さらば退屈よ
しあわせよこんにちは
すばらしき日常
せかいは広く
そして己を知るために道は続く
◆借景庭園
他人さまのものを無断に失敬しすれば、場合によっては実刑もあり。しかし、落ちてあるものやいらなくなったものを再利用したりするのは「知恵」と呼ばれます。たとえば、やどかりとはよくいったもので、彼等は文字通り、貝殻というものを借り物としてそれで以って澄まし顔。みの虫は木の葉や小枝で蓑を作り、かっこうなんかなると他の鳥の巣に卵を産み落とす托卵という狡猾な手練をもっていたりと、生き延びるための知恵を有効に活用して生きているのであります。
さて、本題。その名も借景。日本庭園にみられる借景庭園っていうのは実にうまく考えられていますね。文字通り景色を借りてしまうのですから。背景に東京タワーだとか、富士山だとかと誰でもわかるアイコンを入れることで、より明確になる記念写真なども、よくよく考えればこうした原理なんでしょうね。
庭園でいうなら、額縁のように竹林越しに大原の山並が切り取られる宝泉院、枯山水の石庭で有名な竜安寺。圧巻なのは奈良にある慈光院は空間的にも大好きです。大和平野、いったいにひろがる吉野の地形を臨むことができ、古の奈良の歌人たちを思えば、それはもっと典雅な眺めになったりします。そういうところへ赴くと、自然とココロが和みます。
駅でいうと、JRお茶の水駅が好きだったんだけどな。あれは神田川を挟んだ借景駅だったんだけどね。でも残念ながら今は開発が進んで随分と様変わりするんだろうな・・・
◆ジュスイ、ジスイスト/Je suis Jisuist
男のひとりぐらし、いつも自分で料理を作っているというと、なんだか、へぇすごいねぇ、なんていわれることがあります。自分の場合、作品を作るようにしてクッキングも楽しむ。台所はさすがにきっちんとしていませんが、まあ、不自由はありません。サカナをおろしたり、じっくり手間ひまかけるようなことはしませんが、どちらかといえば、即興的、感覚的につくってします。
得意は煮込み系。まあ、適当な材料と調味料を順に加えて、後は待つだけのカンタンレシピでして。そんななかで、今日何にしよう? と思ったら、ハイ、卵料理ですね。卵料理、とひとことでいうにはいろんなバリエーションがありますけれど、卵ってつくづく重宝だなあ、と思います。目玉焼き、炒り卵、茶わん蒸し、出し巻き卵、温泉玉子、オムライスなどなど、この際、納豆に卵、そして卵かけごはんもいれましょうか。
なあんだ、そんな程度か、とバカにすることなかれ、卵料理はどれもけっこう難しいものですよ、ちょっと侮ればえぐっ、てな感じで台なしになっちゃうんですから、うふっ。
ちなみに、詩人コクトーは大の目玉焼き好きだったそうで。ドイツ語ではSpiegel Ei (鏡卵)というそうで、狂乱したかどうかは知りませんが、これが詩人の気をいたく惹いたのでしょうね。そのエピソードは、コクトーお気に入りの世界の美食家を唸らせた名門「ル・グラン・ヴェフェ-ル」の名シェフのレーモン・オリヴェによって紹介されていますが、自慢はバターを落とした料理用皿にに塩をふって、そこに卵を落とし、しあげはブラックペパーという、こちらオリヴェ直伝の、なづけて「オルフェの目玉焼き」、これぞわたくしめの目玉料理でございます。
◆食器アーティストの共演
とあるセロ弾きの泡だて器プレイを目撃したことがある。火花もとんでたっけ。そもそも台所という場は、ちょっとしたコンテポラリーミュージックの宝庫とでもいってもいいかもしれない。水の音、沸く音、材料を刻む音、換気扇のファン、電子レンジのチンから冷蔵庫のブゥ~ンという音まで。なかでも現代音楽的な享楽はなんといっても食器同志の摩擦音であろう。静謐な空間であればあるほど、とても複雑に混ざり合うガチャガチャ音。つまるところ、無為の音楽、作為なき音響。サティの家具の音楽のコンセプト、そしてイーノの環境音楽へ、近頃じゃ、音響派というジャンルにおよんで流転しているけれどね。
◆じりじりとするだんじり魂
秋といえばお祭り。日本で有数の喧嘩祭りで知られるのは、岸和田のだんじり祭り。元ジャイアンツの番長こと、浪速のスターキヨハラなんかもだんじりっこだったんでしょうね。なんたって一年に一度ということもあって、地元民らの気の高ぶりはたいへんなものでしてね。祭りが近づくにつれじりじりとしたりなんかして。なぬ? 御主はよもや……、といわれるとそうなのです。ワッショレ-なわたくしは、実をいいますとオオサカ泉州地区の元住民というわけで、岸和田の隣の町、貝塚市という町で生まれ育ったのであります。今はニュースのうわさで聞く程度になりましたが、なぜか今でもどこかで気になりますね。
わが故郷でも本家岸和田に遅れること一ヶ月後に、やはりれっきとしただんじり祭りがあり、小さいころはそれはそれは愉しみでした。笛と太鼓につられて、だんじりを追い掛け、生で体験できた、というのはちょっとした遠い日のノスタルジー。ちなみに、町の学校がすべて休みになるんですから。文字通り市をあげてのお祭り、ときには死者がでるほどの荒々しいだんじり祭りは、スペインの闘牛にも負けじ劣らぬ興奮があります。
