なんでもないことが
にわかに気になりはじめ
ぬっとあらわれたかと思うと
ねがえりをうつ
のそのそごそごそどこかへ消える
◆ナイショットモード
デジカメやハンディビデオは画素こそが命、とはいうけれど、自分は夜、暗闇でも撮せる「ナイトショットモード」っていうのがありまして。灯りを消して、ビデオをオンすると、そこは、深海? それとも異次元? 大袈裟ですけどね。これはいわゆる赤外線の仕業。防犯なんかには威力発揮してますアレ。もっとも、使い方はひとそれぞれ、おっと、「ナイショ」でいけないことに使っちゃダメですよ、暗くても、そこは肖像権がありますからね。でも、カメラはもともと思いもよらずその人を写し出すことがあり、友だちとナイトショットでビデオトークして、かなりカメラ意識するところでも相手がカメラを意識することなく、自然に向き合えたりするので、後で見ても思わず「ナイスショット」で面白いなぁと思います。
◆なんたい難題食物連鎖の話
あるときあさりのみそ汁をすすっていると、おやまあ、あさりの殻から小ガニが飛び出したよ。もっとも小ガニくんたら死んじゃってるわけだわさ。おそらく、消化される前、形はまだしっかりとカニのまま。が、いかにも情けない。足のないくわせもの、この軟体動物をなめた甲殻類はその地位降格とみえ、パクリとやられた足のうるさいおっちょっこちょいガニ、口角あわをとばしたかどうかは知らんが、とりあえず、いともなくあっさり殺られちまったんだな。そうはいっても、まだ生まれまもない小ガニじゃないか。子供をねらったあさりもあさりだが、そのくわせものを今度はわたしが食べるという図式になにやら、ちょっとおやっと思った次第。
この食物連鎖の三角関係では、さも、わたしが一番その頂点で支配しているがごとし。カニVS貝という勝負は、まんまと足も表情もない曲者に軍配があがったわけだが、その曲者も、沸騰した湯のなかでは、せいぜいおばかな口をあけっぴろげて成仏成仏あはははは。がしかし、ここでこの三角関係の均衡がくずれるとしたら・・・食後の腹下しとか嘔吐とか。ああ、やるせない。あなたは何を食べましたか? とここで医師にかにきかれるシチュエーションを想像しよう。
頂点のおごりに無惨な判決くだって、あっさり「あさりです」と答えしかない。なかにカニが入ってましね、そいつもええいパクリとやっちまったもので・・・
まあ、それは関係ないでしょう。単純に食あたりですよ。
ほんとにあさりかなぁ、わたし、あのカニがどうも気になってるんですよ。まさか毒ガニだったんじゃあ・・・
いやぁ、それはないでしょう。だって生きてるじゃないですか。
そうですね。
で、あさりは新鮮なものを買いました?
うーん、たしか、閉店真際のスーパーで、百円引きだったかもしれません。それをしかもその翌日にだから……
じゃあ、文句いえないですよ。
そうですけど、いいかなと思って……
口のなかで、砂を噛む思いをする。まあ。おまけに貝になっているし。で、こんなことになりたくないので、その小ガニくんを箸でつまんで出す。もう少し、食しがいのあるやつだったら、まあちょっとした葛藤がおきるかもね。あなたはならどうする?
