日常ステッキ【か行】

んかくというのは常日頃
ながに育みながら
れぐれもステッキなものは
いさん高さにおちいらないこと
れすなわち感覚の正常化なり

◆蚕趣味?

確かに下着絹(シルク)の肌触りって気持ちよいんだな。その昔、養蚕のドキュメンタリー映画「牧野物語・養蚕編」77(小川紳介)を観て感動したものだ。蚕ってのは、いわゆる蛾の幼虫なわけだけど、これが不思議と可愛いのです。撮り方にもよるんだろうけれど、桑を食む蛾のお子様たちの姿はとてもいとおしかった。おまけに「おこさま」などと持ち上げられて、せっせせっせと桑の葉を与えてもらってさ。ほんと大切に扱われているんですよね。繭を作って繭の中で眠る天の虫か。ちっちゃなころはカブトムシやクワガタ、カミキリムシや玉虫なんかに惹かれるわけだけど、大人になったら、こういうものが好みになっている。そういやモスラってそう言うことなのねぇ、などとひとりごとを吐く。もちろん糸(意図)はございません。
白い肌、くねくねの身、糸をつむぐ高貴な生き物である蚕のことを思うと、養蚕っていう仕事がとっても魅力的に思えてきた。部屋で蚕を飼ってみようかしら? そして部屋に大きな繭を作ってもらってそこで眠る、そんな夢を見るのであります。そこで眉ひそめないでよね。ただの空想だから。

◆角砂糖がとけて行く瞬間 

女のエロスは絶えずその曲線に息づいている。腰からでん部、はたまたうなじや胸。だから、オスとしてはついつい丸みを帯びたものが気をとられるのかもしれない。そこには例外もある。ひとつあげると角砂糖。白い(キャラメル色もあるが)ということもあるが、あれぐらいの小ささだと少々角があっても許せてしまうよね。第一もろいのである。『砂の女』は家の天井から砂が降ってくるだの、砂が腐るだの、ちょっと不思議ちゃんの話だけれど、「角砂糖の女」なんていたらどうなんでしょうねえ? 適度な柔肌と脆さ、そして適度な潤い。どこか女性的なイメージがするのです。
コーヒーでも紅茶でも熱く沸き立ったところへポトリ。しからば、底に下りつつも、甘い液体となってシュガーキューブがシュワァーと溶け出す瞬間があり、そこかなんともいえず好きなのです。あと、手でつまんで入れるというのも、オブジェ的な親密感があって親シミが湧きます。
ちなみにビョークは、かつて、シュガーキューブスと言うのをやっておりましたっけ。
こうしてみると角砂糖ってやつはずいぶんエロティックな造作をしている気がする。だから顆粒じゃつまらないわけよ。

◆かさねぎはおまかせ

小学校の理科の授業で、たまねぎの細胞を顕微鏡でのぞいたとき、あの記憶がいまでも忘れられないのです。セルのなかに円いポッチがあり、その細胞の美しさが残っている。考えたら、今も昔も反応するポイントは変ってないかもしれないな。へんてこな形、模様、色彩など、やはり不思議なものには惹かれてしまうのです。もっと踏込めば、顕微鏡で見える世界が好きだともいえますが、昆虫の顔なんてのはリアルに見ると実に恐いものです。
で、この玉ねぎというやつ、料理人に慈悲の涙を流させる術をおもちのようで、おまけに内部は完璧武装とくる。幾重にもなっていて、たまねぎ構造とはよくいったもので、お見事なまでにち密な重ね着の美学を備え亭いるものだな。細胞同様、これが完璧の層をなし、おまけに表皮の皮の艶、光沢、その中身の白さ、曲線とも絶品。まったく造型の美しい野菜ではあるまいか。
 生で食べると身体にいいそうだけれど、あっしはちょっと苦手。ぴりっとするでしょう、ちょっと。でも美味しいマリネなんかは本当に美味しいし、いためると透き通って甘くなるので、いためて良し、煮てよし、料理にはかかせないフルシーズンOKの万能野菜というわけで。牛丼屋なんかじゃ、あえてネギ抜き、なんていう注文もけっこうあるとか。私はむしろねぎだく派です。いやはや、どちらにせよ粋ぢゃないね。もっともしょせん牛丼は牛丼なんでしょうけど。

◆可視はしかし不可視で深し

  たとえば、映写機からスクリーンへと伸びる一筋の光。いわば光の帯のなかに、すてきな物語=時間が詰まってるってことだなあと。これを見るのは闇の中だけの特権か。
 ランプに棲む召使。煙から現れ、ご主人様ご用件は? なんて。アラジンじゃなくともそんなランプがあったらいいなと思う。ならば、とふかしてみるタバコの煙は、知らない間に大気の襞に参れこみ、白い壁を黄ばませても知らぬ顔とくる。
 夏に縁側で冷涼な風を導きいれる渋い演出家たる打ち水にしたって、用を足したらそそくさとお帰りあそばす。あんなに降った雪もだるまでさえも、真昼の太陽が一掃する。はて、だるまに足があったんだっけか?
 水性のペンで書いたはずの名前はにじみ、いつしか象形文字へと移ろいゆく有様。打ちこんだはずのパソコンデータが、いつのまにか削除されてやがるとは……とほほ。
 取っ手にふれただけでパチッおおきな静電気! バカモノ!といったところで静電小僧はどこかへ逃げる。
 花粉が空を飛んでいたって、この目じゃとうてい見えやしない。蜜蜂たちにはそれがいとおしいもののごとく巣に持ち運び、ぶぅ~んぶぅ~んとご満悦。ところが、一方、人の目を欺いたとしてみんなを恐怖に陥れる天敵だと嫌われるのだから、ご時世、お気の毒さま。
 どれもが魔法のようなこの世のからくり、けだし、人の目のなかで繰り返されているできごと。あるときにははっきり見えるし、あるときからはからきし見えない。見るものがいて、それを見ていると感じなきゃ、それらはまたどこかへ自由気ままに立ち去ってゆくだけ。
 人間だって、そのうちに、まるで嘘みたいに、動かなくなって、真っ黒焦げになって、そしてハイどうぞ、さようならと灰になって土の中へ、あるいは風の中へ紛れ込む。その先は誰も知らない。見えないことというのは、すばらしくファンタスティックぢゃないか。おっと、透明人間を忘れていやしたか。しかるに、見えぬ心のうちをみようったってそうは問屋が下ろす訳もないってのがこの世の摂理。

