たくさんのものに囲まれ
ちかきもとおきも
つまるところ
てをのばさなければ
ともすれば忘却の途に
◆たいそうな素敵なクリスタル東欧
東欧諸国にはまだ一度も足を踏み入れたこともないのに、ひそかな憧憬があります。薔薇とヨーグルトの国ブルガリアや、カフカやシュワンクマイエルを輩出したチェコ、バルトークやニコの祖国ハンガリーなどなど。かつての社会主義圏も、ベルリンの壁なきいまはずいぶんと様変わりしたのでしょうね。神秘的なのはなにも東洋だけではありませんから。そんな神秘に触れる機会はというと、所詮、書物や映像からが大半。スポーツにさほど興味がないので、オリンピックだのワールドカップだのにさほど熱もあげないし、テレビなどで観戦する機会もないけれど、女子体操というのには、なぜか惹かれてしまいます。そう、とりわけ、東欧の少女たちの華麗な肢体の動きに、しばし目を奪われるんです。白いレオタード、それ以上に白く透きとおった肌、そして凛とした姿勢の数分間に、どれほどの深い時間と思いがひそんでいるのかは知るよしもないけれど、なにごともないかのように、優雅に繊細にリボンや、ボールやフープを繰ってのあの動きの連続にはことばがないんです。圧巻圧巻。
もちろん、倒錯的な視線がどこかにあるのかもしれませんが、こればかりは無自覚でして……
テキトーなことをいうと、誤解を招きますが、やはりあれは人間技とは思えず、どこかで妖精たちの振舞なのかと真剣に思えるほどです。ニンフォマニアやロリータなどと特殊な趣味で語られてしまえば、それまでですが、ただ、純粋に見蕩れてしまうんですね。美しいのですから。
そういえば、その昔コマネチというルーマニアの妖精がおりましたね。そう、ギャグにもなりました。名前ですら、もうそれだけで素敵に気を惹いてしまうのだから不思議です。
◆たこやき名家の名言集
テレビを観ない(もっていない)、ビデオを観ないわたくしも、ときに生ものにふれていない淋しさをまぎらせるのに、夜の御飯時などはラジオひねりてナイター中継なぞをばノイズにまじって聞いていおります。さて、顔のないラジオの顔というのは、声であり、その口調であり、内容が命。例えば、ベースボオールにゃあ解説者がつきもの(憑き物のような解説もあります)ですが、耳に心地よい心地よくないは、試合の結果のみならず、やはり、その人物のひととなり、個性に左右されるのはいうまでもない。それゆえにパーソナリティ、なるほどなるほど。通常は生ワイド番組の司会進行役のことをいうのでしょうが、野球の解説者もその意味で、立派にパーソナリティですよね。
その玉石混交の「個性」群の中で、わたくしがなにげに気に留めるものはといいますと、カリスマ欠番ミスターシゲオは別として、まず長老クラスでは「関根潤三」翁が好きですね。関根さんは大洋(現横浜)、ヤクルトの監督を務め、その昔はG軍のヘッドコーチなども経験したようですが、成績はともかくとして、とにかく敵をもたない仏のキャラクターが売りで、殺伐とした勝負の世界には珍しい仙人風味が心地よい口調でいわゆる癒し系解説の一番手ではないでしょうか。公平な視点という点では「大矢明彦」氏も嫌いじゃありません。関西系では「田尾安志」氏がとても聞きやすい感じで好きです。ただ、キャラクター的には・・・・こちらは世界に誇れる盗塁王「福本豊」さんがダントツですね。通称ふくもっさんは、まさにオオサカジンたる歯に衣を着せぬトーク、ざっくばらんで愛嬌満点の口調で人気を誇っているのですが、この解説者はいわゆる「洒落」がわかるこてこてのオオサカ人(大鉄高→松下電器→阪急)ならではのボケとツッコミをかましてくれるんです。