走り出しただんじりの勢いで、引きづられひざを擦りむくというのは日常茶飯事、大人に混じってこわかったけれど、あの彫り物の立派なこと、夜になれば、ちょうちんをつけての市内行脚の典雅な風情、そして曵くともらえた梨、大人への憧憬、いろんな思い出が蘇ります。祭りが終わると、電線につけた赤いヒモ、道路に刻まれた木駒の跡に名残惜しさと、いいしれぬ秋の静けさを、子供ながらに肌で感じちゃあったんよね。
◆人力ドラムンベース
テクノミュージック~クラブ系へと流れていく音楽体系における最大の魅力は、汗をかかずして刺激的な音楽を構築できるということにある気がします。しかし、物事はそう単純ではないのです。だれがいつからそう呼ぶようになったかは定かではないにしても、ドラムンベースなる音楽のジャンルがあり、おおよそそれは打ち込み系の、これ見よがしの四つ打ちにはじまり、ズッズカッカドゴドコ、ドンドンカッカスコココ……てな具合の、ポリフォニック&メカニックな有機性をもったビート、リズムには、人を身体的に昂揚させるようなところがあって、作り手にはその精緻なプログラムの醍醐味があるだろうぐらいは想像できますよね。身体あるビートを設計する、とでもいいましょうか。このリズムも、どんどんど進化をつづけていますが、それというのは所詮疲れをしらぬマシーンたちのクールな技能でして。正確であっても、複雑執拗であっても決して熱くはなりませんし、汗などかくはずもありません。
それに対抗しようとするかのように、これを肉体を限り無く駆使してやってしまおう、やってしまうドラマーたちがいたりします。たとえばROVOという壮大なロックバンド(トランスロック)でのツインドラム(芳垣&岡部コンビ)による強力な肉体性をもったポリリズムにバズ-カーJoeの硬質なベース、Dub Squad のメンツによるシンセベースと絡んだドラムンベースなぞ、クリムゾンもマッ青ってな感じの圧巻の極みです。ひとよんで人力ドラムンベース、まさに人間のしわざですからね。なぁんだ、人力なんてことばがついただけじゃないの、などとは軽率におっしゃらないでいただきたい。これ、すなわち、科学万能時代にあって、肉体自らをもって、スピードとパワーに挑む、至極ごくろうさまなことなのですから。それをやれるというのは、実にかっこいいなぁ、ですごいなぁと感情移入してやみません。知的、クールであるはずの、最先端なリズム形態が、こんなにも熱く、こんなにも人間くさいのだから。まさに現代の父権の復権のキーワードとでも言いたくなります。
こうした一見遠く離れた観のあることばの交配は、とても刺激的、なんてしゃかりきいうのもおかしいけれども。
◆スイスイスーダラなスイミングプール
日本には似合わない風景がプール付きの豪邸。まあ、気候にも大きく左右されるんでしょうが、ホックニーの絵のようなプールには眩しい陽光が必須。とは言っても、夏にプールは定番。ただし、室内プールなら一年中やっていますよね、ここ日本でも。昔、体育の授業での水泳の時間が嫌いでした。うまく泳げなかったのもあるし、そもそも着替えるのが邪魔くさかったな。コンプレックスなんでしょうかね。人前で水着になるものいやだった。気だるいプールの匂いそのもので気が滅入ってしまう。今でもあのころを思い出すと楽しい思い出がない。なのにいまは、なぜか気持ちいいのですよ。誰にも命令されず、自由気ままに泳ぐからでしょうか。市民プールは冬なら比較的人気もない、水と贅沢に戯れられるけっこう穴場ではないかと。それでいて、けっこうな運動になる。水中歩行でも十分にいい運動になりますからね。特に練習したわけじゃないけど、今なら不思議なことに、25m、50mとちゃあんと泳ぎきれるんですよね。クロールに平泳ぎ、背泳ぎでも。そりゃあ気持ちいいです。でも、ハードにハアハア泳ぎまくるヒトを傍らに、水に戯れながら、だらだらと泳ぐぐらいでちょうどいいのです。水遊び感覚でもいい。無理はしません。改めて水という物質に癒されるのです。帰りに外の風を浴びる瞬間がまた気持ちいいもので。
◆鈴カステラ
鈴カステラってありますね。鈴の形で二色の一口カステラ。むかし、デヴィッド・シルヴィアンがジャパンというバンドでやってたころ、前をブロンド、後は茶色に染め分けてましたっけ。ウォ-ホールを意識してた頃ね。それをどこかで誰かが鈴カステラへア-なんていう風に呼んでいるのを知って、実にうまくいうものだなぁと感心したものです。お菓子のはなしから髪型の話へ、おかしな話です。お茶をいれ、一息つくとき、茶請けのお菓子に、ひとくちサイズのものがあれば、けっこう嬉しいんですよね。別にケーキや特別なデザートがなくっても。その分、ついつい食べ過ぎちゃうんですけどね。
◆す、す、すっ、素敵な巣あれこれ
動物や昆虫の巣って惹かれるんです。もし、あなたが少しでも建築に興味があるなら、巣という概念、構造に興味をもたないわけがないでしょう。引っ越し、購入、レイアウト、売却・・・・人間だって、住居空間というものに日々、一喜一憂していてではありませんか。なにもインテリア好き、センスのいいひとだけの楽しみ、問題じゃない。