◆なんだかんだで古書街が好き
はじめて東京に来て、まっ先に向かった先が神田神保町。いわずとしれた古書の町、古本といえば神保町。わたしゃ、なんてったって本が大好き(今は少し熱が冷めてはおりますが)でしたからね。必ずしも良い読書家じゃないけれど、本というもの自体が好き。なかでも古本屋さんがいいですね。古本というのは、ひとと同じように出合いのものだから、その出合いを大切に随分とこの町で知り合わさせていただきました。だから、この町がやはり好きでして、東京のプレイスポットにさほど興味がなくとも、お茶の水神保町界隈が一番気になるし、足が赴いてしまうんだなあ。あと、茶水(と通はいう)の駅は目の前が河を臨む見事な借景駅(開発が進んでいて、ちょっと残念)で、アテネフランセとジャニス(今はもうない)がある学生の街で、本、音楽、映画という文化的欲求をすべて満たしてくれるじつに有り難い街なんですね。これ、すなわち文京区。文京区好きの友達がいて、そのひとはもう、とっくの前にこの街にいなくなったのですが、ああ、自分もこの街に住むのもいいなぁと密かに思い巡らせている今日この頃です。ちなみにあの夏、澁澤龍彦が鬼籍に入ったのでした。覚えているのは帰りの新幹線の中で、弔いの詩を書いた記憶があるからです。
◆肉球いろいろ
獣の足のうらのことだよ、などといわれたら、さっと引くかもしれないところ、肉球といってみると、感じがうってかわったりします。おかしなものです。さらに、かかとにあるポッチのことと補足すれば完璧。じゃあ、英語にするとミートボールかい? んんん? ちょおっとちがうんでねぇかい? はい。ちなみに英語では、digital pad なんていうみたいです。アイボくんやネコロちゃんなら、digital pad、かな、なあんてね。
肉球って、いわれて、あたいたち人間ならさしずめ指さきを見ますと指紋があるあたり、若干名残りがあるのか、ぷくっとしています。われわれ、四つ足獣だったわけかぁ、などとバカなことをいっておいて、さて本題。その呼び方はなんともキュートな響きで、爪をおったてた野獣ネコでさえ、サーモンの肉球をみせられれば、愛おしく感じてしまいますね。白足にサーモンピンクの猫族のそれがもっとも理想的な肉球というやつで、柔らかければ柔らかいほど愛おしくなります。犬族や多の獣、あるいは年季の入ったドラ猫などは、色も黒っぽくその足取りを刻印したかのごとく硬化しておりますね。ようするに、さほど可愛くなどなく、むしろおぞましかったり。てな具合であるからして、肉球マニアっていうのは、おそらく赤ちゃんのぷよぷよお肌が好きだったり、プリンやゼラチンのぷるぷるが好きだったりするのではないかしらん? というのは勝手な憶測ですが。
土のグランドなんかに残された散歩犬や気紛れ猫の肉球スタンプや、たまあにセメント舗装されたところにも、その軌跡があったりして、これらすべてはかような四つ足獣たちの肉球仕業なのであります。
◆偽シャーベットのススメ
アンデルセンの童話に「雪の女王」というのがありまして。雪の女王になまいきなことばを投げたばかりに男の子カイが、怒りをかってしまい氷の宮殿に連れ去られてしまう、心配するのは仲の良かった女の子ゲルダで、待ち受ける困難にもまけずはるばる遠方へくんだりへ捜し求め、ついにはその熱いハートで心まで凍らされた男の子の氷のような心を見事融かして救い出してハッピーエンド、という友情物語のことですね。旧ソビエトのレフ・アタマーノフ監督が57年にみごとに古典アニメの傑作としてアニメ化しています。(必見!)
