ベルナルド・ベルトルッチ『ラストタンゴ・イン・パリ』をめぐって
まず『ラストタンゴ・イン・パリ』の強烈なインパクトを、 どうにもこうにも抗えない悪夢のように、 多感な映画的感性の神経の溝をじっとりと湿らせ、 あるいはヒリヒリとした後味でもって刺激されたことを、 いまなお手に取るように覚えている身としては、 こいつをまず肴に、御題目を唱えないわけにはいかない。
まず『ラストタンゴ・イン・パリ』の強烈なインパクトを、 どうにもこうにも抗えない悪夢のように、 多感な映画的感性の神経の溝をじっとりと湿らせ、 あるいはヒリヒリとした後味でもって刺激されたことを、 いまなお手に取るように覚えている身としては、 こいつをまず肴に、御題目を唱えないわけにはいかない。
そんなわけで、春たけなわの今、 個人の趣味的範疇において、エロティシズム漂う映画について考察してみよう、 そんな欲望がにょきっと頭をもたげている。 それは必ずしも、直接的でない表現かもしれないし 言葉に依存したエロというものかもしれない。 単に個人的なエロスの観点がさらされるだけだが ひとついえることは、それらが滲ませるエロティシズムは とても興味深いのものだということだ。 人間の生の営みのなかに存在する官能性を喚起するものである
『愛のコリーダ』ほど純粋に、愛の映画だと言い切れる映画に出会うことは、 そうそうあるものじゃないと思う。 そこは声を大にしていっておきたい。 それほどの衝撃があった。
黒子のいるダンディ。このセンスを仰ごう。 近頃、達者な両刀使いたるバイリンガルたちによる英会話講座のような動画が増えている気がするが時々閲覧していると、有益なものがいろいろあるからついみてしまう。つい発生練習してみたりす...
『ラスト・ワルツ』には良き時代のアメリカンミュージックと ザ・バンドの集大成が、宝石にようにつまっているのだが、 やはり、ザ・バンドは五人揃ってこそのバンドなんだ ってことを再確認するのである。
趣ある本物の浄瑠璃を伴って、 のっけからなんとも風情漂う石畳の上に書かれたクレジットがいい。 真っ赤な字のタイトルは『㊙︎女郎責め地獄』 カメラが真俯瞰で追いながらタイトルバックが次第に赤く染まってゆく。 そこからいよいよ岡場所に入ってゆくあたり、 じんわり痺れる傑作の予感漂うオープニングである。
その原点は、「ポルノ度」の極めて高い小沼勝の手によって 換骨奪胎された、この『花と蛇』によって始まったと言えようか。 日活ロマンポルノ界のマリリン・モンローと言わしめた 谷ナオミとのコンビによって 薄暗い渦中にも、堂々陽の目を見た重要な作品である。 この『花と蛇』を見て、谷ナオミに胸をときめかせたという、 今や中年以降であるはずの紳士たちも多かろうと思う。 あるいは、その筋の道に引き込まれたマニアもまた 少なからずいるのであろう。
さっきこっそりひとりで映画を見たんです。 曽根中生という監督の『ためいき』という作品なんです。 私、こういうの、結構好きなんです。 ちょっと、エッチだけど、 ポルノだからしょうがないんです。 でもなんだかとっても面白い。 こういうの、期待していたんです。 ほんとなんです。 私、変態なのかしら? 自分でも、だんだんはまっていくのがわかるんです・・・
そこで、名匠小沼勝の傑作と誉れ高き『花芯の刺青 熟れた壺』。 「壷」と書くだけで、何だか手が股間あたりでうろちょろするような、 そんな淫美な気配がしてくるのは、気のせいではありませぬ。 他にも『熟れた壺』いうんもあって、この小沼という人は、 実に男のツボ、というかエロのツボを押さえた作家なのである。 日活ロマンポルノのなかで、ひときわ道を極める匠である。
ポルノだと思って見る人、みようとする人には 全くもって退屈極まりないに映画に違いない。 何も起きやしない。 いや、虚無のようなものが、無防備に突きつけられる。 それもそのはずで、70年代の空気を溶かし込んだ わけのわからない焦燥感に突き動かされる主人公たちの吐息が 官能よりも抒情的に網膜を突き抜ける。 そうしたフィルムのざらつきが今でも色褪せず この網膜越しに感じ取れるからだ。