◆カプリコーン研究家

 地味で、頑固(融通がきかない)で、堅実。現実的、忍耐強く努力家、社交ベタで大器晩成型……これ、一般的な山羊座のイメージだそうで。占いを必ずしも鵜呑みにはしませんが、占星術(星の動きによる影響)というのはすこぶる興味があります。わたしは生粋の山羊座生まれ(なので、必然的に山羊座の人が気になるんです。
 ところで、山羊の三賢人を知ってますか? (世界の)ボウイ・サカモト・タケシ、いわずもがなの戦メリトリオ(凄いことですね)です。勝手に呼んで勝手に同胞のよしみの気分に浸っておるわけですが、それはご許しを。まあ、個性はそれぞれ、どこが地味なんじゃい!、というひともいるでしょう。わたくしからすると、やはり、このひとたちは一見派手な感じですが基本的には地味、というか、働き者、つまりは極め付けの努力家だったりするわけで、ソコが実によく理解できる所以でして。

 では、山羊座のイメージで、もっともインターナショナルな人物は? これ間違いなくイエスさまでしょうね。そう、なんたって、クリスマスを知らないひとなんているのか知らん?
 磔刑に処されても復活するあのタフさ? とにかくひたすら耐えるイメージですね。なんたって星人、そうぢゃなくて聖人よ、聖人。父権的で、そして深い精神性に包まれたオンリーワンのジーザスクライスト。こういうと、なにげに自慢になっていますか? まあ、無論単に同じ星のもとに生まれたというだけで、あくまでもお話ですからね。実際のところはわかりません。ただ、自前のカプリス研究による、まわり(かなりの山羊座サンプルあり)を見渡すとかなりの確率で納得することが多いのも本当です。
 そうして、不思議なもので、やはりこうした人間たちとは、不思議とウマがあうことが多い……かもしれない! てなことで、あなたも山羊っこなら、素敵なカプリコーン同盟に参加しませんか?

◆カモンカモンへい家紋

頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか、という例の水戸黄門のキャッチフレーズを引き合いにだすまでもなく、家紋というのはその家の顔であり、記号によってその意を表す、いわばデザインそのものですよね。そこから名前がわかるらしい。ちかごろでいうQRコードなんてーのも、ある種の家紋じゃないんでしょうか? 動植物、文様、用具、建造、自然現象などをうまくグラフィカルに配置したこの紋様を、図録等でながめていると飽きません。デザインの勉強にもなるし、いろいろみていると未だにそのエッセンスは引き継がれているのだなあと思います。カモンって響きも素敵じゃないですか。徳川家の三葉葵紋もけっこう好きですが、個人的には亀甲紋が気に入っていますね。これは亀の甲をあしらったもので、形だけならミツバチの巣の六角形ともいえますが、日本では亀そのものがとても縁起のいいというかめでたい生き物とされているところに由来するようです。代表的なのがキッコーマンのロゴですかね。

紋様=日本的な、ということですが、まあデザインとして考えれば、あらゆる絵文字はひとめでその意味を伝えるための図、というものだから、幅広い意味で絵文字の一種だと思います。最近では女子高生などが好む携帯メールなどでやりとりする絵文字にもみられるし、アイコン、ドット絵なんかもそういう意味で同じですね。絵文字をピクトグラムといいますが、こういうものは簡単に見えるんだけど、じつによく考えられていて、デザインを考えるときのヒント、アイデアにもなるし、じゃあ、ひとつ作ってみるかといわれても、センスがいるものだなあと思います。とにかく柄がたくさん並んでいるとそれなり圧巻で楽しいですね。

◆殻のあと

 真夏に日焼け、で別段驚くことはないけど、日焼け後の皮剥けってなんか気になるのですよ。つまり、過去、というかもうはや不要になった残骸、としての実体なき実体。つまり時間がつまってるってこと。このつまってるってことにいたく、刺激されますのね。
たとえば蝉の殻。脚の先の爪跡までリアル。背中が割れて、そこから出た、ってのが丸出しの痕跡の生々しさ。蛇の脱皮なら財布に入れるとお金が貯まるなんていうしね。どれもがはかなさを宿しつつ、過去の痕跡をどこかでつなぎとめている。

 バラエティなんかで使われるかぶりもの、あれはあれで、ひとに魅せなきゃただのかぶりものでしかなく、終わって脱ぎ捨ててしまえばあれも一種の殻だろうか。
 ペンキ塗りたては、要注意だけど、ペンキ剥げかけってのは極みだ。だって、それは自然が生み出した、これぞエフェクト処理なのだもの。いい感じのジーンズの色落ちなんかもそう。ストーンウォッシュ加工じゃあだめなんだな。人間ならさしずめ、歳のとり方にあたるのだろうか? いい感じのおじいちゃん、いい感じのおばあちゃん。いい感じの死体なんてのは勘弁だけれど。

◆ガラスをつたう水玉たち、雨粒の動き

 雨の日、ガラスに集う雨の友達。水滴競馬。透明なるもの透明なるものの交友の場?一滴一滴違う表情を持っている。大量のそれと混ざれば個はなくなる。つまり1+1=2ではなく、∞無限ってことを意味する。(タルコフスキーノスタルジア」のドメニコの部屋にはそのようなことばが……)
 集団の水は、個という概念を包括し、それでもって、またあるとき、影も形もなく消えてしまう。点が天に転じる不思議なやつら。