スコアボードを観てひとこと「たこ焼きみたいやねぇ。腹減ってきたわ」といった言動が独り歩きして今もあらたな伝説を生み出しつつあるところですが、その意は0ばかりが並んだ投手戦(貧打戦ともいう)への大阪人ならではの絶妙のたとえというわけでして。一点が入れば今度は爪楊枝がついた、ということになりますね。その上、この世界の盗塁王に国民栄誉賞のチャンスが回ってきた際には、「あんなもん、もらったら立ちションもできんようになる」って調子で辞退したという逸話まで残っておる次第でして。いやはや恐るべし、ふくもっさん。世界の盗塁王が愛される所以をみた気がいたします。
(こうしたふくもっさんの素晴らしさはスポーツコラム「びゃっと行け」に満載。こちら野球などに興味がないひとでも、お笑い好きには十分楽しめます)
◆ただただダダ茶マメがありゃあいい
夏は風呂上がり冷えたビールに枝豆、これできゅっと一杯やりやしょう。お父さん、それはいいっすね。まあ、あたくしは、ビールじゃなくても、ちべた〜い茶の一杯でもかまいまやしませんけどね。ただ、やっぱり枝豆、それもダダ茶豆ってのがいいですねえ、ただの枝豆やおまへんで。これは山形あたりが産地なのでしょうか、ダダというのも、庄内の方言でお父さんを意味するといううし、もっとも、起源は福島という説もあるらしいですが、まあ一般的にダダ茶豆といえば、山形庄内地方というのが相場なようで。間違っても美術関連のダダではありません(笑)。これ、フツーの枝豆よりも糖分が多いそうで、まあ、理屈ぬきで、うまいんです。ゆで加減がコツだといいますが、まあ、飲み屋で出てくる分には、ゆで加減どうのこうの、ともいってられない。とりあえず、莢から飛出したつるつるの、ちょいと塩の効いたあざやかな黄緑のマメ、あれはやめられません。昔は、虫がそのまま茹だって、なかから飛出してきたもんです。知らずに食べたことも、あるかもしれないな・・・・虫の食わぬ豆よりも、虫に食われる豆こそが、おそらくほんものなんでしょう。虫に無視されれば植物としてはおしまいです。ダダ茶豆入の豆腐も、いやあ、最高っす。
◆ダッフルコートのある風土
コートが似合うようになれば、一人前の大人ですなぁ。トレンチコートを、まあ粋に着こなしている紳士や淑女、確かにかっこがよろしい。がいつまでも大人になりきれないあたくしのような人間にはなんといってもダッフルコートなんです。ダッフルといえばイングランドって感じですか。十年ひとむかしマーガレット・ハウエルで買ってお気に入りの水色のダッフルコートはすでによれよれで、今はグローバルオールのものにきりかえて着ています。ダッフルの場合、ボタンというか、留め具がミソですよね。チャックでもなく、ボタンでもなく、というところがいいのかもしれない。ちなみに、あたくしのは水牛の角です。
最近はカラフルなものも目立ちますね。学生っぽくて、ようするにオーソドックスなんだけれど、フードがついているのがアクセント。あれは、飾り? というとそうじゃないですよね。寒いところでは防寒具の役割があるわけですから。雪がちらり、雨がぱらり。で、傘がない君は、フードを被って凌げばいいじゃない? というのは、ダッフルの愛用者ならわかりますよね。これは風土が生み出した知恵ということなのだろうか? あたくし、そういや、数少ない雪の日に、たまたま傘を持ち合わせず、このフードに助けられた記憶がありますからね。
◆たまには玉砂利またきてじゃりじゃり
砂利=さざれ石。砂利≠JARRY。そんな図式からじゃりんこチエへ。チエちゃんは気は強いがどこか冷めたような内省性を兼ね備えていたことを思い出し……砂利といえばどこかささくれ立った印象があるが、ひとたび玉と名がつけばこれはすこぶるやさしい響きとなる。神社や寺院に敷き詰められた小石の絨毯の上を歩くときの、あの清涼感。かき氷を歯で砕く感じの響き。たおやかな時の流れにふさわしいと納得する。
