日常ステッキ【は行】

てしなき欲望
ととひととの攻防を避け
へんのことわりは
いわへのいのり
ほを緩ませて

◆廃屋めぐり

 散歩が好きこうじて、近所から始まって、ついつい見知らぬ町先まで旅人のように、ときには迷子のように徘徊してしまうこの性分。あたしゃハイカイオジサンってとこかな。
 で、このごろなんか目に付くのが、無人の家、つまり廃屋的空間なんですよねぇ。都会の住宅事情は新陳代謝激しいから・・・。けっこう立派な家もあります。ただ、雰囲気がそれなりに異様で。そこで冒険心というか、好奇心がそそられるのは昔っからでね。こどものころ住んでいた場所では、防空壕跡もみつけたことがあったもんな。
 こうした未体験ゾーンにこっそり侵入して、といっても野良猫のようにただ敷地内に侵入するってわけ。(それって違反?)で、ここはなんかに使えそうとかいいながら、ままごとロケハンにひとりごちてみたりして。
 そういえば、ヴィクトル・エリセ監督の映画「みつばちのささやき」(73)で、姉妹だけの秘密の隠れ家、そこは西部劇を彷佛とさせるだだっ広い荒野に、ぽつり古井戸があって、その近くにいわば政治犯が隠れてたりしてね。あれは本当に素敵なロケだったなぁ。
 でも、ちゃぶ台に茶碗とか箸が雑然と残ったままの家のなかをみたことがあるけど、あれはあれで生々しくてちょっとぞっくとした。現実をリアルにバックされてしまうんだな。まあ、このようにヒトのいない空家っていっても背筋がゾォ~、というものにはなるべく近づきたくはない。その空間の要因を自分なりに分析すれば、この不況の折の一現象なんて言ってしまうと、それまでだけど、元住人たちはまたどこか別の屋根の下で暮らしているのだろうかと思って、まるで映画のなかのひとシーンのように思えてくる。それは土の中や、橋の下だったり……などと。
 とにもかくにも、誰かがそこにいたということで、いろんな空想を運んでくるそういう場所が好きなのかもしれない。

◆はい、チーズ

「600種類ものチーズを持つ国を統治するのはどだい困難である」そんなようなことをおっしゃたのはフランスのドゴール将軍。いやはや、それほどチーズ国家であるということなんでしょうが、わたくしが味で知っているチーズなど、ほんの一握りなんだな、うむ、モッツァレラ、パルミジャーノ、ロックフォール、カマンベールなどなど。こんなじゃ、チーズ通などほど遠いなあ、いやはや、しかるに、チーズには絶対ワインだね、などとも申しませんよ、はあ。でもね、チーズは好きなんですよ、基本的に乳製品は大好きなもので。ただ、山羊のチーズの匂いには卒倒しそうになりましたけどね。ありゃ凄いんだから。

まあ、青かび入りのロックフォールやゴルゴンゾーラ、いまでこそ、美味しい美味しいと食しておりますが、最初はちょいとビビりましたわ。これって、あちらのヒトが納豆やら生魚を差し出されて、躊躇するのとおんなじなわけで。そういいながら、一度口にすると病みつきになるほどはまってしまいました。もっとも、ニッポンじゃ、ホンモノのチーズが食卓に上るなんて、実に贅沢なことですよね、だって、現地の三倍するのですもの。だから、普段はKiriなどで我慢するし、たまあに特価になったものを買ってきて、楽しむ程度です。

ちなみに「boursin」ブルサンという銘柄のフランス産チーズがお気に入りです。さすが美食の国からのお届けものだけあります。フランスパンに塗って食べるとホント美味しい。ワインがなくても、珈琲や紅茶、ミネラルウォーターでも十分です、トマト料理などと一緒に、はい、そこはちょいとほプチ・プロバンス風に、なあんて気分になるのもわるくはないでしょう。にんにく入りとこしょう・香草入りがあり、普通にスーパーでも売っててご存知のかたも多いと思います。

◆波形八景物語

DAW少年にとって、波形とは切っても切り離せない関係ではないかしらん。数学の時間、サイン/コサイン/タンジェント、には頭を抱え込んだ文科系の頭にだって、音の波形はにっこりと微笑を返す術をおもちになっていらっしゃる。というわけで、最近のシンセは皆デジタルばかり、どうもデザインがねえ、と思っていたけれど、実際ヴァーチャルですがアナログっぽいものもあり、かくいうわたくしは、NORD LEADなるシンセを愛用しているのです。見た目につまみが並んでいてさ、ちょいとカワイイ。もちろん、音もすぐれ物。とはいえ、LFOだのVELOCITYだのOSCだのは、じゃあ、どういう意味っていわれるとコトバにつまってしまうことがあり、いやあ、苦笑だわ。でもね、実際音を出すと、ああ、なるほどね、ってわかるから、心配なんていらないんだ、と自分に言い聞かせる。それでね、ちゃんとつまみの横の波形の図があってさ、丸い音、ギザギザの音、とんがった音などが一目でわかるって寸法。

で、そこまでは、当たり前じゃないか、といわれるでしょう、でもさ、近ごろは、デスクトップがそのままシンセになっている時代だから、その進化版は、実際波形そのものを編集するってわけなんだな、で、音のしくみってのがよくわかる。つまり、耳に飛び込んでくる音の実体というわけだね。そもそも、波形って生き物なんだよね、ぼくにしてみれば、そこが琴線に触れるところだ。だってさ、心電図なんか、波が線になってしまったらさ、それこそおしまいなんだもの。そんなわけで、波形はとても有機的な象徴のように思えるのです。