◆カラーペンシルハーモニー

 色鉛筆にはちょっとばかりこだわりがあります。あれ、紙との関係でいうと質感がなんともいいんですよ。パステルも好きだけれど、粉まみれはいただけない。絵の具も好きだけれど、けっこうばかにできないお値段、そして始末が面倒、おまけに乾きが遅くてフー。乾きがはやくてちぇっ。その点色鉛筆はクール。なかでも水彩色鉛筆が気にいってますね。まあ、削らなきゃいけないこと、そしてしばしば折れることは御愛嬌。FiberCastel社のものを使ってますが、なんだかとてもなじみがいい。色鉛筆の画家といえば、例えば、ゾンネンシュターン、あるいはクロソフスキーがお気に召してます。絵の具とは違ったタッチ、絵の具がライブ音楽だったら、色鉛筆は室内楽って感じで実に楽しいですよ。

◆軽さの詩学、カリグラム

パソコンや携帯上ではいまや当たり前につかわれてる絵文字。単純だけど、こういうのは感覚的に嫌いじゃない。一目で分かる記号、言葉を視覚化したものは、いわゆるピクトグラムと呼ばれ、一種のグラフィックデザインでもあるわけですが、詩の表現としては、別にカリグラムというのがあります。いわゆる目で読む詩。

    文学的にみると、先駆的にはフランスのステファン・マラルメの「骰子一擲」があり、そして本家はギョーム・アポリネール自身のネーミングによる一連の詩作品、その名も「カリグラム」。今日のビジュアル詩に少なからず影響を与えているのだと思う。ヴィジュアル詩の素朴なものとして、いたってわかりやすく、見たとこ勝負のできるこの手法は、なによりも直感的、感覚的で、多感な十代だったわたくしをとりこにしたのでした。

 アポリネールのは、単純にタテヨコナナメの配列を工夫したものから、雨とか眼鏡とか言ったもののイメージに当てはめたもので、斬新というよりは、機智の富んだ感じとでも申しましょうか。今のように、コンピュータグラフィックスのような精密なものとは違い、手紙などの端にちょこちょこと描き記されていたのでしょう。パソコンなどない時代だから、きっと初めてみた人はそれはそれで驚いたかもしれない。
 詩というものが、仰々しくなく、量り売りで売られる駄菓子のようにして編まれてゆくその魂の軽妙さ、自由さに乾杯。いつの日か、店頭で「詩」が量り売りされるような感覚の時代が訪れないものでしょうかねぇ、なんて考えるのです。さても、あなたの詩は何グラム?

◆カレー度スクープ

ほんとうにカレーって美味いですよねえ、もう、呆れるぐらい好きだと思います。とっくにコドモじゃなくなっているけどいつだってカレーが食いてえなあ、と考えてる。正式にはカレーライスなんですけどね。まあインド料理なんて大げさに考えない、ニッポン人の好きなカレーという概念、それで結構。自分で作ったとき、3食カレーってなことはあたりまえですもん。女の子はデザートが別腹なら、ぼくはカレーなら別腹。次の日もまた。次の日も、といきたいけど、そこでなくなるので、諦めるだけです。だから毎日カレーでも厭きないと誓えます、VIVAインド! カレーを作り出した賢者に敬礼!

とはいえ、身近にこの世にカレー嫌いがいるのを知りました、もう、コトバがありませんよね、うっそぉ~! そんなヒトがいるんだあ、アンタは仲間じゃない! カルチャーショックですわ。本場インド人がニッポンのライスカレーを食って、こりゃカレーではない、と怒るとか怒らないとか、それは可愛いほうじゃないですか? カレーのない食生活はありえません、でなくて? そりゃ地獄です、地獄で、カレーぐつぐつのなかに入るようなものです、なんて冗談はさておき、カレー度はすこぶる高いと思いますね。ご飯に染むぐらい。カレーは汁っぽいほうがいい。レトルトはそんな好きじゃないけど、まあ、なきゃそれでもいいや。カレエ一族、カレーがあればシアワセ。

◆ギャグのセンスで風興しざんす

風に種蒔くものはテンポを収穫する(クロード・ンバリ)

通常会話のなかにはダジャレというものがあり、これはいうタイミングによって、天国と地獄ほどの評価をうけることになります。まず、おやじギャグ(この呼び方自体がすでにおやじギャグっぽくない?)なんていわれると、顔で笑って実は心で泣きます、なあんて。ダジャレはおやじのオシャレ玩具なり。が、ときによりけりもしかり。
 粋な九鬼周造などは、だじゃれもわからないひとは、むなしい、などと秀逸なエッセイに書き記してくれてますけども、まったくもって、うむうむ、そう思いますよ。
 もともと、詩やラップなどは韻を踏むことがひとつの約束ごとになっていて、そこでは無条件にダジャレがからんできたりします。ウイットというやつでしょうか。もちろん、だれも「ダジャレ」とは思って書くかどうかは別で。
 反対に、安易な替え歌なんかはどこか覚めて聴こえます。アイロニー、パロディというのは、所詮知的センスがないとただの悪口ですもの。その点、会話における駄洒落というのは、まあ、罪がなく、ちょっとした清涼剤にならんともかぎらない。でも、確かに、ゆるせないものもあることはあります。そのときは、こっちが上だぞという駄洒落、ユーモアでお返しましょう。
 まさに抱腹させて報復を、ですね。
 まあ、ときには こんなところで、一服。ことばあそびなるダジャレ-ヌーボーなどを気楽に召し上がりにおこしやす。
気を起して、姿勢を起して、ちょっと味気ない空気に風を興してみませんか?