◆タンポポ&コーヒー
タンポポは実にしゃれた植物だとつくづく思うんだよネ。まず、あの枯れ方は蝶もときめく超モダンな老成というべきじゃなかろうか、と。おまけに綿毛ヘア-ときたら、自由気ままに風にまかせて、優雅に遊泳。そして気侭に漂流、お好きな場所に着地したりなんかしてさ。でもたまに、なんでこんなところにいるのだね?ということもあるから、そのあたりがやはり雑草なのだなぁと納得。
ところで、そのタンポポが飲み物になる。えっ、しかもコーヒーとくる。といっても、いわゆるノンカフェインのハーブティーとしての話。本物のタンポポコーヒーはタンポポの根を煮出すのである。だけど、ストレートだとちょっと苦いからミルクで炊き出したタンポポコーヒーは、これがちょうどいい苦みを醸して、カフェオレでもチャイでもない不思議なフレヴァーを舌に与えてくれる。。蜂蜜を入れるのもいいけど、ちょっと黒っぽくなってしまうことがあるので砂糖、こだわるなら(さとうきびシュガー)がいいか。
ダンデ・ライオンとはタンポポのことだったのだね。ダンディーなライオンってのもいいな。
◆チェスクセ?
デュシャンといえば有名なチェス好き。ベルイマンの「第七の封印」では死に神とチェスをして命を賭けるシーンがあり、鏡の国のアリスではチェスの世界がメタファーになっていたり、西洋ではちょっとした知的遊びとして捉えられているんでしょうね。さしずめこちらでは、チェスというよりは将棋、ですね。 縁側で将棋、というのが良き日本の父親像か。そんなことを思うとき、わが父親の唯一の娯楽が将棋だったことを思い出します。よく人生を将棋に譬えてましたっけ。その相手をさせられて、自然に覚えました。父親にはほとんど勝てませんでした。でも、そのせいかどうか、小中高とクラスでは無敵の強さでしたね。別に上段者とかそんなものじゃないですけどね。
鍛えられていたんでしょう。かといってプロの棋士になりたいと思ったことはなく、プロのひとたちのあの気の遠くなるような対戦風景をみたらとてもとても太刀打ちできませんし、気が滅入りますよ。あの世界はちょっと・・・コトバがありません。恐れ多いは沈黙の美学。
そんなわけで、歳をかさねて、たまには将棋ぐらい指してもというわけですが、いかんせん相手がいません。コンピュータ相手にゲーム感覚を楽しむというのでもないから、やはり、これをひとつの風情だと考えているんでしょうね。
そういえば、軍人将棋なんてのもありましたね。どうやら、自分は駒とか、盤とか、あの動きとか、遊戯としてはそういうものに惹かれているんだということに気づきました。いわば、オブジェとして、捉えているだけなんですね。
◆茶呑白書
忙しいという言葉は曲者だ。忙しい=充実という意味ではよろしい。つまりは有意義なのだ。ところが、たいていは、なんらかの不利な状況下においての苦し紛れの捨て台詞に聞こえてしまう。人間そうそう忙しいわけでもないのにさ。
忙しい思いを強いられることはある。まあ、多忙=充実をアッピールしたいという本能はわからんでもない。暇といえばなんだか身もふたもないが、のんびり自由というと実にうらやましい、響きがよいのである。またもや言葉の綾か。
それはさておき、お茶というやつは、忙しいという言葉を一時的に緩和してくれる解毒品でもある。
お茶ものまずに仕事に熱中しているのは、文字通 り無茶なのであって、非人間的行為なわけである。ペットボトルからいただこうが、缶 から頂こうが、お茶はお茶だよ、というかもしれない。けれども、そんなお茶はやはり忙しいの手下どものお茶である。忙しさの奴隷になりたくなければ、まずは、お茶は煎れるものであり、嗜むものでなければならない。これでなければ、お茶は文字通 り茶化されているわけである。