まあ、通常、氷というイメージは冬→冷たい、厳しい、哀しいというマイナスイメージのほうが強いかもしれませんが、反対に夏になれば、涼し気で、楽し気な風味に変貌いたします。カラコロンと冷たいドリンク類に冷涼感を演出するのはいうに及ばず、かき氷やシャーベットという、実にありがたい冷涼デザートとなって、熱くのぼせたこめかみに一撃を見舞ってくれる風物詩となったりしますからね。
さて、その風物詩の亜流、もっとも簡単なものを御紹介。主役はバナナ、助っ人は冷凍庫。そう、冷凍庫でカチンカチンに凍らせたバナナ塊を、しばらくおいて皮をきれいに剥がせるまでまってあとはスプーンで美味しくいただけば、これぞまさしく偽3分間シャーベットの出来上がり。バナナに飽きた舌にも新鮮風味をお届けにあがるといった感じでよくやっております。
◆入道、夏のニコッ展
夏といえば青い空、白い雲。雲ひとつない空もいいですが、雲はちょっとしたアクセント。綿菓子のような入道雲の、あのはっきりとしたマチエール感が大好きです。まるで油絵のごとき骨太なタッチ、空がキャンバスとでもいわんばかりにのびのびと素晴らしい。暑いのは苦手ですが、あの屈託のなさ、おまけに急ぎ足で、なんだかわんぱくな感じにとても癒される気がします。というか、みていて気持ちがいいくらいあの沸き立つ感じこそが夏。と同時にざーざーのシャワーを降らせる困ったちゃんでもある入道くん、夕立ち後虹を伴ったさわやかさなど、もはやことばになりませんね。
◆猫とふくろうとファン倶楽部
キーワードはねことふくろう。まるでイソップ物語みたいな話、ではない。猫好きはちまたに五万といるけれど、ふくろう好きとなるとさていかなることに? このどちらをも愛玩する映画作家をご存知だろうか? その名もクリス・マルケル。画面から、ジャン・リュック! と声をかけるぐらいだから、かのゴダールさんとの関係も窺い知れよう。そう、いわゆる時代の同志なのである。五月革命のパリの街並みを、映画史的傑作のひとつに数えられうるべく『美しき五月』において見事に映像に記したこの才人こそは、わがニッポン国を『サン・ソレイユ』、あるいは『不思議なクミコ』『ラ・ジュテ』その名は新宿ゴールデン街にあるバー、はては黒澤明までをドキュメンタリ映像を通じ世に発信した人物、すなわち堂々たる親日家じゃないっすか。
そういえば、彼の眼差しは『サン・ソレイユ』の中で世田谷豪徳寺の招き猫をクローズアップするほどの本物だった。猫を愛し、なによりも、自らの化身「ふくろう」を堂々画面に登場させるその愛嬌は、時代を読む彼の鋭い詩人の魂とあいまって、なによりも映画の魅力を増す小道具にさえなっている。それゆえに、ファンクラブなるものができるのであろうか。といって、黄色い声が飛ぶわけでもない、黄色い眼差しがただじっとその画面に食い入るだけなのだが。
北野ファンクラブというのはあったけれど、マイケルファンクラブ入会してみようかな?
◆ネルドリップで、頭を練る
基本、紅茶党ではありますが、コーヒーも嫌いじゃないです。カフェインで寝られない、ということも、幸か不幸か全くなくて、むしろ効きがわるかったりする。寝る前はさすがに飲みませんけれど。反対に眠気覚ましにならないのも困りモンですよ。インスタントはあまり飲みませんね。(というか、インスタントという名称が気にくわないのだが)流石に善意で煎れてもらったり、ごちそうされると頂きます。
で、やっぱりコーヒーってやっぱり手間を賭けた方が美味しいですね。とりわけ、自分でガリガリと豆を挽いて、そしてネルのフィルターでじんわりと立ち上る香りを楽しみながら煎れるというのが理想です。それって、まさに至福。でも、哀しいかな、コーヒーを優雅に煎れる時間がない場合もありますね。それにネルは手入れが面倒だったりするので、そのときは紙のフィルターでもいいんです。円を描くようになんて、いう言い方がありますが、なんか噴火口のミニチュアみたいで、この瞬間けっこうわくわくするんです。ちょっとしたタイミングで味が変わってしまうんですからやっかいです。味わい深いものがあります。そして、あとに残されたフィルターと粉の滓も時間がたてば砂のようになりますね。もしコーヒーの粉滓のグランドがあったなら。
◆粘土細工、楽しんでクレイ
粘土にしろ泥んこ遊びにしろ、手を直に媒体として営む作業は、なかなかどうして楽しいのでござるのよね。確かにては汚れるし、後片付けも大変だけどね。子供ってことかい? なんて言わないでね。まあね、人間身体を使うってのが基本だからさ。人間のボディーもそうなんだけど、柔らかいものがやがてかたくなってゆく。その途中は、水を使ってちょいと格闘。形が出来上がるにつれ、愛おしさが増してゆきます。そもそも、神様は人間をかような感覚でお造りになったのでしょうか。手塩にかけるということばがありますが、粘土細工にはこうした感触があります。
◆覗きたくなる水たまり、除きたくなる水たまり
その昔、水たまりにアメンボウが泳いでいたのを覚えているのですが、あれは記憶違いなのだろうか? それともなんかの絵本だったのだろうか。何れにせよ、雨上がりとくれば、水たまりそのものに惹かれるのです。なぜだろうか? そのうち姿を消すという、どこか儚さが気を惹くってわけだろうか?