◆禿げたペンキとヒビのガラス

 ときどき、自然ってアーティストだなぁと思うことがあります。たとえば風化というやつです。長い年月、ものはどんどん時間という魔法で変化してゆきますね。鉄なら錆びるし、木などは腐食したり。ペンキははがれてきたり、壁はコケとカビで被われ・・・。そんなとき、醜さよりも、その模様の楽しさ、美しさ、変化の妙にはっとしませんか。まさにアブストラクトな巨匠さんですね、抽象画の大家ここにあり。そのまま切り取って飾ってしまえば、立派な現代美術になってしまう壁ってありませんか? もっとも、それは観るひと次第ですけど。
 ほかにはガラスのヒビってのも素敵に思えるんです。デュシャン先生の「大ガラス」はつとに有名ですね。ヒビも立派な作品ですもの。はい。で、これはちょっと物騒なことですけど、ピストルに射ぬかれたガラスってありますね、蜘蛛の巣状にヒビが入ってるやつ。あれ、って結構魅惑的じゃありません? もっとも実物は観たことがないですが、写真や映画などで観た記憶があるだけです。あんな造型を想像するとわくわくします。といって、ああいうのが、日常茶飯事、どこにでもあるよっていわれても困りモンですけれどもねぇ。

◆ばってらめぐりて

 コマンサヴァ? 君はスシが好き? と鮨ネタをフランス人にふると、 すきだけど、souci=「気掛かり」はいらないネ、とサバサバといわれる……なぁんて小咄はダメかしら? 
 さて、鮨ネタで何が好き? ときかれて、なんだろう、ととっさに考えるぐらいだから、通でもなきゃ、鮨を語る資格もないのだけれど、穴子はいいですよね、あとはそう、ばってらです! いわば棒寿司系ですかね。ちなみに行列ができるほどの店で、梅が丘にある美登利寿司の棒鮨はさすがにう旨かったなあ。穴子ももちろんいけます。棒鮨っていうのは、手巻きやにぎりものにない「頑迷さ」「実直さ」が魅力的でしてね。比較的自由な寿司とのフォルムにあって、これにはかなり抑制された美を感じるんです、はい。やはり、ご飯のケーキって感じもありませんか? 強引ですかねぇ …
 なんでか、鯖のあの背というか腹というか模様がちょっとそそられるのでしょうね。ちなみに、あの模様でレオーニの「平行植物」に出てくる人間(オーストラリアのカオリ族なる)顔を思い出してしまいます。はて、何ゆえに「ばってら」、なのか。気になることば、その語源はポルトガル語のバッテーラ(ボート)なんだとか。また薄く乗っかった昆布さえもいい味を出していますね、昆布というのは、味噌汁やなんかの出汁だけでなく、こんなとこでもキチンと活躍しておる貴重なバイプレヤーですよね。

ちなみにスーパーで100円〜200円の相場で売られてるサバ缶、あれも好きですね。味噌汁にしたり、サラダに入れたり、野菜と炒めたり、ご飯に混ぜて炊いたり・・・あれって結構万能で優秀な一品なんですよね。保存食として常備してあります。

◆バドミントンの羽根はね‥‥  

このスポーツ、するのが、とか、見るのが、とか、そういうのではありません。その用具、なかでも、あの羽根(シャトルという)が好きなのですよ、はい。道具フェチなんでしょうか、あたくし。ほとんどのシャトルはガチョウの羽らしく、羽軸が強く、均一のモノを入手しやすいのが理由だだそうで。あれはおそらくカエデなんかの種々の構造を真似しているんでしょうね。できるかぎり滞空時間を長くするために羽をつけて、ちょっとでも遠くにいって着地したい種みたいに落ちるときもとてものんびりとって感じで。そんなだから、やるにしても、自分の性格としてはこっち派なんです。やはりボールってスピード命ですからね、テニスなんかじゃのろまにとってはつらいんです。
でも、良く考えれば、これ完全に“球技”なんかじゃありませんよね。何になるのかな? 羽根技? それはさておき、でも実にうまくできていますよネ。羽根突きとくらべると、スポーティーでモダンなのはあきらかにこちら。さて、一番の魅力、それはやっぱりあの羽根。バドミントンの羽根は、オブジェとして魅力的なんです。羽根突きは最近ではあまり見かけませんネ。といってバドミントンも外では見かけませんけど。磨耗したシャトルは以後プレイ上で使用されることはないですが、あれってつるすことでテルテル坊主にもなるんですよ。なんて考えるひとはそういないでしょうね。羽根部さえ除去してしまえば、なにやら、建造物の骨組みのように見えますよね。この、廃れてもただ廃れない要素が気を惹くんです。廃れた後こそに輝きが出るなんてねえ・・・

◆パームサイズラブリー

昔から、グリコのおまけとかミニカーとか、いわば手のひらに収まる小さなものが大好きだった。いまなら高額の値で売買されているだろう、数々のお宝(タイガーマスクの人形をけっこうもっておりました、ザ・グレイト・ゼブラ、ザ・ライオンマン、ザ・ゴールデン・マスク、あとロボコンの超合金シリーズなどなど)をもっていたけど、みんなとおの昔に捨てちゃったなあ。そういう意味で懐かしい。やっぱり夢の縮小版というかね、いまその傾向が顕著で、あたまのなかにはたえずいろんな世界のミニチュア=小宇宙がひしめいているよ。ドルズハウスなんかをみても楽しそうだなあと思う。大きな家に住みたいというよりは、こんな風に自由に想像をめぐらせることのほうが楽しかったりする。欲があるんだかないんだか。いわゆる大好きなものをずっとそばに抱えもちたいという願望があるのかもしれないな。
アニメなんかのキャラクターフィギュアというのは、ちょっと存在感が強くて、淋しい部屋の賑やかな雰囲気づくりにもなるね。フィギュアショップになると、ちょっと物凄い空間だ。それらをながめていると、小さな子じゃない大人がはまるのもわかる気がする。女の子がぬいぐるみをそばにおいておきたい気持ちと一緒じゃないかな。中には参ったなぁ、というものもあるけれど。
さて、わが部屋にはチキチキマシーン猛レースやらム-ミン谷の仲間たちや、水木妖怪シリーズなどがいるんだけど、最近気にいっているのはロンドンのトイカンパニーAMOS TOYから発売されているジェームス・ジャーヴィスのフィギュアたちだ。何年前、渋谷のパルコで原画展をやっていたな。特徴あるグラフィックでじんわりインパクトがある。ぼくがもってるのはIN A CROWシリーズの「Forever Sensible」というやつで、ヒョロ長のAstridなんかがお気に入りかな。今風のファッションに身を包んでポップな感じだけど、表情に愛嬌があるヒト懐っこいヤツらが好きだ。ヘンにアニメ臭くない感じがロンドンだね。