かようなわけで、いつしかマイマグとマイポットは必需品となり、レピシエなんぞで、お茶の品定めをするようにまでなっているわけである。
ちなみに、これを飲むと缶やペットボトルのウーロンが飲めなくなる香檳烏龍(シャンピンウーロン)、小さな毛糸玉のような可愛いジャスミン茉莉茘枝(モーリ-リツー)、たばこの葉みたいな細かいアフリカ産のルイボスティー、金木犀とローズヒップの花の入ったブレンドティ、ペール・ノエルなんかが好きですねぇ。お茶の葉がポットのなかでくるくる回ったり、じんわりほどけていくさまは、なんともいえぬ恍惚風情を醸してくれますよ。
◆チャーリキ本願
自転車を発明したひとって、ほんとにえらいなぁ、と思う。もっとも、価値的に飛行機や自動車とくらべっこなしですよ。でも、駐輪や一通など、車ほど手は焼きませんしね。子供だって乗れますから、こういうところ、自転車ってやつは敷き居が低いじゃありませんか。ただ車輪を自分で漕がねば前へ進まないから、汗をかきます。世の中、そうそうただで御褒美がもらえません。
かのアルフレッド・ジャリは有名な自転車野郎だったようで、その逸話やジャリ道をさっそうと行く雄姿がちゃんと残っております。天下のスピード狂の愛車が、自転車というのは、なにか微笑ましい。
競輪や自転車レースとなるとまた別。サイクリングというのも素敵ですが、あくまでも、着のみ着のまま自分のフィーリングにまかせて走行できる、チャーミングなチャーリーレベルの話。サイクラー、といえば、面白い形をしたヘルメット、後ろにポッケのあるサイクリング用のシャツでもって、さっそうとした快走はいいですね。
都内は坂が多く、変速機じゃないものに乗ってくり出すとけっこう大変。でも、つらいぶん、帰りは楽になるし、勾配のきつい下りのスリルときたら! それがノン・エレクトロニックで味わえるわけで。
坂というやつは上りばかりじゃないんだ、ってことを体感いたします。そう、人生そのものに譬えられるこの鋪道コースターを実感しながら、チャ-リ-好きのチャリ-は春のうらら、夏のミッドナイト、秋の夕暮れ、冬の寒風、それらを気ままに楽しんでいます。
◆包め伝播少年
包み込むこと、といって思い浮かぶ抱擁力、とはしばし、人間の器の大きさ、度量を問いますが、通常ラッピング(つつむこと)というサービスにおいて、日本という国は世界一優秀かもしれない。そう思うのは、デパートや百貨店などにいったときのあの、手際の良さをみればわかりますね。(仕事だったら当たり前だよ、というのはなしとして)自分は不器用なので、ああいう手さばき、手仕事の器用な人に憧れます。トリュフォーの「夜霧の恋人たち」で、探偵見習いのアントワーヌ・ドワネルことジャン=ピエール・レオーが、靴屋の店員になって潜りこむシーンで、要するに商品梱包の実地テストをされるシーン、一番ダメな手付きのレオーが見事に(当然のごとく)採用。(まあ、あれは演出だけど、どうみても地のようなところがあってさ、わがことのように面白かった)。そもそも、包むということにはなにかしら、物語がありますね。キャベツやハクサイしかり、自然のこの神秘を人間がうまく利用している気がします。
料理では、餃子や春巻というのがそうで、オムライスしかり、饅頭しかり、そのなかに何があるのか想像させる“包装”という行為そのものに興味があります。
◆つばめの巣のある家、またはその玄関
中国では言わずと知れたちょっとした円卓の高級品。日本じゃただの土と藁の半お碗。だけどよくみりゃそれは素敵な工芸品だ。はて、その設計者はだれ? 制作者はだれ?