泥水であれ、何であれ、ただ無闇に避けて通るばかりが能じゃない。かがみ込むという手がある。日本には水鏡という美しいことばがあるが、まさに手鏡の代用ともなりうるのです。かくして雨上がりのナルキッソスは君だ。大人であればもっといろいろ、たとえば車の窓ガラスなり、ほんものの手鏡なりなんなりとあろうが、小さな子どもはそうはいかない。で、見渡して、もっとも身近な鏡はとなると、そう、足もとの水たまりなのだ……コクトーの「オルフェ」でジャン・マレーが佇んだ水たりはとてもま素敵だったな。確かイギリスのバンド、スミスのレコードジャケットに使われていたっけな。
その向こうに黄泉の国が、などとと泥臭いオルフェを夢想するのは、はて、田舎ものか、シャレモノか?
◆猫騙し、猫魂
相撲技のひとつに、猫だまし、という戦法があるのをご存知だろうか? なかなかお目にかかることがないのだが、自分は実際小さい頃、テレビで相撲の取り組みを見ていたときに、そのねこだましを直に見た記憶がある。確かのちに横綱にもなった三重ノ海というお相撲さんだったと思うが、相手の顔の前で手をパチンとならし、一瞬何があったのだろうと思ったことを覚えている。
猫だましとは、このように、相手の出ばなをくじくためのちょっとしたかく乱戦法であるらしく、三重の海のように、上位の力士が使うのは珍しいんじゃないかと思っていたのだけれど、最近では白鵬もまた企てたということである。横綱ならそんな小手先の技などに頼らず、堂々と力技で相手をねじ伏せよ、という意見もあるだろうが、自分としては、猫がらみのこの姑息な技がなんだかとても可愛らしいもののように思えるのだ。猫だまし程度でびっくりして、その隙を突かれて負けてしまう方が情けない、と思うのだがいかがなものだろうか。
実際家で猫を飼っているいると、それこそ目玉を大きく見開いて、なんだかびっくりしたような顔つきをすることがあるのだが、それをして、ねこだましという戦法を思いついた(名付けた)力士はなかなかどうして憎めない気がして、むしろ愉快になるのであった。
◆人間ばん馬、塞翁が馬
ばん馬ってご存知? いわば農耕用の馬で、一般的な馬から見るとちょっと不恰好でずんぐり、下半身ががっしりしている。犬で例えるならダックスフンドかブルドック? いや、比べてもなんの意味もない。そのばん馬を走らせてレースをするばんえい競馬。帯広市が運営している地方競馬の一つだが、形態が特殊で、これがいわゆる競馬とはちょっと趣が違う。200メートルの短距離とはいえ、途中で山がある変わったレースで、そこを重い1トン近い荷物を背負ってソリを引く。騎手がムチでバンバン叩きながらそのソリを進めてゴールする。映像でしかみたことはないのだけれど、これが意外に面白い。というか、通常の競馬はスピードこそが命で、馬が走る姿は絵になって美しいのだけれど、こちらは泥臭く、実に手に汗握る。その絵面は虐待にも通じる風情だけれども、その一体感が感動を呼ぶ。世界に誇る独自文化である。