一口で巣っていうのもピンきりですね、ミツバチやアリといった集団で生活する大住居もあれば、鳥やクモやビーバーのように、少数の住まいまで、形も素材も、構造や機能もさまざまです。実をいうと、形だけなら、つばめの巣がいいと思うし、クモの巣はグラフィックとして素晴らしいし、機能や構造でいうとアリやミツバチの巣にはほんとうに感心するし、蟻地獄の巣は絶品だと思うし、ビーバーにはただただ憧れるし・・・・。巣ではないけれど、秋田地方のカマクラやエスキモーのイグルーも自分的には人間がつくり出した巣ですね。
巣作りというのは、ほんとうにクリエイティブなアイデアがつまっています。彼らが誰に学ぶことなく、ああいった建築手法を考え付いたというのは、驚きです。それはそうと、わたくしが大好きでよく行くライブハウス、マンダラ2の壁をみていると、どうも蟻の巣を想像してしまうのです。あれは意図的なのか、たまたまなのをそのまま見せているのか・・・不思議な音楽と相まって不思議の国の蟻の巣をイメージさせるのです。
◆すっぱいを恐れるべからず
梅というと、どうしても酸っぱいイメージがつきもの。それって絶対梅干しのせいでしょうね。日本人の遺伝子のなかに、何千年も組み込まれた感覚の一つではないかと。でも梅酒になると、ちょっとその塩梅が違います。ちなみに物事「いい塩梅」っていいますね、これっていうのは、その昔、塩と梅を漬けてできる梅酢が、料理の味付けに使われていたことにたんを発するんだとか。だから何も酸っぱさを強調するわけじゃない。そんなこんなで、最近は蜂蜜入り梅干しってのがあったりするんですが、それもちょっと違うような気もします。だからあまり口にしません。でも、梅酒は好きですね。最近軽く飲むときは梅酒ロックを嗜みます。梅干しに関しては、甘さ不要。昔風の酸っぱいものの方が断然いい。ただ、ほかほか弁当なんかに入ってるカリカリの小梅はいやだなあ。だってあれ、着色バリバリですもんね。その上なんとなく貧乏くさい味がしてカリカリしちゃいます。
ところで、話は変わって、日の丸弁当というのは、すごく完成された「絵」ですね。シンプルイズザベスト。グラフィック的にはもうケチのつけようがありません。考えてみれば、ご飯に梅干し、まあオニギリのもっともスタンダードな具ですが、究極の日本食という気がしますね。なんたって小野妹子の時代に、中国(隋)から渡来した梅が、その後保存食として、我が国の特産として梅干しとなり、それがいまもなお現代に食べ継がれているわけですからね。(実際に梅干しが登場するのは平安時代から。日本最古の医学書「医心方」には梅干しの効用についての記述がある)
このシンプルさこそ、日本の命。ほんとうは、日本っていうのは、こういうシンプルな基盤の上に成り立っている民族なような気がしているのです。
◆スティールドラムとカルピスの水玉関係
夏になると自然に手がのびる音楽というものがありまして。マーティン・デニ-やウォーターメロングループ、あるいは、ヤン富田、リトル・テンポなどなど。いわゆるエキゾティカミュージック、あるいはモンド系、もっとくだけばトロピカル音楽とよばれるものです。そこでの花形、といえばなんたってスティールドラム。スティールパンとも言いますね。あんな風にキンカラキンカラ、ポコポコラポンポンと鳴る不思議な楽器、実はただのドラム缶なんですね、これが。(近頃じゃハンドパンというのもありますね、UFOみたいなやつ。あれもいいな)
いやあ、金属といっても、むしろとっても柔らかな感じがあって、この響きにはほんと癒されます。思わず、身体がほころびます。可愛いと同時に、おおらかで、ファンタジックなトロピカルくんの音色。
ちなみに、なぜだかカルピスのイメージにぴったり重なるのですけどね、あたくしには。夏といえばカルピス、スティールドラムにカルピス。そして白い雲。そう、白のイメージが加われば夏のイメージが完成です。
この飲み物、確かに爽やかということばに、嘘はないですね。濃縮の度合いによって味は変動しますが、冬にお湯割りで輪切りレモンを入れ飲むホットカルピスなんかでもいけるんですよね。
◆素直なこころで砂遊び
砂というのは、じつに手触りがいいですよね。サラサラ感がたまりません。海辺の砂にはキラキラ光る貝殻などが含まれていて、絶えず流動的、なにやら神秘的な生き物であります。水が浸透する光景など、通りがいいというのは見ていても気持ちがいい。それでもって、砂浜を裸足で歩くときのなんともいえないあの感触、不思議です。砂をつかんではサー、つかんではサー、とその流れ落ちる感じもなんともいえず好きなものです。要するに砂そのものが好きなんです。子供のころ、それこそ砂場で砂遊び、これって子供にとっては精神衛生上すごくいいらしいので、幼稚園や保育園には砂場がありますね。造形遊びの原形はここにある気がします。ただし、砂というのは淡くもろい。せっかく作った山やダムや城は、すぐに跡形無く消え去ります。砂浜に描く落書きをさらってゆく波・・・どこかロマンティックですけど、どこかかなしかったり。まあ砂上の楼閣とはよくいったもので、この危うさこそが、砂の魅力だともいえますが。
◆砂のプリン