◆ふぁんたす竹林

竹を割ったような性格とはよくいったものです。迷いがなく決断がはっきりしているという意味ですね。また、雨後のタケノコということばもあるとおり、真直ぐシンプルで、力強いイメージ。でも、「竹林」となるとむしろ幽玄的というか、何やら不思議なたたずまいをイメージしますね。幹が樹木ではなく、緑、しかも中が空洞だからでしょうかね。それだから、かぐや姫のようなお伽噺がイマジネイティブに広がっていくんでしょう。精神的に疲れた時行きたくなるのは海が、竹林ですね。

◆ふっかつロマンポルノ

 高校生のとき、オオサカの十三というちょっと妖しい町で、はじめてポルノ映画というものを見たわけですが、なんだか、猥雑なもの=うしろめたく思っていたのでしょう、随分見るのはどぎまぎしました。もちろんいうまでもなくR指定でして。
 あのポルノ映画館のカビ臭さ、しょんべん臭さ、いわばしみったれた空間は、懐かしい思い出で、その後、随分と映画をみてきましたが、ロマンポルノというジャンルはいまだにちょっとした冒険ジャングルですね。まあタイトルはしょうがないとしても、中身はけっこう玉石混交で、ハッとするぐらいの名作もゴロゴロある。
 が、やはりいいなというのは、そうそう出会えません。感覚的な小沼勝、情緒に訴えうる神代辰巳、シュールで斬新な田中登や鬼才曽根中生。自分にとっても、それら巨匠の作品は、エロスを扱いながら、人間というものをきわめて豊かに描き出す隠れた名作ぞろい、映画界のあまり陽の当たらない偉人さんの仕事ですね。
 昨今ではピンク映画は、確実に新たな映画史をアンダーグランド的に展開していますね。個人的には今岡信治という監督が気になっていますが、ピンク四天王とよばれる監督たちがおのおの盛り上げてくれていますし、ここを通過して、多くの脚本を手掛けていた小林政広など、世界に羽ばたこうとしている未来の巨匠もいる、というのが現状で、偏見を無視してひそかに注目しております。

◆ふぅ~じっこちぁゃん大好き

暑い夏、よく冷えたビールに枝豆。それだけありゃあ十分。そんな人は結構いるんじゃないでしょうか。豆好きなわたくしにとって、ふじっこのお豆サン、であるとか昆布ないと食卓がさびしい。スーパーにいって手がのびる、これ、ちょっとしたご飯のオトモにさせていただいておりますです。元来、ひじきやらわかめ、海苔や昆布などにいたる海草類は好きでして。これら海の幸にはミネラル分が豊富に備わっているわけでして、おまけに保存食にもなるし、つくづく海は偉大なる母だなあと感慨にふけることがあります。
 そして、納豆しかり、豆腐しかり、豆類というのもとても栄養価の高い食物だというのはもちろん、さすがに甘納豆はあまり食しませんが、このふじっこシリーズをみると、ふじっ子というのはとても身体にいい食品を過程に手ごろに供給する食品会社だなあ、と思うわけです。無添加という記載も目につきますしね。これからもよろしく、ふぅ~じっこちぁゃん。

◆ブーケの心得

 男が女に花を贈るってどういうことだろう、なんてことをふと考えたりします。というのも、たいていの女の人は花を貰うのが嬉しいと思うそうです。そして、彼女らもまた、男性というか、たとえば、自分の好きな人(アイドルやスターたちを含む)に花を贈る習慣をもっている。確かに花というタームは女性的なモティーフだけれど、これっていうのは、おそらく、遺伝子レベルの情感なんだろうな、むしろ、文明のシンプルな時代であればあるほどこうしたシンプルな行為で意志が伝わるものなのかな、とそんなことを思い巡らせていました。というのも、自分自身、やはり、母親は花が好きだったのを知っているし、あげると喜ぶし、まわりの女の人を考えても花を嫌うひとはいませんしね。宝石や高価な洋服を買ったりするのは抵抗があたりしますが、好きなひとになら、もちろん女の人ですけどね、花を贈ることが恥ずかしいとは別段思いませんものね。欧米だけの習慣という時代でもないはずだけど、どうしても日本では儀式のときのお供えもの、といった観が強い気がします。むしろ、何をあげていいんだろう、と迷った時には花をあげれば、と短絡的に思うこともあります。もちろん、決して手を抜いているというわけじゃないです(笑)。
 けれども、どの花をあげよう、というのは考えますし、悩んだりはします。玄関一杯の赤い薔薇を、なんてことはこれから先もないとは思いますが、あまりにも華々しいのは嫌でなので、むしろさりげなく効果的に束ねられた色とりどりのちいさなブーケなら、自分がもらっても嬉しい気がするものです。花をインテリアとして考えてみるということでしょうか。メイプルソープの花の写真は美しい、というよりは、官能性をも際立たせた造形讃歌ですよね。たとえば好きな花は、といわれればガーベラが好きです。花言葉の意味をしらべたら「親しみやすさ」ということでした。もっとも一輪で絵になり、長もちするから好きなだけなんですけどね。おやまあ単純、アンチロマンな結びだこと!