自分も一時競馬にはまった時期もあったが、今はギャンブルそのものに興味が薄らいでしまった。このばんえい競馬もギャンブルという視点で見ると、どうにも視点が変わってきて純粋に見れなくなってくる。ある時、ネット投票で馬券を買ったことがあって、買った馬券の馬がゴール寸前で立ち往生。そのまま後続の次々に抜かれてあっという間に圏外に飛んだことがあった。唖然としたものだ。でも、そこがばんえい競馬の面白さだ。ギャンブルには興味がないが、文化としてのばんえい競馬の存続を願うばかりだ。ただでさえ地方競馬の衰退でローカル競馬が存続の危機にさらされている中で、それはそれで時代の後押しもあって、ネット投票で随分盛り返しているとはいえ、文化はそれを守る、継続する人間がいなくては存続できないからだ。馬券を買って応援するという考えもあるかもしれないが、そんな綺麗事はいうまい。ただ、死ぬまでに一回は生でばんえい競馬を見てみたい。北海道の雄大な景観の中に佇んで、ばん馬たちの暑い奮闘をみてみたいのだ。その際には馬券の一つも買って、それなりに楽しむことにしよう。
◆人間観察の奥義
趣味人間観察。そんな人を目の前にしたら、どういう気持ちだろうか? 身構えるであろうか? もし仮にあなたが企業の人事を預かる身で、面接にきた一志望者の趣味の欄が「人間観察」と書かれていたら・・・。まあ、それだけで洞察力があり、人間として見る目が培われおり、じゃあ即採用しよう、なんてことにはまずならないのは当たり前だが、ちょっと気になる存在ではなかろうか? そして、そのことについて詳しく聞いてみたいと思ったりはしないものだろうか? もちろん自称であって、その道のプロでもなきゃ、どこまで本気かはさておき、人を見て何かを感じるというのは、日常どこででもできる行為である。が、決して誰もが向ける矛先ではない。その反対が無関心であることを考えれば、趣味人間観察こそは自己成長のための貴重なプロセスなのかもしれないし、それができる人間は、何も感じない、あるいは無関心である人間よりは、多少思考プロセスにおいては深みを与えることになるのかもしれない。
仮に他者が今目の前で人間観察という行為をしていると想像することは、客観的に見ると奇妙な感覚に陥ってくる。すなわち、誰かが誰かを観察しているその状況をさらに観察するということなのだから、まるで鏡の中の永久運動を目撃しているようなものである。それがどこまでも続いてゆく様は想像するだけで不思議な気分になる。例えば、電車の中で誰かと誰かが口論しているとする。それを第三者が見て、あたかも嫌な顔つきで、この人たちはバカだな、大人気ない、などと思っている第三者がいる光景を、今度はそれを自分がみて、この人がそう思うかもしれないが、自分は当然だと思うがな、などとその人物を見て自分の解釈を心内で投げかけるのだから、遠巻きに見れば一つの客観体系の連なりの俯瞰図だとも言える。AとBに対するC、そのCに対するD。そのDをEが、あるいはFといった無限のループが続くのだ。これは観察という概念を形而上学的に昇華する思考のように思えてならない。その上でそこに空き缶がコロコロと転がったとしよう。そうなればこれはある種、映画の一コマと同等の趣があるのような気がしてしまうのだ。
一人遊びはこのくらいにしょう。ちょっと小難しい、変な話になってしまったが、人間観察の結論としては、究極の人間観察は自分ということを見つめることではなかろうか。仮に他人ばかりみて、いくら内的に成熟しても肝心の自分が観察できていない人間は欠陥とまでは言わぬが、木を見て森を見ず。よって、趣味人間観察がどこまでも自分というものの延長上にある行為であってはじめて、その奥義の真髄が発揮されるような気がするのだ。