金のオノ、銀のオノ、という話がありますが、人間なら、欲はひとまず置いておいて、やはり銀よりは金を本能的には選ぶと思うんです。でも、あたくしはときには金より銀、すなわち金閣寺より、銀閣寺のほうが好きですね。くらべものになりませんね。三島由紀夫の小説に『金閣寺』がありますが、漆のうえに金箔塗りの豪華さは認めますがね。足利義満は贅をこらしたのでしょうが、実際に風雅、品、そしてなにより独創性などの点では、義政の慈照寺こと銀閣寺の方がはるかに価値があると思っているのです。庭としても見事さ、月の光を反射させるための銀沙灘という段々があり、お気に入りはあの砂のプリンですね。みごと、美しく整えられた円錐の存在には言葉がありません。向月台とよばれ、月を臨むための高台?というわけでしょうか? うむ、ぜひ。子供心としては顰蹙覚悟でのっかってみたものです。まさに、砂のプリンの頂きにていただきぃ!って感じを味わってみたいな。
◆住み込み稼業
若かりし頃、かつて、銀座8丁目のとあるカフェで深夜2時まで働いていたことがあるんです。ほとんど従業員は中国人ばかりだったけど、シャンハイの俗語を教えてもらったりして、それなりに楽しかった。そこは、個室のマンションつきでね。要するに家賃がタダのいわゆる住み込み業務のはしくれをやっていたのです。そこに身を置いたのは、外国逃亡費を抽出するためで、要するに捨て鉢な行動だったわけで。でも今じゃいい思い出。場所は新富町。銀座までは徒歩で通える便利なロケーション。新富町と言えば、確かかの溝口健二もいっとき住んでいた地。(今は廃れてしまっているけど)で、その当時はまだ並木座(日本映画オンリ-の名画座)があって、昼間はけっこう通ったものだった。成瀬、黒澤、溝口、小津などはだいたいここの世話になっておりました。
そう、住み込み……といってある映画のことを思い出した。
空港闘争の折の三里塚、あるいは山形の牧野なんかに住み入ってドキュメンタリー映画を撮りつづけた映画人小川伸介とそのスタッフのこと。また水俣病のお膝元、新潟阿賀で同じくと田植えや稲刈りをしながら同じく映画を撮りあげた佐藤真という映画作家のこと。こうした人たち、スタッフ一同家族のように、何年にも渡ってひとつの社会を映画と共に形成していったひとたちのことを。ほとんど無償、へたすりゃ、一生が左右されることになるかもしれないのに、だよ。けれどそこには、その幸福が映画という豊饒の実りとなって永遠に刻印されるんだなあ。それを誰が咎められましょうか。「千年刻みの日時計」や「阿賀に生きる」なんかを見れば一目瞭然。これは日本の宝でもあるのです。貴重な記録。豊穣な時間の刻印。
情熱やたんなる思いつきだけで、そんなことができるのだろうか。なんだろう、これは、映画というもののマジック(磁力)と、人間というものの不可思議な情と狂気と、あとは、やっぱり神様からの直々のご指名によるご使命なんじゃないかなんて、近頃思うんだよね。
◆セカンド・ロゴ
文字をデザインして社名や商品名などを表すロゴ。有名なところで、すぐに思い付くところでは、JRやNTT、ルイヴィトンや、シャネルとか、コカ・コーラとか、まあよく目にするものは必然的に覚えてしまいますが、いずれにせよ頭のなかでロゴと企業そのものが結びつけばデザインとしては勝ちですね。ほとんどのデザイナーさんはコンセプトをもって製作しているはずですが、なかにはパクりや、どこにでもあるようなものの、的外れなものもあったりしますね。どことはいいませんが。
いわば、企業やショップの顔なわけだから、大切な要素ですが、やはりそうそう簡単にはいいものできるものではないですよね。まあ、閃きというのはありますが、そのロゴが独り歩きして、長い時間を要して、立派な一人前の顔になる。ってことですね。
ちなみに、例えば濫立するカフェ系でいうなら、個人的にはDOTOR/ドトールのロゴがいいなぁと思ってるんです。黄色と黒のコントラスト、あとコーヒー豆をモチーフにしたロゴが、シンプルななかにも気を惹く何かがあるんですよね。そのようなわけで、カフェとしても、ドトールがなんとなく好きなんです。そう、ただなんとなくなんです。ところが、最近のその理由がロゴだけではない、ことに気づいたんです。それはいわゆるタイガースカラーだから、というものです。小さい頃から親しんだタイガースの帽子もユニフォームは黄色と黒だったんです。現在はトラのマークだけが黄色で、全体は白地に黒の縦じまですが、当時は確かに黄色のラインがしっかりとアクセントを刻んでいたのを思い出しました。コーヒーとトラの関係が思わぬところで結びついたというわけですね。
◆セプテンバーは9ートな月
一年でもっとも好きな月、・・・それが九月ってわけなんですよ。クルト・ワイルの名曲「September song」に代表される通り、セプテンバーなんとかかんとか、という曲が多かったりするので、そういうひとは結構いるんじゃないかな。
昼には夏の名残りが、でも陽が落ちると虫の声や涼しい夜風で、秋を感じるなんとも趣きある季節。カラーはヘリオトロープ。つまりは淡い紫で染まる日々。
子供たちには、夏休みという夢の時刻がおわって、一抹の哀しさを伴う季節でしょうが、自分はいつもこのころから、俄然調子がでるといった感じで、夏の暑さから解放され、身も心もかるくなって、長いようで短い一年もあと4ヶ月か、ってことで、少々遅いスタートが始まります。食卓には秋の果物がいろいろお目見えするし、おしゃれのバリエーションも増えて、何より過ごしやすいので、然と希望が湧いてきませんか?