◆無精の悲劇を卑下にせず

 無精髭が文字通り無精で、不潔なのはそのひとのイメージに負うことが大きい。いまや、ヒゲというのは眼鏡同様ファッションの一部になっていて、ヒゲが似合うというのは男名利につきる褒め言葉ですよね。かくいうわたくしも、十分ヒゲ男でして、まあ似合う似合わないはわからないし、ひとによってはキタナラシイで終わってしまうのだろうけれど、ヒゲのある生活はなかなか気にいっておりますよ。もっとも、無精ではないとはいいませんが、まず毎日剃るというのがただいやだというのがあります。肌が荒れるし、場合によってはひりひりするので、ある程度生やしておいて、すぱっと剃る、また生やす、という繰り返しがしばらく続いておりました。しばらくぶりに剃ったあとのなんともいえないこざっぱり感がたまらなく好きですね。
 いずれにせよ、無精ヒゲをブランドにしたのはなんといってもゲンスブール男爵。みようによってはだらしない風貌の烙印を押されかねないところ、危うき彼はみごとに妖しいダンディズムできびすをかえすのですから。最近ではギャロなんかもいい線いってますね。もっとも、彼らは“できる”男たちですけれどもね。シロウトじゃとても太刀打ちできませんぜ、坊や。
 きっちりとそろえられたヒゲもいいですね。まあ、チャップリンのようなちょびから、清順爺の山羊あごひげやダリのような宇宙ひげまで、ヒゲもりっぱなオブジェ感覚で、立派に紳士の小道具。昔は、ヒゲなどと無縁だったのになぁ、、、そう考えるといつのまにか立派に男くさい男になっているんですかね。もっとも好きなのは3ミリ程度の状態です。そのまま留まってくれればいいんだけど。

◆ブラシでコスプレ

 クラスにひとりやふたりドラマ-志望がいて、休み時間とかになると自分のもも打ちパタタン、ってな調子でスティック握ってリズムの練習しているひといたりしませんでしたか? ドラムは音の関係でなかなか練習が大変でものね。でもブラシでサササ、っていうのなら、けっこう部屋でも出来そうです。なかなかどうしてワビ、サビの世界ですよね。そういうのが分かったとき、一丁やってみたろけ、とあたくしめも、ブラシだけ買って、新聞紙ヤ雑誌を束ねたインチキドラムキットで真似事をよくしていたんです。バップのジャズのドコドコ太鼓は無理でも、お庭のお掃除感覚、擦って触って、円描いて、のようなあのドラミングをやってみたいなぁと。まあ、どだいカッコだけの遊びゴコロだったんですけども。

◆プリティーアプリケーションズ

 いまはだれでもホームページが簡単につくれてしまう時代ですね。自分も最初は随分苦労しましたっけ。なんたって、左も右もわからない。HTMLというのは立派に言語なんですから。もちろん今ではある程度理解して作りだせるわけで、まあたいていはソフトを使ってのこと。あるいは、最近じゃ充実した無料テンプレートが配布されていたりするし、別に知識がなくてもそれなりのものは誰でも簡単に作れる時代です。わたくしはそれを仕事にしてはいますが、それでも数あるソフトのなかで、自分に合うものに出会ったとさえ思っているのです。お世話になっているのは、サブスク戦略が見事にハマったAdobe系のもの。紙媒体のデザインからウエブ系統まで、全てが連動しており、実に便利で有能なソフトたちの恩恵に預かっております。ソフトがやるからといって、個性がなくなるわけでもなく、要は道具ということですよね。道具の前に人間ありき(私的にはHuman Technology Malti Langage)。これらは開発者によってじつによく設計されているのが良く判ります。名前からして「夢紡人」ですもの。すてきだなぁ。
 これら強力なヘルプがあって、形を設計するデザイナーという仕事も、結局は感性と日々の探求の成果が反映されるだけというところに結局は行き着くんと思っているんです。

◆古びるところが素敵なのさ

 安藤忠雄、あるいは磯崎新、いわば著名な建築家諸氏による建築物というものは、たしかに、華があり、ご立派、すごいのだろう、といって、なにが凄いのかはいまいちピンとこない場合もあるにはあるが、それはそれで、やはりそびえ立っている。建築物というのは単なるオブジェ、ゲイジュツ品というわけではなく環境そのものへの配慮や経済性、つまりは公共性などが絡み合ってのもの、というのはしっていますよ、はい。でもね、まあ、わたくしの観点は、すこぶる単純で、ココロに訴えかけてくるもの、であれば、有名無名、大規模小規模は関係ないのです。でね、まあ、そうした建築、モニュメントを含めて、とある場所へ観光地のごとくでかけなければ、というのじゃなく当然いいわけで。

上京して初めて住んだ深川の佐賀町にあった食糧ビルディングの解体が決まったとき、ほんとうに哀しかった。あの良さは、今、新しく建ちならぶどんなモダンで、斬新なものにも変えがたい魅力がありましたもの。まあ、時代の波、権力の前に、なす術なく記憶のなかに消えました。そうねえ、きっと古いものというのは記憶にだけ住みつづけるだろう、希少性がココロに響くというのもありましょう。そんなわけで、現存するビルヂングたちには、いつまでもお元気で生き延びて欲しいな。そうそう、京橋にある某映画学校兼試写室を詰め込んだKビル、いいんですよねえ。その空気、雰囲気こそ、創造性と絶対に無縁ではござらん、そう思っておりますのよ。