空の低飛行を試みれば雨の気配、マダムたちのマスコット?緑のビニール傘の集団? タキシードの和名に…
いやはや、ふと玄関先をみあげるとママを待つ小ツバメたちの声がするよ。
それにしてもうまく作るものだ。これって迷惑かなぁ? 我が家に無断で巣作りなぞしおって! と怒る人は偏狭な心の主さ、とばかりピーチクパーチク、リトル・スワローたちはただ居座ろうと元気に母の帰りを待つ。
◆低音火傷
小さい頃から、大きな声を出すひとが苦手でした。ま、それはどこか威嚇的というか、権威的に思えたのでしょう。で、大人になって、さらに甲高い声も苦手だと気づきました。いわゆるキーキー声というやつです。その点、ぼそぼそ声や低い声がとても好きです。生理的に落ち着くからでしょうか、いわば、子守唄のような波動を感じます。その意味では何と言ってもベーシストでもあるYMOの細野さんの声が好きだな。音楽もいいけれど、声の魅力もまた捨てがたい魅力がありますね。
◆手の官能
観音さまの手はとても優雅だし、仏陀のそれはとても厚みと温かみがあるでしょう。そう、手というものに惹かれるのです。まさに、だれだって好きなヒトの手を握っていたいでしょ? そう思うのと同じように、まずははじまり(握手)と終わり(さよなら)はすべて手からということで。
ジャン・コクトーには美しい手のポートレートがいくつかあるし、デッサンにも多数残している。手というイメージ、書くための道具は、それこそ、詩人の仕事道具ですもの。道具なしではなにも語れない。
かくあるように、手は同時に見せるもの。ヘアーモデルがいるように、手だけのモデルが成立しうるわけですね。しなやかな手、繊細な手、無骨な手、くたびれた手、手といってもさまざまだけれど、たとえば、ダニエル・シュミットの「書かれた顔」というドキュメンタリー映画で、随所に見せるのが玉三郎の手の動き、これはそれ自体がひとつの表現たりえていて興味深い。眉を書く手、言葉を伝えるときに伴う手、電話を握る手、魂の具現化である手。なんでしょう、あの艶かしさ、官能性。手というものがいかに、美というものとの共犯を司っているか、恰好のサンプルをしめしているというわけですね。
◆天使の食卓
天使はいったい何を食べて生きているのだろうか。ドイツの神秘思想家ヤーコブ・ベーメによると、「この世の空気の出所である霊気」を含んだ天の果実を食べているんだとか。つまり霞を食べているわけだね。さらに天使には噛む必要もないから歯は一本もなく、もちろん内臓もないってことに。
天使の食べ物を想像しよう。ちょっと聖なる牛やいたいけな羊を用意して。そうしてまんまとせしめるミルクやヨーグルトといった乳製品、勤勉ワーカーホリックの蜜蜂がしたたらせるハチミツ。お子さま&ギャルたちが大好きな無邪気にぷりぷり弾けそうなプリンや純度の高いゼラチン、色もフォルムも香りもゴージャスだけども品がよすぎて日頃手のでないマスク・メロンなど、これなら歯のないお年寄りだっていけるでしょう。さてどうだろう。実にメルヒェンチック、遠からず近からずといったところか。
とはいえ、最も子供たりうるときの子供が食品を無理にでも口に詰め込もうとするときの、あの食い意地のはった微笑しさを見ていると、天使だってお腹がグーとも鳴ればけっきょく何だって食べそうな気もしてくる。