◆銀色の友だち

 蛇口が好きというとなんだかおかしいですかねえ? もっとも、最近の蛇口は洗練されていてカッコいいんですけど、僕が好きな蛇口はひねるところが三角形で、銀色の曲っているやつ。ほら、よく家を取り壊した後の空き地なんかに転がってたりするあれです、あれ。もちろん、一家に一つ以上はありましたよね。ひとよんで銀色のトモダチ。なんで好きなのかはよくわからないですが、あのカーブと機能は水を通過させるだけのもので、それ以上でもそれ以下でもないのです。野球でいうセットアッパー(中次ぎピッチャー)やバントの名手、サッカーでいうアシストとおんなじことです。その地味さ。でもあの形、そして銀色のかもす神秘。この銀はもちろん反射能力があるし、水滴やサビがつくこともあるので、いつも一定じゃあないんですよね。スプーンもそうなんですが、あの絶妙のカーブ感というのがどれほど機能的に無理がないか、というのがひとつ。その他、こじつけかもしれませんが、ボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」で水道の蛇口をつたって移動するうなぎの話があるけども、そういうの楽しいな、なんて思ったことがあります。そういえば、僕らの子供頃は水道の蛇口から直接水を飲んでましたっけね。のどかな時代でありました。

◆クスクスと思い出し笑い

 クス玉を割ろうと紐を引っ張るがどうにも玉が二つに割れない。で思いっきり引っ張るとクス玉 ごと頭に落ちてきちゃって大笑い……てなことを考えてみてください(クスッ)、あるいは北アフリカ料理のクスクスってまるで鳥の餌みたいだなぁなんて思ったらくちが鳥のくちばし状になっちゃった(クスッ)、とか。そうそう、町康の『くっすん大黒』は面白かったな。フランス映画界の恐るべき子供、レオス・カラックス、ミスターダダマックスこと、マックス・エルンスト……いろんなことがクスダマ状につまっていて、ときおりはみ出たやつをみてクスクスとやっとるんです。
 人によっては思い出し笑いを不気味だと敬遠する。なぜだろう、時間差の笑いが、不意に襲ってくるだけなのにね。そう、笑いのディレイ、笑いのダブ(笑)。それらは、過去の回想への肯定的な喚起を意味するものではないのかしらん?
 みんなが同じリズムで生きていないからこそ、自由が幅をきかせるってものだよ。おもえば、昔、クスクス笑いが好きだったガールフレンドがおりました。あの娘はそういや南方熊楠が好きだったっけな。

◆ゲーム小僧の血が騒ぐ

 いまでこそ、ギャンブルなど全くやりませんが、中学生のころは、よくゲーセンことゲームセンターに行ってましたね。ピンボールとかコイン式のスロットなど、ゲーム好きでした。もっとも、ゲームといってもお金がかかります。お金がないといっても、小遣いをつぎこんで・・・・、あのまま、ギャンブラーの道ヘすすんでいたら、今の自分はないでしょう。

そんなぼくがもっともはまったのがインベーダーゲーム。これは一世風靡したやつです。テレビゲームの先駆けとなったので、知っているヒトも多いでしょう。それまではブロックくずしぐらいしかなく画期的でした。今みてもシンプルですがよくできていますね。音を真似したりしていましたっけ。学校帰り、学校の近くのゲームセンターで、やっていたのですが、なにせ、一台しかなく、順番を待ってそわそわしていました。上手いやつがやるとなかなか回ってきません。ゲーム自体は、攻略本などがでてたほど、みんな熱中していましたね。でも一回100円で、ぼくはさほど上手ではなかったので、随分お金はつぎ込んだ覚えがあります。

そのインベーダーが、いまぼくのケイタイのオプションについているのです。やってみると昔の感覚がもどってきます。このチープさ、ファミステ世代でなくてよかったなあ、ふとそう思うのですが。

◆幸か不幸か効果 ON

 効果音全集というのがあるけれど、要するにSEばかりを収録したもので、まあ誰も音楽としては聞かない(といってもDJやクリエーターなどと称するものたちならたぶんにもってたり聞いてたりする)だろうけど、こういうのもたまに聞くといろいろ発見があるものだ。雨ひとつでも、小雨から豪雨までさまざまあるわけだし。情景がいろいろ浮かんでくる。
また、音響蒐集家ってのもいいよね。故コニ-・プランクやホルガ-おじさんなんかはまさにそうだ。あるいは、ピーター・キューザック。まるで蝶を追い掛けるヘムレンさんみたいに、音を追い掛けてる素敵な感性。
 昼間、小学校や保育園のそばを通ると子どもたちの笑い声や遊んでいる声がひとかたまりになってザワザワしていて、それがなんだか、ミュージック・コンクレートやある種の心地よいノイズミュージックに聞こえてはっとすることがある。それとか、電車が閉まるときに鳴る警告音や、連結部やレール上での軋みの音とかがウォークマンの音楽に混ざってうまく入ってくるとき、まるでフリーのジャムセッッションのような感じがあって面白いんだよな。

◆検索ぐるぐる、知恵のグル 

インターネットの時代、ほんと便利だなあと思うのが検索という機能でして。知恵のグル、調べもののカミサマという感じで頼りにしてます。辞書いらずのこの機能、ほんとうに助かりますよね。というか、これぞ21世紀最大の開発かもしれない。WEBの世界、水面下では仕掛けをめぐっていかに上位に来るか、ということに躍起になっているというわけです。だって、それが、直接そのサイトへのアクセス数をのばし、ひいては利益をもたらすにいたるだから、恐るべし、です。こちらは、お気楽人間だから、むしろ、検索をひとつのゲームのようにそのルートをたのしんだり、時には思わぬ発見にたどりついたりと、どちらかといえば、向学のつもりで利用している塩梅ですが、こればかリは日々の進化についていくのも大変です。それにしてもgoogleはすごい。10の100乗というgoogolの造語らしいのですが、アルゴリズムを調整することでこの膨大な世界を牛耳っているまさに一つの宇宙と呼んでもいいでしょう。昔はこういうのにカラクリがあって、それこそ業者の人間はそれを駆使して表示順などを操っていたものですが、最近はそれも難しくなってきているようです。所詮コンピューターといってもそのさきに人間がいうることをお忘れなく。

◆声とエコー

うぐいす嬢(いいなこの響き)とはよくいったもので、声だけで立派になりたつ人種がいます。声優(ナレーター)という族はそうですね。彼らは声そのものが道具、それゆえわたくしの大好きなオブジェ感覚を刺激してくれます。私の好きな声色リストをちらり(古いものもありますが)紹介すると、ムーミンの岸田今日子、サントリーのCMでの大原麗子、「妻を告白する」若尾文子の告白、クロスオーバーイレブンの津嘉山正種のナレーション、日本まんが昔噺での常田富士男の語り、ど根性ガエルのくじらくん、できるかなのナレーションとゴンタくん語、コクトーの詩の朗読、高見山の声、笠智衆の台詞回し、パンチョ伊東のドラフト時の読み上げ声、オスギとピーコの掛け合い、最近では、ムットーニ劇場での本人のナレーションなどが好きです。