◆全集もの
ほとんどの書物を処分してしまった今、本棚はガラガラになってしまったのですが、基本的に、本そのものが大好きでした。中でも全集もの、というか、きちんとした装丁での全集モノが好きだったのです。コクトー、ヴィアン、澁澤龍彦、瀧口修造、安部公房、野坂昭如などの全集が並べられてありました。コクトー全集は大学に入ると同時に買い揃えた東京創元社からのもので、ここは、リラダンとかね、バルザック、ポーなんかを出してた出版社ですね。まあ、近頃はとんとしりませんけど。ずしり重たくていかにも中身が詰まった文学全集でした、そんな全集を枕代わりに寝たこともありましたが、決して気持ちがよいわけじゃないけれども、なんか、まかり間違って夢の世界が開示されないか、などと馬鹿なことを考えたりしたものです。全集をもつ、揃えるというのは趣味、というのでもなく、とりあえず、それにふさわしい環境をもちたい、つまりは、書斎をデンと構えるようなご身分に対するあこがれだったのかもしれません。澁澤邸のような夢の一室で微睡む甘美な夢。でも今はそういう執着は薄らいでいますけれども。
◆せんべいをかじる音
そのむかし、はじけるガム「ガムパッチ」というのがあった。(いまもあるのかな?) それはそれは口の中がパチパチとにぎやかなことで。言ってみれば落ち着きもなく、品もない。
その点、乾いた音、どこか楽観的でコミカルで、それでいて粋があるのはせんべい、あるいはおかきなんてという存在だ。ボリボリ、パリパリあの音がまたいいんです。
硬からず柔らかからず、お茶をともなって、口のなかはまるでおしゃべり窟というわけでしょうか。お供は日本茶がよろしいけれど、あえて贅沢はいわない。ざらせんも捨てがたいが、スタンダードなしょうゆ味、いわゆるたまりせんなぞ、たまりませんがな。
その昔「Dr.スランプ」という漫画があり、確か主人公キャラはのり巻きアラレちゃんで、その生みの親がせんべい博士だったかな。原作者もひょっとして煎餅好きだったのかなあ???なんて思う今日この頃です。
◆そば湯でババンババンバンバン
麺類は嫌いじゃありません。パスタもいいけどやっぱり汁が欲しい。ラーメンよりはうどん、うどんより蕎麦。日本人でよかったなあと思える瞬間のひとつ、それは蕎麦屋で蕎麦をずずっとすすっている時でございます。やはり蕎麦は手打でなんぼの世界。夏は特に食欲がなくなるものだから、そんなおりは、ざる蕎麦やせいろなどがたまらない。あたくしは、鴨せいろなどに舌鼓を打ちます。ルーチンワークはいやですが、このルチンたっぷりの蕎麦のルーチンは飽きませんね。せいろで一枚たいらげて、そこへ緋色の湯桶からそば湯をいただくってな時は、しんそこ幸せな気分に浸れます。この蕎麦湯、元禄のむかしからあると聞きますが、昔の蕎麦職人といえば、そばの湯で加減こそが腕だという。それこそ濃い蕎麦湯は下手な職人とされていたそうですが、ちかごろじゃポタージュ風の蕎麦湯もあるとかで、時代も変わればまた感覚も違うのでしょう。一度は味わってみたい気もいたしますが、やはりわたくしはさらさら薄い蕎麦湯でけっこうでも十分ですけれども。ただし、蕎麦そのものはずっとこのまま継承していってもらいたいものです。くれぐれも、太い蕎麦など御勘弁を。
◆空耳だわー
まずは、ソラミミっていう響きからしてポイントが高いです。「空」=0じゃない、この場合意味的にマイナスであるかもしれないけど、なにがしか別の「量」がプラスされ、原形とって代わるという、変な言い方ですが、もとあるものを全然違うものに置き換えてしまうわけですよね。名前の間違いなんかは、やはり気をつけたいのですが、まあ、悪意がないのなら許してもらいましょう。
そういう風に聞こえる、というのは、その人でしか、生まれえなかったものでしてね、例を引くなら「うさぎ追いしあの山」を「うさぎ美味し」と聞き違えてしまう頭の構造がそのひとのすべてってことです。日常茶飯事、空耳度100%でして。
ちなみに、タモリがやっていた、いろんな音楽から勝手にに「そう聞こえちゃう」空耳アワーというコーナーとても面白かったな。もっと普段聴かない音楽のジャンルでもそこだけで楽しめちゃいますもの。これって、音楽に対する侮辱? それともゆとりですかね……。このタモリというひとは、こういうことを面白がれる洒脱なセンスをもっている数少ないヒトで、じつのところ、そんな嫌いじゃないんですよね。確かに芸人的に保守的なイメージがつきまとっていますが、なかなかどうしてやはり味があります。
◆植物界のタヌキは部類の戦略家である
植物の中で、とりわけ興味深いのが食虫植物。何しろ物静かな植物が、よりにもよって罠を仕掛けて昆虫などを捕獲して養分にしてしまうというのですから、恐ろしいまでに戦略家というわけですね。