でもひとつ忘れてはいないだろうか、あの白くて四角くて柔らかいもの、そう、畑の王様、豆腐のことを。なにより汚れなき物体、そのかよわさに似合わず、高い価値を秘めている食品。消化に優しくカロリーも気にならない、おまけに値段もお手ごろ。調理法にもさほど頭を悩ます必要もなし、冷たく召し上がっても温かく召し上がってもOK。まさに能ある鷹は爪を隠すこの食品、ナルセ映画に出てきそうなこの音もの、昔ならラッパの音を聴いて、家からいそいそと鍋を抱えて買いに走ったりしてたのかしらん? そういえばラッパは最後の審判の際、天使たちが吹き鳴らす楽器だ。まさか天使が豆腐を売りにくるとは考えにくいが、妙な三角関係である。もとより、西洋にこの手の食べ物はちょっと見あたらないから、この説はまことにもって信憑性が薄いのだが。
子供ならハンバーグやカレーライスを差し置いて、真っ先に豆腐を欲しがることはあるまい。が、味気ない空気のような果実を食べる天使だったら、豆腐を召し上がったところで不思議はあるまい。これなら歯がなくともおいしく頂けるんだもの。
◆動物行動学入門
動物に学べ、ってことありませんか? ほんとうに興味深いことがいっぱいあります。そういうわたくしとて、そもそも興味の出所は、日高敏隆&竹内久美子、この師弟コンビの本からで、随分お世話になってます。これは読み物として面白いだけじゃなく、視点のすばらしさと身近さが素晴らしい。事の真偽は別物でしてね、これは空想科学を研究するものにも役にたつこと請け合い。もう少しはやくこんな学問があると知っていたら、きっと動物行動学者になりたかったのではなかろうか、なんて思いますものね。
そもそも、人間自体が進化し続ける動物なんですからね。一口で動物の行動といっても多種多様でして。昆虫から、われわれにもっとも近い類人猿まで、よくもこれほどの種があるもんだと感心するぐらい。
対象は特に限定しませんが、ビクトル・エリセ監督の『みつばちのささやき』や、メーテルリンクによる『蜜蜂の生活』などに触れるなどして、昆虫ならミツバチの生態には興味本位ながら、かねてから魅せられてきたんです。はちみつという素敵な天然の宝石職人でありと、建築などしばし応用されるあの幾何学模様のデザイナーぶりがどうも大好きでしてね。
その他、他人の巣に卵を托すかっこうの「托卵」だとか、カメレオンやこのはむしなど擬態する生き物であるとか、ことばを理解する人間にもっとも近いボノボという類人猿のことだとか、生殖のために自らの種の子殺しをするほ乳類たちなどなど、目からうろこということを知ってますます関心が深まりました。
ずるく、賢く、やさしく、そして残酷、ああ、こうした行動は何も人間だけじゃないんだな、と思えたりして、そこから、われわれ人間というのは、やはり複雑なんだなと思うに至ります。つまり、個というものが幅を利かせて、動物ならあてはまるような行動パターンなどまったく適応できないケースも当然あります。
まあ、けっきょくは、人間というものはひとそれぞれで、不思議な動物ってこと、つくづく思うわけですけどね。
◆飛び乗れ青春十八切符っ!!