◆ヘイ、ミスターベースマン

低音の魅力はひとえに、安心と渋さ、つまりそのオトナの魅力とでももうしましょうか。で、楽器もまたしかり、この低音パートである、ベース、あるいはバスクラリネットなどの低音こそが、むかしっから好きだったんです。ベースという楽器、ここではエレクトリックベースのことをいっておるわけですが、いまでこそ、まあ、別段なにも後ろめたいパートなどではなく、渋さの魅力で音楽シーンに君臨しているいわば屋台骨、文字通りのバンマスとでもいいましょうか、その昔なら、リードパート花形パートに漏れたうらめしや、うらかたさんの代名詞だった。なにせ重い。そうはいっても、ベースの魅力にとりつかれたものは数知れず、わたくしもまたそのひとり。もっとも、ギター6弦、ベース4弦、と数のうわべに負けただけといえば、そんなまことにおはずかしい理由は、いまとなっては笑ってポン。まず、一番最初に好きなったベースプレイヤーはというと、なにを隠そう、POLICEのスティング兄貴。いまでこそ、滅多にベースを握るってなことがなくなりましたが、トリオということもあって、ベースの威厳がばっちり保たれた構成に、子供心に惹かれたのでしょう、Walking On the Moonが練習曲となり、耳コピーにてベース道を刻んでおりました。その後、ジャパンのミック・カーンの毒気にやられてフレットス界隈にまで、足を延ばしたベース小僧、パーシー・ジョーンズやジャコ・パストリアスの狂気な天才ぶりに恋い焦がれながらも、ジャー・ウ-ブルの地平線ベース、というのか、あのベタ弾きにも大いに感心したニューウエーブ愛好期を経て、あの伝説のハリ-細野さんによって真のベースの渋さ知っての、ベース道をあゆんだ元ベースマン、いまだ人生裏方そぞろ歩きにて、はやいものですね。もっとも、あのジャンボボディーのウッドベースにゃあこがれはあるのですが、さすがに身の丈をもってして、断念せざるを得ない、さような慚愧うずまく低音への憧憬でございます。

◆ベジエさんは愉快だな

お魚くわえたドラネコ、を描いてみて、といわれれば、紙と鉛筆でさらさらさら。それはそれでいいですが、パソコンで、しかもデータにしなきゃならんとなると、描いたものをスキャンして、などというのはちょいと無理がある。ぼくは、アドビ、イラストレータを立ち上げてパスってえので描いてゆくわけです。もちろん、トレースも出来るし、自在に絵も描ける、いわゆるベジエさんが生み出したベジエ曲線というやつです。点と点を結んで、その間にある点の位置で弧を描くんですね。

コンピュータを使うデザイナーならだれでもお世話になっているはずで、自動車から靴まで様々な設計・デザインの分野で活躍してくれてます。これさえあれば、仏か阿弥陀か、その角のまるさ、どんな丸みにも対応できる実にすぐれ物なのです。まあ、実際コンピュータで絵をかくといっても、いろんなタッチの再現ができますが、このシンプルな、それでいて美しい曲線なくしてはなにも語れませんね。

◆ボサッとするのもいいもんだ 

 ボサノヴァっていうジャンルは、ポルトガル語で新しい波っていう意味ですね。フランス語じゃヌーヴェルヴァーグですが、こちらは一般的に映画のジャンルとしてだから、ちょっとニュアンスが違いますね。イギリス発祥のニューウエイブなんてジャンルもありますね。同じ意味でもイメージは違いますね。けれど、ボッサというとだいたいイメージはわきます。ちょっと革新的なカエタノに対し、ボッサといえば、なんてたってジョアン・ジルベルトが大好きですね。ギターじゃなくて、ヴィオランですね。あの声と指との醸すハーモニーの見事さ。それにジョアンの場合、オーケストラゼーションが加わってくると壮大ですが、なによりもこんな謙虚でエレガントでチャーミングな音楽って、世界中ないんじゃないかな。その昔はべつに思い入れもなく、純喫茶のBGM程度にしか思わなかったけれども、今じゃとても大切なお友達、人生のセンセイですかね。
 ボサノバを聴いていると、およそ、いらいらしたりすることがなく、いわゆる、「癒し」の一種ということもありますが、人に、動物に、物事に、やさしくなれるんです。反面、歌詞などの内容は、実はもの哀しかったりしますが。それって哀しみをたくさんしっているから、ひとはひとにやさしくなれるっていうことなのでしょうか? この音楽の凄いところです。

◆星型肛門

ゆで卵に何をつけますか? といわれたら、自分は間違いなくマヨネーズと答えます。塩ってなぜかイヤなんですよ。そのくせにマヨネーズかけ御飯はチョットね、って思うニンゲンだけれど、ゆで卵や目玉焼きには絶対マヨネーズがいい。ちなみにプラスアルファ、半熟派がベスト。あれにマヨは最高です。ところで、そのマヨネーズの口、よくみれば星形なんですよね。これって単純だけど、この発想なかなか好きですねぇ。まあ、ホイップにしてもなんにしても練りものは星形のほうが出がきれいだから、機能的な問題ということなんでしょうか。ふと神様は人間のお尻の噴き出しをなぜ星形にしなかったのだろう? そうすれば、少しはトイレも楽しくなったのにねぇ‥‥なあんて考えたりしますね。

◆ベレーの下に広がる無限の暗闇に一抹の光を投げたとせよ

 普段ベレー帽を被っていると、未だに絵描きさんみたいですね、であるとか、やれ手塚治虫みたいだ、なんて言ってくる人が必ずいる。もちろん、かつてはロダンやピカソと言った芸術家、あるいは手塚さんや藤子不二雄と言った漫画家のトレードマークだったのは記憶しているから、そんなイメージを躍起になって否定したいわけじゃないんだけど、あえて帝王マイルス風にいなすなら、So What! といいたい。