 たとえばやまびこって実際この耳で確かめたことがないので想像の世界だけでもの申しますが、ちょっと面白い現象ですよね。声が不思議なのか、その仕組が不思議なのか? 山があたかも返答するかのような錯角とはこれいかに?(やってみたいなぁ)。普通に喋っている声も、電話を通すだけで印象が変わるものだし、ましてやエコーがかかるとムードが一変します。その代表例はお風呂場で…………ババンババンバンバン…..イイ湯だな、と頭にタオルをのっけた陽気なおとうさん、せっけんの泡でシャボンを飛ばしてラララララふんふんふん、の美肌の手入れの御機嫌おじょうさん、お風呂場で鼻歌、なんていうのはいかにも日常の牧歌的風景。立派にホールエコーたっぷりの味付けで臨場感いっぱいのマイカラオケで、そこで口ずさむのはなあに?

 というわけで、そこは気兼ねしないプライベートなカラオケルーム。何を唄おうといいじゃありませんか。ちなみに、自分はとくに決まった歌はないですが、そのときそのときマイブームな歌を口ずさみますかね。とはいえ、意図しないところで、サザエさんのテーマソングだったり、なんでもない昔のアニメソングだったり、ときにはなにげに六甲おろしだったり。なんか普段思いもよらないものが口をかりて飛び出すことがあります。なかには恥ずかしくていえないようなものまで.。

◆ここは甘党、ココア党

一日25杯のコーヒーで文豪になったわけでもあるまいが、かのバルザックのコーヒー好きは文学好きにはつとに有名。でも稲垣足穂のココア好きは足穂ファンしかしらないかもしれない。むかしバンホーテンのCMをやってたのは、栄光の背番号3、シゲオ・ナガシマで、彼がココア好きかどうかは知らないけれど、あながち似合わない飲み物でもないのかもしれない。要するに、ココアはどこかキュートなところあって、世の硬派な男には愛されてはいない飲み物らしい。
 フランスでは、ココアとはいわず、ショコラショーという。チョコを溶かしたもの、つまりはそのままやん、ってなわけで、ホットチョコレートのことだね。そのココアがたまぁに飲みたくなる。
 疲れたときに、チョコをかじりたくなるのと同じである。もちろん、バンホーテンでなければならないほどのこだわりを持っているわけではないのである。森永でも明治でもどこでもかまわいはしない、ただし、お湯で溶いたココアほどまずいものはないという認識は譲れない。自販機での、紙コップで飲むあれである。やはりミルクは偉大な母でございますなあ。

◆心をつなぐてにをは

最近のカップルは白昼街中堂々と手をにぎるし、キスや抱擁ってのも別段おかまいなしにやってますなぁ。恥ずかしくなるようなものもあるけれど、わたしゃ、昔っから別にいいんでねぇかい? と思う擁護派なんで。まあ、年輩のかたがたからすりゃあ、カルチャアショックならぬ、ジェネレーションギャップというやつでしょうか。
 でも、ときおり、本当に仲のいいおとうさんおかあさんたち、はたまた老夫婦もいたりして、仲睦まじき形としてのもっとも自然なスキンシップはこころのスキップを生み、まことに微笑ましきかな、と思いますがね。で、一口に手を繋ぐといっても、手に手をとるものから、腕や腰にしがみつく、あるいは手を回すようなものまでいろんな形態があります。それが必ずしも愛情の濃度だとは思いませんが、関係性の温度、目安にはなるのでしょうね。
 ちなみに、あたしめは、というと元来照れ屋ですが、手を繋ぐという行為そのものは、見るのも、するのも好きですね。母に手を引かれた子供の愛らしき姿、はたまた、手の温度が変化する恋人たちの心のサーモメーター、それって本当にいいものですよ、いくつになっても。国を問わず。

◆コードレス、ノーストレス、つまり高度です 

便利さという点では弊害もありますが、コードのありなしという視点だけでいえば、コードレス(ワイヤレス)であるっていうのは実にありがたいことですね。コードというもののためにしばしデザイン性からは程遠いものが圧倒的にしめられてましたからね。BLUETOOTH電話なんて、いまでも配線がどうのとかいってるわけで、携帯はそれをまったく自由にした点だけで十分にありがたく画期的。まあ、掃除機のように使う時だけコードを引っ張り出すというのはいいほうで、まず、だいたいの家電はコードがあり、コンセントのある場所でインテリアのレイアウトも決まってくるし、なにより足元でごちゃごちゃ、たこ足でイライラ、まあ、悩みは尽きません。

 近ごろじゃ、コードをすっきり巻取ってくれるものもあらわれていますが、どうしても邪魔な気分だけは解消できません。おまけに接触不良で動かなくなったり、それが原因で火災が発生したりすることもあるんですから、まったくもう迷惑ったりゃありゃしない。
 ところが、それを根本的に覆すのがコードレスという概念。携帯やノートブックがもし、どこかに配線を接続しなきゃ使えないものなら、これだけ普及しなかったと思いますよね。そうして、念願だった、家電のコンパクト薄型化、ホームネットワーク化が進んでいて、ラビットハッチの住人にとってこれほどありがたいことはないです。まあ、テレビの方は観ることがほとんどないので、必要ないのですが、近い将来、家電なんかはすべてコードレスになる、と少なからずわくわく期待しているんです。
 どうせ、パソコンでテレビも見るようになるのであれば、わざわざテレビを買うまでもないわけで。要するに、これからの時代、ものをいかに縮小して、なお機能や効率をあげていくか、それによって、モノを減らして豊かになるような自覚が芽生えれば、世の中少しは増しになる気がするんです。

◆ゴーヤは良い子?