通常は太陽を浴びるか、根から水分を吸い上げる自給自足が植物の基本形だとしたら、こちらは有り体に言うなら、実に頭のいい狩猟植物だと思うのです。有名なところでは粘着液を出した繊毛で獲物を離さないモウセンゴケ、二つのトゲある葉っぱで獲物を挟んでしまうハエトリソウ、まさに地獄のツボに生贄を誘って捉えるウツボカズラ、とその仕様は多種多彩ですが、それぞれが実に個性的、よく考えられているなあと思いますね。
それらは見た目にも実に蠱惑的。ハエトリソウなんて、口のような、あるいは目のような造形で虫を閉じ目てしまうのだから、見た目にもインパクト大。ウツボカズラに至ってはその長いビンのような形態がすこぶるエロチックで・・・男心をくすぐるというか、うーむ、そりゃあ虫じゃなくとも引っかかりますよねえ。
とはいえ、僕が好きなのはそうした個性派よりももっと素朴なところで、タヌキモという沼地などに生息する地味な食虫植物でして。どちらかというとモウセンゴケに近いのかもしれない。でもその名がチョット可愛い。何しろタヌキですからね。イメージからきたのかと思いきや、葉の形がタヌキの尻尾に似ているところからきているんだとか。このタヌキモ属は先の派手な食虫植物と違って、実は非常に洗練された捕食をするのです。近ずいてきたボウフラなどが捕食嚢の淵にあるセンサーが反応して、口が開き、そこに水とともに流れ込んでくる獲物を捕食するシステムを構築しているのです。実に頭がいい植物です。なので、食虫植物というよりは蛸壺のように、獲物の習性を理解した知能犯だと言えるのです。さすがはタヌキですね。はい。そういえば、なくなった球界の月見草こと、ぼやきのノムさんのイメージがダブルのですが、いかがでしょうか。それこそタヌキジジイで、何か泥臭くて、何をしでかすかわからないようなイメージを持っていながら、頭の中は実にコンピューターのように分析がきいて、その名もシンキングベースボールの伝道師だった、あのノムさんのイメージ。タヌキモを見るためだけにわざわざ沼地に出向こうとは思いませんが、愛嬌と知性の兼ね備わったこの食虫植物に人知れず微笑んでみてあげようと思います。
◆ストーブリーグ
星野源の「ストーブ」という曲を聴いて、そろそろそんな季節だな、
って思って押し入れのストーブを引っ張り出してきた。もちろん部屋にはエアコンもあるから
ストーブの世話になることもないのだが、僕としては暖をとるにはストーブがどうも手放せない。
今の環境は石油ストーブで、いちいち灯油を買うのも面倒なのだが、いざストーブに点火してみると
やっぱりいい。暖かいのだ。おまけにヤカンをのせておくと、お湯も沸く。やかんのフタがパカパカいう音や
お湯がシュンシュンと沸く風情もいいものだ。まさに昭和の風景だ。
もっとも僕が小学生だったころにはさらに石炭ストーブというのがあって、石炭を運んだり灰を処分したりするのが日直の当番の仕事の一つで、当時は面倒でいやな想いをしたかもしれない。が、今思うと
なんだか懐かしくって、なんとなく気持ちがほっこりしたりする。石炭という鉱物がまだ流通していた
という感覚をもっていることが貴重な体験のような気がしているからだ。
古い映画などではそうした場面も出てくるが、今、この社会で石炭なんかにふれることは
まずない。ノスタルジーとは失われたものを巡るちょっとした病なのかもしれない。
◆すり鉢職人
その昔弘法大師を生んだ高野山にいったとき、巣マニアである僕は寺の軒下でたくさんのすり鉢状の穴を見つけてハッとした。よくみると、なにやら生物が潜んでいる。これがあの蟻地獄の巣か、と興味津々で家に持ち帰って飼っていたことがある。何日かすると、立派にすり鉢が出来上がっている。あとは餌だ。餌はずばり、蟻だ。外で蟻を拾ってきてすり鉢に放り込む。その生態を観察してみるとこれが面白い。蟻地獄はすり鉢状の巣の中心に後退し潜って、すり鉢に獲物が落ちて砂が崩れその振動を察知し、落ちてきた獲物を大あごでがっちりと挟んで体液だけを吸って、その亡骸をすり鉢の外にポイと投げ捨てるのだ。まさに吸血鬼ならぬ、吸液鬼というわけだが、手榴弾のようにも見えなくもない不気味なボディと相まって、幼虫の身ではちょっと恐ろしい感じがするが、いったん成長すると憑きものがとれたように華麗なトンボのような容姿に生まれ変わる。そう、陽炎みたいにひらひら飛ぶ優雅なトンボだ。(実際はカゲロウ目でトンボではない)通称極楽とんぼといわれるウスバカゲロウ。なんとも日本的、趣のある昆虫ではないか。