   ただ、今の時代はそれがファッションとして被る人が増えているし、女子はもちろん、男子だってなかなか上手に着こなす人もたくさん見かける。だから、単純に似合ってる似合ってない、可愛い可愛くないという反応であればすんなり理解出来るし、洒落ているねと言われば、素直に嬉しいことなんだ。

     ベレーはフランスのバスク地方が発祥だと言われ、同時にアーミーたちの戦闘服の一部ということもあるから、人によってイメージが異なるのもやむを得ない。自分が嫌だなあと感じるのは、ステレオタイプに物事を決め付けてかかる貧しい感性自体に対してであり、冷静に考えてみると、ベレーは知的に見える感じがするし、確かに芸術家肌の人には似合うのかもしれない。   ベレーがいいなと思うのはは、ツバがない分、帽子というか、頭部への蓋というか、いちいち脱いだり被ったりを繰り返さなくてもいいのがとても楽。だから、絵描きさんに重宝されたのかもしれないな。

◆ひょーいドン

僕が個人的に面白いというか、アンテナに引っかかるというか、好きな芸人の芸というのは「人になりきる」ことがすこぶる上手だという共通点があるように思うのだ。例えば、中川家の礼二然り、友近然り、ロバートの秋山然り。これはモノマネを売りにする芸人の必須技とも言えるし、基本落語家などに元来備わっているはずの資質だと思うのである。そもそも他人になりきるには観察眼というものがなければならない。日常、いろんな人がいる中で、それを客観的に見て特徴や傾向を理解してこその芸なのである。だから他人に無関心な人間はこのような芸風を取ることはないはずだ。その意味で、人間観察が好きなんだろうな、という結論に至るのだが、それだけでは、人を唸らせるには至らない。そこには対象への好意、あるいはなんらかのリスペクトがあって、初めて成立するのではないかという点である。つまり、好きでもない相手のことを、誰も真似よう、取り入れようとは思わないわけだから、当然、その芸には愛というものが生じるのである。サヴァン症候群とさえ言われる偏執的、熱狂的モノマネ芸人である松っちゃんこと松村邦洋や人の特徴を瞬時に捉えることに長けたみっちゃんこと清水ミチコの芸などはその最たるものだろう。そして、そういう芸風に共通して言えることは、人は好きすぎるものに肩入れしすぎると、その相手が自らに乗り移る、つまりは憑依するがゆえに、リアル感が増すのではないかと思われる。それらをひっくるめて“憑依芸”といってもいいし、なんならイタコ芸と呼んでもいいのかもしれない。一つ間違えば、恐ろしいのだが、それが笑いというフィルターを通しうまく中和し、一流の芸として完成の域に達した憑依芸には惹かれ関心するのである。

◆引っ越しアーカイブ

天才北斎先生は生涯93回にわたる引っ越しをしている。それだけ見ても奇行ぶりの片鱗がうかがい知れる。こちらは別段世に言う引っ越しマニアではないけれど、もはや人生の半分以上過ごしているこの花の都東京各地を、それなりに転々と移住してきた渡り鳥。引っ越し自体は好きでも嫌いでもないが、同じところにずっと住むよりは、ときおり場所を変えて気分ぐらいは変えたいという気は絶えずある。

最初にやってきたのは東京の下町深川は門前仲町。当時、いきなり東京へ出てきて住む町ではなかったのかもしれない。深川に着地したのは、当時小津安二郎の映画にハマっており、その生誕地から始めようと考えたのである。そう言えばショーケンの当たりドラマ『前略おふくろ様』の舞台が身近だったことをのちに知ったっけ。その後は中央区新富町、そこは海外へ向けひたすら軍資金を貯める名目で、夜間働いていた銀座のバーの社宅があったからだ。約一年ほど過ごしたが、銀座の外れといっても特に何もなく、深夜三時ごろ、銀座のネオンが消える頃に街を練り歩いて帰宅の日々。風情というほどのものはなかった。で、そこからちょっとしたフランス遊学へと繰り出す。まずは南仏モンペリエ、そしてトゥールという町の大学寮を経て、最後はパリ郊外に一軒家を借りた。そこでは中国人の女の子と同棲していたこともあり、オーナーが中国人で、家もどこかそれ風。一階と二階を結ぶ階段が螺旋階段だったな。

色々あって半年も経たないうちに帰国する羽目になり、当時姉が住んでいた品川武蔵小山の小さなアパートに転がり込んで、そのまま居つくことになった。実に狭いアパートに無理くりに引っ越したがゆえに、姉にも迷惑をかけたねえ。その後そこに一人住んで、芸術三昧の日々を過ごすことになる。で、杉並区、ちょうど西荻窪と久我山の中間あたりに移り住んで、憧れの井ノ頭エリアの空気を満喫したあと、さらに国分寺くんだりまで足を伸ばし、奇妙な相棒との数ヶ月の共同生活を過ごしたが、事情により解散。そこからは愛猫との生活が始まる小平(同市内間で移動あり)へと移り住み、結局今は思いもよらず東京の端っ子江戸川区へと流れてきた。まあ、いずれの町も住めば都、住んでいればそれなりの愛着は湧く。その時その時の思い出や事件が一緒くたになって、記憶を彩ってきた街はどれもが自分の人生から消せない。

北斎先生などは、いやはや93もの物語があるのだ。でも案外本人は何も覚えていないのかもしれない。じゃなきゃ、あんなに凄まじい浮世絵の数々を残すことができたのだろうか。そんな気もするし、でも流石に叩けばいくらでも埃は出てくるのが引っ越しというもの。これだけは他人がとやかく言う話じゃない。