ニガウリ、通称ゴーヤといえば、苦いわけです、はい確かに苦い。でも、この苦さこそが、“売り”であって、苦くなきゃただの瓜ですよね。そうなんだけど、私にしても、最初口にしたゴーヤは、ちょっと勘弁、というかそれこそ苦手の味覚でした。が、友達はみなゴーヤ好き、で、ゴーヤ料理をご馳走になっているうちに、おかげさまでゴーヤが食べたい、とまで思うようになりました。

で、実際、ゴーヤってどう料理するのがいいのか、その苦味をどうすればいいのか、検索でちょっと調べると、苦いからいいのです、苦さを活かした料理法など、そのようなものが目に留まったわけでした。そりゃそうだ、と妙になっとくして、その苦味を愛そう、つまりは受け止めようとだけ思い、あとは気の向くまま豚肉とトマトと卵とこのゴーヤをオイスターソースで炒め、かつお節を載せて(あれば刻みノリなんかも)みたところ、これが実に美味しかったのです。今じゃカレーにも入れるし、サラダにも使うし、チャンプルーだけではない幅広いレパートリーに入れています。そうして、ゴーヤのグロテスクな外見も含めて、なんだかいとおしき食べものになりましたとさ。輪切りにするときの感覚がなんか好きですねえ。

◆幸福の機械

猫の言語というものは実に豊かである。決してニャアだのミャアだのというような通り一辺倒なものではない。それは愛猫と暮らしている人間なら誰だって知っていることだ。スリスリしたり、尻尾を振ったり、甘噛みしたり、フワーと威嚇したり、いろんな“言語”を用いて、同居人に何かを促す。その何かを解明するは別に難しいことではないが、言葉にするとなんだか野暮ったい気がしてくる。だからここでは、それをいちいち猫の言語解説として繰り返さないで黙っている。だが、その最たるもののなかで、喉を鳴らす行為、その音だけは実に不思議でつい究明したくなってくる。一体彼らは何を伝えたいのか? ただゴロゴロと書いても伝わるだろうが、実際は表現し得ない何かが唸っている。振動しているのだ。ロラン・バルトはそれを「幸福の機械」と呼んだ。言い得て妙とはこのことか。この幸福の機械が稼働している間は、こちらも思わず幸福を共有している気分で満たされる事になる。これは愛猫を持つ人間の特権だ。少なくとも、この幸福な機械がブンブンうなっている間は、幸福が持続していることを意味する。だから、双方が満ち足りた瞬間なのだ。ズバリ、猫との暮らしの中で最も好きな時間なのである。

◆珈琲ブルース

「昔、アラブのお坊さんが・・・」という出だしで始まるのは西田佐知子という人が歌っていた「コーヒールンバ」。それを井上陽水版で聴いて感動した覚えがありますが、それはさておき、コーヒーと珈琲、あるいはCOFFEEとCAFE。同じものなのに響きが違うだけで、全く違ったもののように感じられてしまう。
言葉の不思議。言葉の魔力。僕はそういう部分にすこぶる敏感な人間だからかもしれないけれど、珈琲という表記を見たら、まずはコーヒー豆のあの形が浮かんでくるのです。その意味ではチェーン店では圧倒的にドトールが好きなのは、あのロゴマークによるイメージの喚起力というやつに他なりません。
で、仮に知らない街で、コーヒーが飲みたいな、と思った時、コーヒーショップという看板と珈琲屋と書かれた看板だと、絶対に後者を選択してしまうじゃないかと思いますね。
当然、店もその響きに沿った雰囲気であって欲しいのはいうまでもありません。結局イメージに支配されているといって仕舞えばそれまですけれどもね。イメージを喚起する言葉の重要性と申しましょうか。
そうしたイメージつながりで申しますと、頭のなかで鳴っているのは「コーヒールンバ」ではなくして、高田渡の「コーヒーブルース」なんかを想定しているのはいうまでもありません。

◆ゲラは地球を救う

印刷所というのは常に笑いの絶えない場所だ。などということは断じてない。むしろその逆かもしれない。確かにゲラという校正刷という試し刷りをゲラとはいうが笑い上戸という意味合いでの「ゲラ」とは無関係なのだ。なんだか回りくどい、さえない話をしているかもしれないが、そこはご勘弁いただきたい。笑う門には福来たる。ゲラ多き場所には幸せが訪れる。少なくとも活気があるし、楽しい。ゲラの本質とはそういうものだ。
だだし、笑いというものに尺度があるわけでもないから、むやみやたらにゲラゲラ笑い声がするからといって、話が楽しいかどうか。
笑いとしてのクオリティがあるかどうかは別問題である。あくまでも個人の資質である。ただ、僕個人はこのゲラ、笑い上戸の人が大好きだ。笑い上戸の人に悪い人はいない、そんな気さえするから、その人がゲラだというだけで好感をもつ、というのは自分だけではないだろう。ゲラが場を救い、ひいては人類を幸せに導く、というのは誇張だとしても、そういう人は幸せな人生を送る確率は消して低くはないと思う。

ちなみに、ゲラダヒヒという猿がいるが、ゲラでおまけにヒヒヒと笑う猿だからゲラダヒヒというんだよ、などと適当なことをいってみたら、ゲラの人はどれぐらい大笑いしてくれるだろうか?

◆究極の鍋将軍は?

冬といえば鍋。もっとも簡単でラクチンな料理が鍋。その割にはバリエーションがあって工夫次第でいろんな鍋が出来上がるという冬の食卓の人気者。とはいえ、材料を調達し、どうせ後片付けはしなきゃならないから、ま、どこまでラクチンなのかはさておき、近頃じゃそれなりの美味しい出汁(スープ)だっていくらだってどうせスーパーに売っているし、やっぱり手を抜くには最適メニューなのは間違いない。
じゃあ、何鍋がいい?という本題にはいると、これが結構難しい。水炊きもいいし、寄せ鍋でもいい。味噌でいくか醤油(出汁)でいくか、はたまた塩か。うーん石狩鍋やキムチ鍋、いやあ、たまにはすき焼きも食べたい。そうなるとなかなか決まらない。そこで私はいいたいのです。湯豆腐でいい。豆腐だけ、旨いやつを用意してくれりゃあいい。野菜はなくても大丈夫。
野菜を用意してくれるなら水炊きにしようと考える。要は欲が出るのです。
で、昆布なんかで出汁をとったところに、白いサイコロ状の豆腐をいれるだけ。あとは大根おろしかもみじおろしとポン酢がありゃあそれでいい。なんならおろしポン酢でかまやしない。ネギはあったほうがいい。七味もありゃいいし、なきゃないでいい。実にシンプルな鍋、それこそ湯豆腐をおいて他に何がございましょう? 究極のダイエットフードをはふはふいって胃に落とし込む。いやあたまらない。ま、京都の南禅寺あたりで湯豆腐を狙って食べに出かけたこともありました。湯豆腐と一口でいっても、そりゃあピンキリ。いずれにせよ、感じなのは豆腐の味。そこは少々無理してでも極上のものを用意できれば、これぞ究極の鍋将軍となりにけり。

◆逆回転でプチタイムトラベル?