決して若くもない、さてもちょいとくたびれた中年の域にどっぷりはまりこもうかというおっさん、おばはんが、青春っていくつまで許されますかいなあ? などと黄色い声でそう尋ねたとしても、まあ、駅の窓口でなら、そりゃあお客さんがそう思えばいつまででも青春ですよ、などと許される。さよう、青春十八切符というのは、年齢に制限がないので、それこそ、気っ風のいいおっさん、おばはんならずとも、どこよりも安い旅をしたいものにむけられた、ちょっとした格安切符、しかも5日間乗り降り自由とくる。とはいえ、 鈍行の電車しか使えませんので、ま、その名も青春期の思い出作りには最適でも、それなりに体力勝負ですので、ま、くれぐれも無理をなさらぬよう。
そうはいっても日頃から交通費が高いなあ、とお国事情をぼやいていてもはじまらないし、遠出となれば、それなりに出費がかさむ。そういうわけで、うまく使えば、気分は青春になります、はい。かくいう、わたくしも、ちょくちょく利用させてもらっています、里は浪花、新幹線ともなれば、往復3万近い出費、十八切符なら、二人でいけば、ひとり四分の一程度で済むってのは、助かります。もっとも、関西方面なら、うまく、品川あたりから、夜行電車「ながら」にでも乗りゃあしめたもの、早朝には関ヶ原越え、京都あたりで気ままに、散歩&モーニング、そして、お昼には浪花で食い倒れて、夜は神戸の夜景、お金が浮いた分ぐらい、贅沢して、京の都で、ごちそう喰らいて、あとは効率よく時間を使えるってわけよね。そうはいっても、もう少しわかけりゃもっと楽しいんだがなあ、とあとでため息をつく、なんてことにならなきゃいいけどさ。
◆トマトメイトブギウギ
スペインはブニョーレで行われる”トマティーナ”と呼ばれるトマト祭りのことをニュースで見るたびに、この目でみてみたい、あわよくば、祭りに参加したいなあと思ったりしているぼくは、とどのつまりトマト好きなのです。といっても、小さい頃食卓にのぼったトマトに箸をつけず、しかられた記憶があったりするので、いつから自分はトマト好きになったのだろう、と思うのですが、いつといわれてもわからない。ただ、トマトジュースそのものを飲むようになったのは二十歳を過ぎてから、で、自炊を始めて、食卓のことを考えると、どうしてもトマトというアイテムは外せないことに気がつきました。でも、実際、トマトそのものを買う、というよりトマト缶を買うことが多いんです。数あるレパートリーのなかで、トマトスープだけは、改良に改良をかさねた腕自慢をご披露できるはずです。トマトには言わずとしれたカロチンとリコピンと呼ばれる栄養素がたっぷり含まれ、サラサラの血づくりに貢献する食品だとか。
トマトジュースをみて、血のことを考えるとある意味グロテスクにも思えますが、レメディオス・バロの絵に、「菜食主義者の吸血鬼」というのがあり、じつに怖くもカワイイイメージになっているのが、吸血鬼がトマトジュースをストローで啜っているところなのです。蚊もトマトジュースを吸ってくれれば、あんなに嫌われものにならずに、きっとニンゲンに愛されたのになあ。
◆小さなスケートリンク
朝ゴミを出しにいったら、水たまりが凍っていた。相当寒くなってきたんだね。うむ、でも、自分が小学生だったころは、もっと寒かった気がする。冬は震えていたし、なにせ、真冬の体育の授業が嫌だった。だって寒いんだもん。だけど、教育は、そういうあまっちょろさを許さなかった、今は違うだろうけど。そう、でも、なぜか冬でも半ズボンだったな。足は白く粉をふいていた。今思えば無茶だよな、と思うが、ガキなんだから、それでよかったのかもしれない。そうして、冬、登校時に路面の水たまりをスケートリンクよろしく、滑って遊んだ記憶が、ふとよみがえった。素朴ないい時代だった。それはもう記憶の片隅でアルバムのような光景を残しているってわけ。
◆棚田がだんだん好きになってきた
マイルズ・デイヴィスの『BITCHES BREW』のジャケットのブゥードゥ絵で知られるマティ・クラーワインと言うアーティストによる絵のタッチには、どこか黒いエキゾチズムと言うものを感じてグッとくるものがある。そのクラーワインの作品の中で秀逸な一枚は、ジョンハッセルの「マジック・リアリズム」の