◆ほらみてごらん、マンホーラーに光あれ

マンホールの魅力、などと唐突に言い始めてもあまり賛同を得られない話かもしれないが、実は意外にも一部では関心の高いアイテムでもあるのだ。実際に収集している人もいて、そういったマンホールマニアを「マンホーラー」と呼ぶらしい。驚いたのは一枚のマンホールの値打ちだ。わずか数千円単位で売買されるというから、確かにマニアにとっての敷居はさほど高いものでもない。あんな重厚な鉄の円盤ゆえに、もう少し希少価値が高い代物のようにおもっていたのだが、それはどうやら錯覚らしい。マンホールというものが、実は画一的でなく、とりわけ下水道関連のものは各自治体によって、多種多様なデザインが採用されている。実にフレキシビリティに溢れている。その土地を初めて踏んだときには、まずこのマンホールの蓋のデザインに目がいってしまう。アニメのキャラクターやまるで版画のようなグラフィカルなデザインなど、みていてこれがなかなか楽しい。僕の好きな京都の街並みに見るマンホールは、統一感があってクールだ。ちょっとした家紋の進化形にも映るし、そこは流石に伝統を感じさせる。ちなみに、東京都は桜の花びらがモティーフのもので、特に目を惹くものでもないし、特にそそられるものでもない。全国を津々浦々歩き回っているわけではないので、別段詳しくも何ともないのだが、今はネット検索をしただけでもいろんなデザインのものを拝見できる中、なるほどマンホーラーとやらが胸躍る気持ちは理解できる。しかし、やはり、実際自分の目で、その土地や場所で直にマンホールの蓋をみて、せめてインスタコレクションに加えよう、その程度の嗜みぐらいを目指すのがちょうどいいのだろう。

ちなみに、2007年に3人の外国人監督の手で東京を描いたオムニバス映画が撮られている。その名も「TOKYO!」で、下水からマンホールの蓋を開けて出てくるドニ・ラヴァン演じる怪人「メルド」が渋谷の街を徘徊するシーンは異様だった。まさに地下という異質な空間とこの地上の現実の世界を仕切るのが一枚のマンホールだ。そこから飛び出す異物において、まさに最初に触れる現実の光への扉が、すなわちマンホールというわけだ。そう考えてみると、なまじ馬鹿にできないのがマンホールという記号、オブジェというわけだ。

◆古着小僧ぶる〜す

おしゃれ事情は今と昔じゃ随分様変わりした気がしますね。そもそも今は安くていい素材、それなりにかっこいい洋服が巷に溢れておりまするからねえ。よく言えば小綺麗。悪く言えば画一的、没個性。どちらが正しい、どちらが優れているかという談義は置いておいて、やはりおしゃれも個性だと考える人間としては、自分らしいファッションを見つけ、それを実装することがファッションの原点じゃないか、と思うんですがね・・・何より似ていて楽しいというか。

若い頃は学校帰りには古着めぐりと中古レコード漁りに精を出す日々。とりわけ古着は大好きでしたね。古着を汚いもの、お古はダサい、なんていう考えは全くなくて、完全に自由で、とにかく外国から買い付けらた古着をあーでもないこーでもないとコーディネートして、自分らしさを追求していたものです。今のようにネットもなきゃメルカリのような便利なシステムもなかった中で、自分の目や自分の足だけが頼りだったわけで。

今はさほど洋服を買わなくなっているし、当然古着熱も昔ほであるわけではいのだけれど、古着というのはよくよく考えればその名の通り中古品であり、かつては誰か人の手にあったものが流れてくるわけで、所有という概念からいうと、実は自分にとっては、自由になるための一つの通過点だった気がしているのです。服なんて用がなければ手放せばいいし、究極、あらゆるものの所有から自由になって行くという成長過程においては、あたかも蛇が脱皮するがごとく、新たな一歩への通過儀礼を擬似体験していたのかもしれない。とは言え、一枚の洋服の物語という視点に立てば、それはそれでその前に着ていた人や、その購入プロセスが色々あったわけだろうから、そういうものを想像するというのは実にファンタジックなことだと思いますね。

◆ブラウンキャットエレジー

基本的にどんな猫でも猫は猫、というか、猫好きなら猫そのものがかわいいはずなのはいうまでもないのですが、自分でも飼うまではやれアメショーだ、ロシアンブルーだ、スコティッシュフォールドだとイメージだけを勝手に膨らませておりました。でも、いざ自分で飼ってみると種類なんてどうでもいいってことになって、手前の愛猫がひたすら愛おしくなるものですよね。ただ、自分の基準としては絶対にペットショップ経由では猫は購入しない、ということだけはゆずれなかった。要するにモノ扱いだけはやめよう、どうせ飼うなら縁に任せよう、それだけは念頭においていたのです。
あるとき、縁があって茶トラの捨て猫をひきとったのですが、注文はひとつだけ。元気な子であれば
なんだってかまわない、という条件で家にやってきたのが今の家猫「あっぴゅん」くんです。
おかげさまでもうかれこれ15歳にになりますが、病気知らず、ただ大きさだけが手のひらサイズから両腕サイズに変わっただけで、当初となんにもかわらないのが不思議なくらい、そのまんまなのです。
きたときからとにかくやんちゃで、とにかく好奇心が強い。(なのではじめは勝新の悪名から「朝吉」と名付けてみたがいまはあっぴゅんとなった)そんなことで、いまじゃ「茶トラ」猫が一番好きですね。

一般的に茶トラは甘えん坊で大人しいというけれど確かにそういう性質はあるのですが、いったんスイッチがはいるとそのやんちゃっぷりは手に負えず・・・まさに八尾の朝吉ばりの暴れん坊ぶりを発揮してくれます。家のなかがひっちゃかめっちゃかになりますよね。その分の補修は大変で困ったモノですがそこは飼い主の定め、仕方がありません。とはいえ、基本的に手はかからないし、実になついてくれているこの茶トラくんには感謝の思いしかありませんね。ぼくにとっては大事な家族の一員。この先いつかはやってくる別れの日、こいつを無事看取ってやることを宿命だと受け止めて、悔いないように今を大事にかわいがっておる次第であります。