ただでさえ音を文字で表現するのは容易ではないのに「逆回転サウンド」をどう表現してよいものやら。というか、別に表現する必要などどこにもないのだが、なまじ逆回転サウンド好きであるばかりに、無用な言葉をついやしてしまったぼくがいる。あのなにかに引っ張られるような、こめかみのあたりをもってひょいともちあげらるような、ちょっとクセのある感じがするあの独特の逆回転サウンドが好きなのである。

音は実際に聞いてもらうしかないのだが、今ぱっと思いつくのはビートルズの「トゥモローネバーノウズ」ではないかと思う。全体の雰囲気と共に、実にサイケデリックなムードの一翼を担う効果的なサウンドになっている例だと思う。今でこそ、ソフトで簡単に逆回転サウンドを作り出せるのだが、昔はそれこそ、録音したテープを逆に再生することでしか生まれしかえなかったスタジオテクニックのひとつであった。その再生音を新たにコピーして生まれるメロディもあるだろう。
かつてボウイはアルバムロジャーのなかの「MOVE ON」という曲だったかで、かつての曲「オールザヤングデュース」の逆回転をもとに作った曲だと告白していたのを聞いた覚えがある。その例に漏れず、この世には有名な曲をわざわざ逆さに再生してうまくぱくった曲というのも随分あるんじゃないかと推測される。
それは別段盗作ではないのだから「ぱくり」という表現はおかしいのかもしれないが、逆回転に惹かれるのは
そうした不思議なプロセスがあるからかもしれない。

ちなみに、詩人で映画も手がけたジャン・コクトーは映像の逆回しを得意にしており、まさに、詩人の手にして最大の武器だと興奮気味に語っていたコクトーの気持ちは良く理解できる。現実に起こりえない時間の巻き戻しが音楽上野出来事として起きている、そう考えることが刺激の本質にあるのかもしれない。

◆心の地図を刷新しよう

社会科目のなかでは地理の授業が圧倒的に好きだった。地理の時間には、手持ちの世界地図を眺めては、見知らぬ国や土地に募る思いを馳せて胸ときめかせていたものだ。歴史も嫌いではなかったが、有り体に言うならば歴史は過去のことであり、地理は現実を意味したのだ。要するに、過去のロマンよりも未来のロマンの方が、若きぼく自身を突き動かす原動力になりえると思えたのである。
けれども、そこからひとつのドラマを知る。その地図を作った歴史上の人物が伊能忠敬である事を知ったきっかけで、忠敬のことをいろいろ調べていくとこれが実に面白い。何しろ、忠敬という人は50を超えて地球一周にあたる距離を、しかも自分の足をつかって歩き、その測量値を地図という現実に置き換えた人だったのだ。膨大な時間と熱量。そのロマン。なんという行動力。ひいてはそれが世界を驚愕させ、幕府さえも揺るがしたというのだから、驚きを禁じ得ない。たかが地図、などと軽率に吐けはなしない重みがある地図作りというものをひとりの男の野望が成就させたわけだから・・・
今日、我々はいとも簡単に地図を手にいれることができる。グーグルマップにおいては、リアルにその場所の情報が写真付きで瞬時に呼び出すことが出来てしまう。それはそれで素晴らしいし、ワクワクもする。けれども、ひとりの人間が普通なら到底叶わなぬような夢やロマンを抱えて、ただひたすら憑かれたように突き進む結果として達成されたその夢の形の前に、テクノロジーの進歩を超越した畏敬の念が生まれるのだ。きたるべきAI時代に向けて、そのあたりの可能性をひとりの人間として心に留めておきたい。なんならば、歳を重ねる毎に地図を書き換えていきたいものだ。

◆ギョっとするスーパー

業務スーパーは少し変わったスーパーである。最近はどんどん増えている気がするが、それだけニーズがあるからだろう。なにしろ「業務」と冠がついているから、一般的なスーパーとは趣が違うのだ。最初はちょっと戸惑った。何しろ違うのだ。何よりとりそろえる商品が玉石混淆すぎて、よくよく自分の目で吟味しないと、たまにとんでもない外れを引く羽目になる。かと思えば、いったいどこの国のものかはしらないが、魅力的商品が立ち並んでいる。要するに世界各国から寄せ集めたごった煮のようなスーパーなのである。それはカルディやコストコ、成城石井といった洗練されたショップとは並列に比べられないのだ。たとえば、冷凍野菜の出所は大概中国産である。いわば、あきらかに怪しげなものが混じっていそうな気配がする。味の方も自分で確かめてみるまでもなく、身構えてしまうが、いざ買って試してみると、さほど気にならないのかも知れない。神戸物産という会社が責任をもって検査して、安全を謳って販売しているが、それを鵜呑みにするしないは消費者の判断にゆだねられる。とにかく安い。安いものが必ずしも悪いわけでもないが、いいわけでもない。それなりのものも多分に漏れず含まれているところがミソで、それを自分なりに吟味するのが楽しいのだ。その意味では市井のスーパーとは一線を記すユニークなスーパーであり、そこに並ぶまか不思議な商品達をみていろいろ発見して試してみるのも結構面白くなってくる。気がつけばギョースーマニアになっている。