ちなみにその蟻地獄は生まれて三年間にわたる幼虫時代を無排泄で過ごすという説がこれまでの定説だったのだが、これが2010年に千葉県の小学生によって排泄が確認されたという。でかした発見である。全く地味な発見だが、当人にとっては生涯忘れらない事件だろうし、研究者にとっても目から鱗の話に違いない。ちなみに、ウスバカゲロウと聞いて「薄馬鹿下郎」と行ったのは北杜夫氏である。とうのウスバカゲロウは、そんなことなど何処吹く風、ゆらゆらと華麗に舞うのだ。これぞもののあわれと言ったか言わなかったか。どこかいぶし銀の職人を彷彿とさせる昆虫である。
◆寿司は寿司屋に限るの巻
ご馳走というと何を思い浮かべるでしょうか? 昭和の子供ならハンバーグかステーキ、オムライスにチキンライスでも十分にご馳走のうちだったけれど、今のお子様達は舌が肥えてますからねえ。一般的には焼肉、すき焼き、そしてうな重に握り寿司。こんなところでしょうかね。私にとってのご馳走は何と言ってもお寿司ですね。はい。寿司と一言で言っても、トロ、ウニ、イクラなどがシャリに乗っかった握り寿司から、海苔がぐるりと取り囲んだ手巻き寿司、それでもってちらし寿司に太巻きや助六、あるいは海鮮丼あたりまで、どれも寿司には変わりありません。こちら、根っからの寿司好きだけれど、回転寿司にはさほど触手が動かないんだな。子供心をくすぐるレジャースポットとしてはいいかもしれないけど、どこか邪道のような気もしないでもない。どうせなら、やっぱりカウンターに腰を下ろして、寿司職人に直に握ってもらうほうがオツ。お客さん何しやしょう? じゃあ中トロ握ってくれる? ってなもので・・・
もっとも、そういうお店は値が張るもんだから、なかなか行けないし味わえない。つまりは敷居が高いとくる。それでも、何かご馳走してくれるというなら、やっぱり鮨屋がいいな。まあ近所にお気に入りのお寿司屋があってね、最近週一回は顔を出しているのだけれど、と言っても、まず昼しか行かない。ランチタイムで利用するぐらいが関の山。店はすこぶる良心的、大衆の店って感じだし、大将も素朴でいい人なんだ。そんな寿司屋で決まって注文するのは海鮮丼。まあ、昼時メニューはさほどレパトリ〜がない。握り寿司っていうと、個別に味わう贅沢品だけど、海鮮丼はある種、それらを一度で楽しめるってところがいいのかも。ネタが新鮮で、これがやっぱり美味い。その寿司屋はきっと良質な店なんだろうな、そう思っている。スーパーやチェーン店、回転寿司で味わう寿司とは一味違ってるんだな。餅は餅屋、やっぱし寿司は寿司屋に限る。
ちなみに寿司のネタで何が好き? と聞かれたら「穴子」と答える。間違っても「中トロ」とは言わない。そこに庶民感覚を滲ませるってわけ。
◆ザ・名画座の灯
コロナ騒動のおかげで苦戦を強いられているその一つが市井の映画館だろう。黙って映画をみるだけのことなのに、そこまで神経質にならなきゃいけないなんて、そりゃあ客足も自然と遠のく。そもそも今はストリーミングだのDVDだので自宅でも気軽に映画を楽しめる世の中だから、映画館にいってわざわざ見るという人は真の映画好きぐらいだろう。その映画好きでさえも億劫になる昨今のコロナ騒動である。
さて、そうはいっても映画館という空間で映画を見る快楽は捨てがたい。まして、名画座というものは日頃滅多に見れないプログラムを二本立てで手軽な料金設定で見せてくれる貴重な場である。はじめて上京してきたとき、東京にはまだ名画と呼ばれるものが結構残っていた。銀座の日本映画専門の映画ばかりを上映していた並木座には随分足繁く通ったものだった。そして池袋文芸座。貴重なプログラム5本立てをオールナイトでみたこともあるし、時折映画関係者をゲストに迎えてのトークショーなどにも誘われたものだ。そして、今尚よく行くのは高田馬場早稲田松竹で、まさに古今東西ストライクなプログラムを打ち出して頑張ってくれている貴重な名画座である。だからこそ、できる限り、そうした名画座に足を運んで、映画体験の醍醐味を継続したいのだが、肝心の小屋が潰れてしまっては元も子もない。それに一人気を吐いて通っても衰退の波に抗えるようなものでもない。この辺りは悲しい現実に直面するばかりだ。早く自体が収拾して、名画座が映画マニアで行列ができるほどに賑わってほしいものだが・・・そこで一つ提案というか、名画座移動プログラムなんてのはどうだろうか? 移動映画館のイメージはヴィクトル・エリセの『ミツバチのささやき』にも登場し、その中でいたいけな子供達が『フランケンシュタイン』に興味津々の眼差しを投げかかけるシーンだ。プログラムだけ抱えて、いろんな公共の場で映画だけを上映して回るサービスがあれば、地元の学校、あるいは公民館などの施設が瞬時に名画座に生まれ変わって地域の人間にも喜ばれる気もするが・・・なんとも悩ましい問題だ。
◆舌達者は赤がミソ?