◆ヘイミスターパイプマン

喫煙はとっくのむかしにやめてしまった。健康のため、小銭惜しさのために? ま、どっちというでもなく、ただなんとなく。もともとタバコが好きだったわけでもなく、ただなんとなく吸っていただけで、ある時からすんなりやめられた。そんなタバコについて、昭和ノスタルジーにはなんとなく思うことはいろいろあるけど、今となっては、どうでもいい。といって、他人が吸うことに目くじらをたてるような、いうなれば手のひら返し派の野暮でもない。なんならば、この場でシガレットケースから一本とりだして、シュッポッ、お気に入りのジッパーで火をつけ紫煙を燻らせてみようか? などという妄想はさておき、僕は元からオブジェ好きな性分で、その意味でタバコというものは微妙だったけど、パイプってのはとてもイカすなあ、と思っているのですよ。

パイプといえば、昔から、ちょっとした文豪やら文化人の象徴といっていい小道具だ。僕の知る限り、パイプの似合うフェイバリットなMRパイプマンといえば、澁澤龍彦やアンドレ・ブルトンとマルセル・デュシャン。文士、芸術家、いずれにせよ、知的な匂いが漂ってくるし、貧乏人や無粋な男には似つかわしくない。その前に、海の男がマリン帽にマドロスパイクを加えている光景などにも、ぐっとくるものがある。いずれにせよ、イメージの世界であって、それを嗜みたいとまでの意欲はなかなか芽生えては来ない。

知的といえば、ルネマグリットの代表作に【イメージの裏切り】という絵があるが、文字通りパイプの絵に「これはパイプではない」とわざわざ書かれたマグリットらしいトリック芸術を思い出す。世のパイプ好きが必ずしもマグリット好きとは思えないが、パイプを嗜む粋さのなかには、こうした遊び心があってもいいというのが僕の嗜好である。

◆双子の神秘の玉手箱

双子って不思議な存在だな、昔からそう思っておりました。凄く珍しい、というわけではないし、見渡せば、1組2組ぐらいは周りにいたりする。全くおんなじ場所、時に生まれてきて、しかも瓜二つの顔を持って、同じ屋根の下で一緒に成長する。まさに分身そのものの存在。どうあがいたところで、こちらからは双子の頭の中なんてわかりっこなく、巷で言われているような、テレパシーのようなものがあるらしいとか、シンクロニシティが起きたりするとか、生まれながらのソウルメイトだとか、興味の源泉としてはこれほどロマンを膨らませる存在はありません。

二卵性と一卵性があって、双子と言ってもいろいろあるようですが、通常の兄弟、姉妹よりは結びつきが強いのは当たり前かも知れません。双子というとザ・ピーナッツ、おスギとピーコ、古くはキンさんギンさんぐらいしかとっさに思い出せない人間ですが、イタリアのブランド、GUCCIのデザイナーアレッサンドロ・ミケーレは、母親が双子であったために、7歳まで一緒に暮らしていたといい、その二人に捧げたコレクションのお披露目で、なんと68組の双子モデルをランウェイを歩かせる、という面白いショーを展開し話題になっておりました。テーマはずばり「Twinsburg(ツインズバーグ、双子の町)」。

ショーのコンセプトは、ミケーレの言葉を引用すると、「双子の素晴らしさは、完全な同一性が不可能なことに起因している。それは類似性という欺瞞であり、対称性にひびの入った幻想のゲームです」ということであり、外野が単純に考えるようなものとは正反対のものだということがわかります。つまりは、我々は、たとえ双子で外見は同じでも、1人1人異なるアイデンティティをもつ存在である、ということがテーマであり、自分の中の別の側面に出会うという場をランウェイという場で実現したのです。さすがはアレッサンドロ・ミケーレ、ファッションを超えた自由な発想を持ったクリエーター。このショーの後、GUCCIからの退任が発表されていますが、まさに感性が自由な人なのですね。

◆ピンクアラカルト

春になると気分が自然に高揚する。不思議ですね。その気持ちを色で喩えるとピンクってことになるんですが、ピンクという色について、どういうイメージをお持ち?
色の観点で言えば、ピンクというとちょっとポップすぎるかも知れないけど、日本人には元来馴染みのある色、つまりは桜色とか、桃色とだか。ふむふむ。こう見ると自然なピンクを想像できますよね。でも、ちょっと前まではピンクというと、ちょっと女の子カラーという印象が強くて、ファッション一つとっても、男性にはちょっと敷居の高い色だったなあと。最近ではピンクトーンを纏う男性もちらほらいるし、昔ほどの拒否反応はないでしょうね。むしろピンクを着る(着こなせる)人はお洒落で、女性から見ても好印象だとか。個人的にもそんなピンクは好きな色の一つなのですが、ピンクを纏った音楽を聴いていると、不思議な高揚感が高まってきます。好きなもので言うと、ニック・ドレイクの「PINK MOON」をはじめ、ブレッド&バターの「ピンクシャドウ」、あとはザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』と言うアルバムがあるし、ピンクじゃないけどはっぴいえんどの「恋は桃色」というのも一応入れておきますか。いずれにせよ、ピンクというイメージは、なんとなくほのかな高揚感が立ち上ってくるのです。全く話は違いますが、塩漬けにした桜の花弁を入れる桜湯と言うものがりますが、風流でいいですね。そのほか、最近ではヒマラヤ岩塩というピンクの塩があって、家にもあるのですが、塩なんだけど、ピンクというだけでなんとなく、通常の塩にはない効能があるような気がしているのですが、どうでしょう? こればかりはよくわかりませんが。