和文とで玄人好みの書体の基本はモリサワフォントというやつにお世話になっていますが、デザインフォントではないので、面白みがない、いえばない。だから個人的にはフリーフォントなどで変わった書体を探すのですが、それはあくまで邪道ということに、あるとき気づきましたね。フォントは文章を読ませるためにあるのだと。逆に欧文はもう星の数ほどあって、書体見本を眺めているだけでけっこう楽しいものです。たとえば、Helveticaというフォントが好きなのですが、響きからしていいでしょう。書体のバリエーションが欧文のなかでも多くて、こちらも仕事でよく使っています。フォントと一口でいっても、アルファベットだけじゃない、ピクトグラムのような絵文字があったりして、これがほんとうに面白い。フリーフォントで、いかしたフォントをゲットするのもまた趣味のようになってきました。

◆メンタンピンイッパツツモドラドラ

昭和の原風景の一つ、といえば雀卓を囲むことではないでしょうか。始まれば始まったで夜通しやりっぱなしでもお構いないし。おまけにタバコで煙が充満してなんとも不健康極まりないんですが、これがやめられない止まらない。言うなれば、よく聞かされる麻雀好きのセリフですね。実は、自分は最近までこの楽しい遊びを全く知らなかったのです。和田誠の『麻雀放浪記』やその原作阿佐田哲也こと色川武大先生の本で馴染んでいた程度で、もちろんルールも何もわからない門外漢。それが、あるとき行きつけのとある飲み屋があって、そこにいくと店の端っこで毎晩麻雀が始まるのですが、それを見ているうちに、何だか自分もやってみたくなって見よう見まねで始めたら・・・。これが実に楽しい。面白いのですよ、やっぱり。ハマるのもわかる。もちろん、最初はなかなか勝てません、上がれません。せっかく上がったと思えばフリテンやら役なしやらでチョンボ罰符。いい手が来たと思ったら上がられる。この繰り返し。実にいいカモです。全く、強者の勝負師たちには敵いません。が、日々スマホゲームで腕を慣らし、いくたびに卓を囲むことで、徐々にルールや戦略も身について、なんとか、場になじむ程度の腕が身について参りました。今でも息抜きに、時折メンバーに加わって楽しんでおりますが、麻雀という遊戯を趣味として嗜んでいると、こうして公に口にできるのが何より嬉しい。

しかし、麻雀をここで語るとなるとあまりにも深い世界だから、素人が得意げに語れることはあまり中身がないのです。麻雀の華といえばやっぱり役満ということになって、これがテンパる時のドキドキ、そしてスリルは一度味わうと病みつきになりますね。数ある役満の中では、国士無双、四暗刻、大三元、この三つがもっともポピュラーな役ですが、とはいえ、それとてそうそう滅多に拝めるものでもなく、故に上がれたときは天国気分のハイテンション。これだけはやったっものしかわからない快感ですね。

ただ、勝負は四人の中で一番点数が高ければいいわけですから、役満ばかり狙うわけには行かず、その中で基本中の基本の役の中で最高の役は、メンタンピンというやつですね。メンはメンゼン(リーチする)タン(一九字牌以外で上がる)それとピンフというのを一括りで上がるというやつです。それらは麻雀の上がりの大半をしめる基本役で素人から玄人まで、誰もが念頭にある組手ですが、それだけで十分高得点がもらえ、そこにドラ(ボーナスポイント)が乗っかればもう最高。メンタンピンイッパツツモドラドラ。まさに麻雀の中のお題目です。覚えたてはまずそこに行き着けと言われますね。
ちなみに、日本のグレイトフル・デッドと言われたバンドに「めんたんぴん」を久々聞き返してみると、これもやっぱり強力だわさ。おまけで、ここでは語れないけど、タモリの 四ヶ国語麻雀なんかも好きだな。麻雀はやめられない。

◆マンホーラー、ほらみてごらん

マンホールの魅力、などと唐突に言い始めてもあまり賛同を得られない話かもしれないが、実は意外にも一部では関心の高いアイテムでもあるのだ。実際に収集している人もいて、そういったマンホールマニアを「マンホーラー」と呼ぶらしい。驚いたのは一枚のマンホールの値打ち。わずか数千円単位で売買されるというから、確かにマニアにとっては敷居はさほど高いものでもない。あんな重厚な鉄の塊ゆえに、もう少し希少価値が高い代物のようにおもっていたのだが、それはどうやら錯覚らしい。マンホールというものが実は画一的でなく、とりわけ下水道関連のものは各自治体によって、多種多様なデザインが採用されている。実にフレキシビリティに溢れている。その土地を初めて踏んだときには、まずこのマンホールの蓋のデザインに目がいってしまう。アニメのキャラクターやまるで版画のようなグラフィカルなデザインなど、みていてこれがなかなか楽しい。僕の好きな京都の街並みに見るマンホールは実に統一感があってクールだ。流石に伝統を感じさせる。ちなみに、東京都は桜の花びらがモティーフのもので、特に目を惹くものでもないし、そそられはしない。それでも全国を津々浦々歩き回っているわけではないので、別段詳しくも何ともないのだが、今はネット検索をしただけでもいろんなデザインのものを拝見できる。なるほどマンホーラーとやらが胸躍る気持ちは理解できる。しかし、やはり、実際自分の目で、その土地や場所で直にマンホールの蓋をみて、せめてインスタコレクションに加える程度の嗜みを目指したいものだ。

ちなみに、2007年に3人の外国人監督の手で東京を描いたオムニバス映画が撮られている。その名も「TOKYO!」で下水からマンホールの蓋を開けて出てくるドニ・ラヴァン演じる怪人「メルド」が渋谷の街を徘徊するシーンは異様だった。まさに地下という異質な空間と現実の世界を仕切る一枚のマンホールから飛び出す異物において、まさに最初に触れる現実の光への扉が、すなわちマンホールというわけだ。