◆古都の磁力、こと京都の魅力

大阪に住んでいた頃から、京都という街は特別な街だったように思う。今でも父の墓もあって年一度は行っているし、なんども訪れている場所で馴染みは殊の外深い。でも近いようで、よく知っているようで、実のところは何を知っているというわけでもない気がしている。それは今ますます強固になってゆく。昔都があった街だからなのか、文化というものがあまた形として残されているからなのか、京都に行くたびには発見がある。だから飽きない。そんな京都について一言では語れるとは思っていない。若い頃から寺院巡りが好きだったこともあって、竜安寺や南禅寺、銀閣寺など、主要な寺にはなんども足を運んでいるし、アスタルテ書房という変わった古本屋や錦町商店、イノダコーヒーに始まって、京大西部講堂と言った好きな場所の思い出もそれなりに持っている。

では京都の魅力はと聞かれたら? それはやはり日本人のアイデンティティが凝縮された街だからということに尽きるのだと思う。大島渚のドキュメンタリー『キョート・マイ・マザーズ・プレイス』などをみていても、やはりそれが他者たる自分にも思いが伝わってくるほど、何か不思議な磁力があるのを感じるのだ。いくら文化が成熟し、街が栄え生活形態が変わっても普遍的に変わらない街の空気が京都にはある。そこは他の街とは違うところだ。多くの観光客を飲み込み、今日は観光都市としても今尚その輝きを失っていない。そんな街に住んでみたい気持ちは今も変わらずある。大阪へ戻りたいなどとは考えないが、関西圏に戻るなら京都へ戻ってみたい、そんな想いがある。それはどこか魂レベルで感じる引き寄せのようなものじゃないかとさえ考えるのだ。

◆粉もん悶々、忘れじの庶民感覚

近年、何かと叫ばれるグルテンフリー。その趣旨を健康への警鐘だととれば、パンやパスタ、ラーメンといった小麦をメインにした馴染みの食品に手を伸ばすのには、なるほど、いささか躊躇しがちになるのも無理はない。が、そんな気持ちと闘いながら、なまじ慣れ親しんだものゆえに、完全シャットアウトとまではいかない。中でもいわゆる「粉物」と呼ばれる関西フード、お好み焼きやたこ焼きといった物への嗜好は、大阪という地に育ち、長年育んだ庶民の味感覚を、そう易々と手放せるものでもないのは関西人であれば共感を得るのには困らないだろう。東京においても「銀だこ」の看板を見れば、たこ焼きノスタルジーが刺激されることがあり、ついついあのまあるい球体の食べ物に手が伸びてしまう。お好み焼きに至っては、山芋だのこんにゃくだの、牛すじだの、泥ソースだの、とそれなりのこだわりを身につけており、家庭でもそれなりのものをこしらえるにやぶさかではないのだ。別に食事制限を課される身でもないのだから、これらの嗜好を時には楽しむのは、やはりおふくろの味ならぬ、ナニワの味、ともいうべきか。とはいえ、小麦粉から米粉への転換を模索しながら、その解決策は日々研究を重ねるとして、これら粉物の良さは、敷居が低く、庶民の味であることに意味があるのであって、特別身構えるようなものではないということが念頭にある。つまりは、どれほど舌が肥えようと、金満になろうが、培った庶民感覚を失わないということに尽きるのである。

◆コースターゴーゴー

コースターがお好き? と聞かれて、いやあ、心臓が弱いものでと答える。いやいや、そちらのコースターではありませんで、飲み物の下にしくあれです、紙のやつ。はあ、知ってますけど、あんなものが何か? と言われてしまえば、いやね、特になんてことはないんですが、あのコースター、それこそ無地物からこだわりデザインのものまで、実に様々なコースターがある、ってなことで、つまりは、飲食店の数だけ、コースター一枚を巡ってのロマンがあるってことなのですよ。デザイン稼業を営んでいると、意外や意外コースターの需要が多いことに気付かされるのでして。紙や厚み、形。コースターと一口に言っても様々なものがあります。まあ、デザインを競うものでもなく、店のイメージや雰囲気に即して、いかにシンプルに際立たせるか。もっとも、それはあくまでのデザイン考としてのコースターですが、コースターの本来の役目は、飲み物とテーブルを挟むクッションであり、一つのアクセントともいえる飲食店のアクセントなのですがね。近年ではコースターを記念品や単なる販促物として制作するニーズも増えているようですが、僕はその飲食店、とりわけバーなどのお酒を嗜むようなスペースでは、良くも悪くも、どうしてもこのコースターに目がいってしまうんですよね。

◆競馬新聞読本

ある時期、競馬にハマっていたことがあります。かっこよくいえば、ブコウスキーや寺山修司を気取っていた、ということもありますが、所詮ギャンブル。金が動く。人間が出る。面白いといえば面白いが、何事もほどほどにしないと痛い目に合います。

そんなことはさておき、競馬の楽しみ方は人それぞれ、血統に拘ったり、騎手や厩舎に拘ったり、やれ馬場だ、距離だ、左回り右回りだ、と蘊蓄だけは一人前に叩く、いわゆる競馬マニアは少なくありません。僕が好きだったのは、あの競馬新聞そのものですね。スポーツ紙から専門誌まで、今はネットの予想もたくさんあるから、何を参考にするかは好き好きですが、競馬場へ足を運んで、赤ペン片手に競馬新聞を広げるスタイルがいいんですよね。そもそも競馬新聞というのは、見事に競馬のレースのことしか載っていないわけで、それこそ、馬に関する情報がいろいろ載っている。血統や体重は当然、近走のデータまでレースを予想するための情報は一通り掲載されているのですが、誌面によってカラーがあって、それはそれで面白い。要するに、予想に関係ないことが一切省かれているということが、これほど気持ちいいと感じることがないのです。一般紙や雑誌の類だと、それぞれいろんな情報がてんこ盛りに入っていて、そこから欲しい情報だけを差し引くと、ほとんどどうでもいい情報ばかりだと気づくものです。今は競馬場自体がアミューズメントパークのような体裁で、家族づれで雰囲気を楽しむこともできますが、地方の競馬場なんかの古き良き時代の競馬場で、競馬新聞片手に、馬券を握りしめ、絶叫するような、そんな絵は今や絶滅しつつあります。それゆえに、ノスタルジーを感じるものです、