棚田を描いたイラストだと思う。音楽にフィットした絵のエキゾチズムに痺れるのだが、それが僕にリアルな写真以上に棚田への郷愁、憧れをもたらしたと言っていい。とは言え、僕はまだ一度も自分の目で棚田を見たことがない。と言うのは嘘で、電車の窓からは日本の棚田の風景を少しは見ているはずだが、いまいち記憶に残ってはいないのだ。
やはりトポスとしての棚田へ、自分の足を使って赴いて、自然の中に佇んで見て、初めて棚田と言うものに触れることができるのだと考えている。その意味では、観光というものにはあまり興味とは言え、日本の美しい棚田目当てに訪れてみたいという思いはある。しかし、僕はどうしてそんなに棚田に惹かれるのだろう? それはきっと、人間と自然とがうまく共生している感じがあるからだろうか。棚田は勝手に出来上がるものでもないし人間がある程度設計しないとあんな風にきれいな段々畑は拝めないわけだから、そこに美を見出しているのだろう。水が漲った畑、あるいは緑の絨毯を敷き詰めたような水田。収穫期を迎えた黄金の畑など、それらがきっちり段々になって広がるグラフィカルな棚田になんとも心くすぐられてしまうのだ。
◆伝統色に照らされて
曇り空の日、空を見上げて思うことは、うむ、こりゃあソクーロフカラーだわさって感じ。いやはや、そんなことを思う人間は稀なんだろうな。わざわざロシア映画の鬼才の映画トーンを庶民が知るわけもないのは無理もない。そもそも曇りの日はひとを不機嫌にするし、わくわくする人はむしろ変わり者だろう。人は顔をしかめても高揚などしないはずだ。でもぼくはできるだけ不機嫌というものから隔たっていたいのだ。
そんなとき、ぼくら日本人というのは、どういうわけか、昔っから天気と色にはうるさい民族だったことを思い出してみる。だから、せめて鈍い鉛色の空のグレーを伝統色のひとつにでも置き換えてみたら素敵になるかもしれない、などと思う。ちょっと緑がかっていれば利休鼠、明るめなら小町鼠。曇天なら、鈍色(にびいろ)、もしくは浅葱鼠。まあバリエーションがじつに多いこの色へのこだわりこそが。我らDNAの中にある、日本文化を培ってきた魂そのものなのではないのかと。
デザイン稼業をしていれば、当然、色に鈍感じゃいられない。それこそグレー、ハーフトーンは重要な色だ。なかでも伝統色をそのまま印刷で再現するのは至難のわざだが、そういった日頃の眼差しがデザインにも活きてくるというのはいうまでもないし、何しろ楽しいことなのだ。改めて日本人として生まれたことに感謝したい気持ちで曇り空を見上げている。
◆手書きメモリィ
断捨離だと称せずとも、ものを捨てるにやぶさかではない人間だが、人からもらった手紙の類はなかなか捨てられずにいる。なんなら、今の時代、デジタル化すればいいとさえ思うのだが、面倒というよりも、それらを書いてもらったという行為、肉筆そのものに愛着がある。手で書いたものは、その人にしか書けないものである。まして、手紙や葉書は投函行為まで経て手元に届く。即時性のあるメールやLINEの言葉でも、その人の思いは伝わるが、直筆の手紙には、何か不思議な力が宿っている気がする。まさに時間と人の想いの結晶であり、個性が滲んだ筆致にさえも思い入れが募る、だから、その手紙を読み返すたびに、その人のことを思い返すことができる。アナログだからこその感慨というものだが、それがなくなってしまうのには一抹の寂しさを覚える。もっとも、本人次第で、手紙は書けばいいだけだだがだが、その機会がなかなかない。無理くりにでも作ればいいのだが、やはり必然というものに勝るものはないと考える。だから、余計に遠く感じるのかもしれない。その昔、ラブレターというものが普通にあった。好きな相手に告白する手段としての手紙。手紙をもらい、読むまでのドキドキ感。あるいは、ああでもない、こうでもないと紙を無駄に消費するだけの時間。どちらにせよ、甘酸っぱい記憶が蘇るなぞとは古風な人間だなと思う。かの澁澤龍彦がジャン・コクトーからもらった手紙を後生大事に保管していたように、僕にも同じような経験があって、十代の頃、デモテープを送ったジャパンのデヴィッド・シルヴィアンから直々に手紙をもらったことがあって、その筆致は紛れもなく本人のものであり、その時の感動は時を経ても消えはしないのだ。