とくに名古屋贔屓でもアンチでもないが、名古屋のミソ文化には、一目おいている人間である。
好きなのである。家康の生誕地三河国岡崎城より、西へ八丁離れた八丁村あたりが発祥だとされるのが八丁味噌で、その赤味噌のことをどうやって好きになったのか思い返してみると、トンカツ定食などをたのんで、ついてくる味噌汁が赤だしで、それがいつのまにか、脳にすりこまれて味噌汁は赤だしが旨い、などという風になったのではないだろうか、と考えるが、実のところ、最近味噌を切らしてたまたま赤味噌を買って、それが妙に旨いと思うようになったからである。
もともと豆製品は好物だが、味噌汁の旨さを実感しはじめているところで、赤味噌という、ちょっとだけ風変わりというか、王道ではない味噌汁に舌と気持ちがリンクしははじめたのである。
が、赤味噌とはいえ、よくみれば、濃い小豆色である。仮にビビッドな赤や朱であれば、それこそ食指は動かなかったにちがいないが、あらためて日本食の奧深さを考えると谷崎の『陰影礼賛』よろしく、この陰影の蘊蓄が眠っているのだと理解できる。醸造時間が他の味噌にくらべて長く、その分塩辛いのが玉に瑕だが、この醸造に味の秘密があるのだ、さすがに家康を産んだ地の物産だけのことはある、などと思うのである。
◆樹木のカモフラージュはイカすかも
街路樹といえば、イチョウとプラタナス。イチョウも葉の形が面白くて好きだけど、僕はある時から、プラタナスの木の方に特に愛着を覚えるようになりました。プラタナスは日本では篠懸の木(スズカケノキ)とも呼ばれるように、鈴のような実をつけますが、そんな実のことを気にかける人はそんなに多くはないでしょう。僕も、どちらかというと、あの特徴的な幹の方に目が行くのです。樹皮が剥がれ、白と淡緑の鹿の子まだら模様の樹皮が一際目を引くあれです。迷彩柄と言われるように、実に個性的な姿を見せてくれます。とりわけ、雨の日になると濡れた幹がさらにそのグラフィッカルなデザインを際立たせるので、しばらく眺めみたり、時に触ったりして楽しんだりします。プラタナスという木は葉が大きいので、夏は木陰を作り、冬は陽を遮らない、というので街路樹に最適だと言われるようですが、古代ギリシャでは、その木陰でプラトンやソクラテスといった哲学者たちが講義に使ったんだとか。なかなか風情がありますね。ちなみに花言葉は「天才」を意味するというから、知的で趣きのある樹だというのが窺い知れますね。
◆スピリチュアル、あるある?
告白しよう。僕にはいわゆる霊的な能力など全く備わってはいない。見えないものはどう頑張っても見えないのだ。だが、いわゆるスピ系と言われるジャンルには昔から興味だけは人一倍関心のある人間であり、幽霊やUFOといった、世間一般的な眉唾物、その手の話にも基本好意的に信じているのである。見たことがないのに、どうしてそんなものが信じられよう? そう言われることがあるが、ごもっともだが、理由はなくとも、そこにいて然るべきだとなぜだか素直に思えるのである。要するに、理屈ではないのである。そもそも人は必ず死ぬのだから、そのあとのことを考えないわけにもいかない。死んだ後も、生きてきたという実態が無くなるものとは到底考えられないのだ。魂は永遠なのだと疑わない。確かに霊能力はない、が、直感というものは日々強く信じている。直接救われた経験を、ここで無理くりに捻出するわけにもいかないが、例えばたまたまその飛行機に乗っていなかったから、墜落の目に合わなかったとか、たまたま体調を崩して外出できなかったがゆえに嫌な目に合わなかったであるとか、そう言った類のことは誰にもあるように思える。また、自分を守ってくれるハイヤーセルフのような存在も、その直感に紐付けるとすれば「感じる」ことはままある。いわば「神の声」である。よって感謝の念を忘れずに持っているわけである。畢竟、全ての物事の根底には、そうあってもいい、そうあった方が面白く、自然であると思える物事の捉え方が、根本に備わっており、それゆえに、スピリチュアルなものへの嗜好に向かうのだと思っている。
昨今は、スターシードだのスターチルドレンといった、宇宙人の生まれ変わりもこの地上に多く在籍するというのだが、それとて、すんなり受け入れられるのは、自分もどこかで宇宙的なもの、あるいは宇宙的波動によって活かされていることを実感するからである。それってあなたの思い込みですよね? そう言われてしまうと元も子もない話ではあるが、実際に宇宙人の生まれ変わりと称する人間の言葉の共通項として、神なる存在があり、この世を魂の修行場だと考えているということからも、共感できる話なのだ。