映画・俳優

ある男 2022 石川慶文学・作家・本

石川慶『ある男』をめぐって

石川慶による『ある男』という映画がある。 原作平野啓一郎による文芸作品実写版だ。 こちら原作は未読ゆえ、その比較は出来ないが、 社会問題をも持ち込んだ硬質なテーマを 洗練された語り口で見せるに長けた映画で、かなり心を掴まれてしまった。 精鋭の俳優たちの演技も文句のつけようもない。 ここでは窪田正孝演じる谷口大祐ことXの存在感が目を惹く。

土を喰らう十二ヵ月 2022 中江裕司文学・作家・本

中江裕司『土を喰らう十二ヵ月』をめぐって

水上勉の『土を喰らう日々』というエッセイがベースである。 そのエッセイは、若き水上が禅寺で覚えた精進料理を紹介していて 単なる料理本というわけではない。 その想いはおそらくは中江裕司にもあり、 脚本はむしろオリジナルに仕上がっている点でユニークである。 水上勉という作家を特に意識したことはなかったが、 少年期に禅寺で修行体験を元にした川島雄三『雁の寺』を初め、 吉村公三郎『越前竹人形』、はたまた内田吐夢『飢餓海峡』などで多少は触れている。 この作家の食を通したどこか仏教的な生き様に、共感できる自分がいる。 食がテーマとはいえ、これはある種、人生訓でもあるからだ。

さがす 2022 片山慎三映画・俳優

片山慎三『さがす』をめぐって

映画を見るにあたって、なんの前情報もなかったからか、 最後まで見終わって、とても驚いた。 日本映画もここまできたか、それぐらいの重厚な力量を汲み取ったわけだか、  なるほどコリアンノワールな雰囲気からも、 片山監督は、ポン・ジュノの元(「母なる証明」)に助監督について、 現場ではかなり有能ぶりを発揮していたというし、 その後、撮った初長編『岬の兄弟』も続け様に見たが、これまた驚いた。 共に内容は重いが、日本映画の未来に大いに希望を抱かせる、 なかなか凄い監督が現れたものだ。

全員死刑 2017 小林勇貴映画・俳優

小林勇貴『全員死刑』をめぐって

『全員死刑』。 何だ、この強烈なタイトルは? 手を伸ばすべきか、無視すべきか? しばらく頭のどこかにひっかかってはいたが、 ずっとスルーしてきた映画である。 バイオレンスは当然、恨み、辛み、憎しみと言った 負のオーラをプンプン匂わせる。 が、どこかで悪趣味なものも観てみたい、 たまにはB級ものが観たくなるってのが映画好きの性だ。 映画は所詮娯楽。 かならずしも高尚なものたちのためだけにあるものじゃない。 そんな気持ちに抗えず、勢いで観てしまった。

桐島、部活やめるってよ 2012 吉田大八映画・俳優

吉田大八『桐島、部活やめるってよ』をめぐって 

『桐島、部活やめるってよ』が同世代共感の範疇超え 幅広い層に訴えかけうる映画になっているのはまさにその一点である。 いみじくも宏樹自身の言葉 「出来るヤツは何でもできるし出来ないヤツは何にもできないって話だろ」 そうしたプレッシャーや呪縛からの解放であり、 周りの目や、相対関係の綾から真に自由に生きるには、 好きな事を突き詰めるしかない、という これまたシンプルな説得力を伴った事実しないのだと。 そうした力を、映画オタクやスポーツバカを通して映画を推進することで 痛みやいびつさを浮かび上がらせる青春映画であるところに、 この映画の非凡な可能性を感じるのだ。

39 刑法第三十九条 1999 森田芳光映画・俳優

森田芳光『39 刑法第三十九条』をめぐって

ここに森田芳光による「39 刑法第三十九条」という映画がある。 とある猟奇的殺人事件に関し、逮捕された劇団員の加害者に対し、 途中までは、解離性同一性障害(いわゆる多重人格)をめぐって 詐病か否かを裁くベクトルの事件であったのだが、 最後には大どんでん返しが待ち受けるサスペンスとして、 あるいはヒューマンドラマとして、そのクオリティは高い。 こういうケースが、いつなんどき自分の身に降りかかってこないとは限らない事件として、 その意味では、法とは何か? いったい人間の尊厳とは何か?  最後にはそう言ったことに向き合わざるを得なくなるようなテーマでもある。

顔 2000 阪本順治映画・俳優

阪本順治『顔』をめぐって

『顔』は、そんな正子がいつしか愛おしくなってくる映画である。 彼女の生き様に突き動かされるであろう人間たちは、 いみじくも、彼女の逃亡生活がはじまったところで 神戸の震災に見舞われた人々のような、 すべてを失い、生きる希望を見いだせない人々ばかりだ。 生きてさえいればなんとかなる。 そう、なんとかなるという、何の根拠もない自信こそが 救いになるのだと言わんばかりである。 ラストでのひとり浮き輪をしながら海を泳ぎきろうとする正子のロングショット。 そこからもがきながら必死に前へと進もうとする彼女のアップで話は終わる。 当然、彼女の人生は終わらない、続くのだ。 『顔』は福田和子の件とはちがい、フィクションであるがゆえに われわれに真の生きる勇気を与え続けてくれるだろう。

KIDS RETURN 1996 北野武映画・俳優

北野武『KIDS RETURN』をめぐって

ふたりの落ちこぼれの高校生マサルとシンジの青春物語は いまみても、映画としての瑞々しさをたずさえている。 自らのバックグラウンドである漫才的要素をふんだんに挟み込み のちに映画そのものを推進してゆく暴力描写とをバランスよく混ぜ合わせ 人間そのものの生の息づかいを丁寧に描き込んでいる映画になっている。 『KIDS RETURN』を今、再評価するとすれば、 芸人的な遊びや小手先芸からは一歩引いた視線がぶれていないからである。 始まりと終わりに見る、マサルとシンジが二人乗りをする自転車シーンが この映画の全てを物語っているのだが、 すべてが終わった後、再び出くわしたふたりが                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               「俺たちもう終わっちゃったのかな?」 「まだ始まっちゃいねぇよ」」と交わす流れで、 再び人生を踏み出しそうとする二人の未来は、 まさに当時の武自身の姿に重なる映画構造になっているのだと思う。

さらば愛おしき大地 1982 柳町光男映画・俳優

柳町光男『さらば愛おしき大地』をめぐって

迫り来る運命に抗うことができないのはなにも幸雄だけではなく、 そんな男に惚れてしまった秋吉久美子演じる順子もまた同じである。 逆に、その運命の波に飲み込まれてゆく家や大地のたたずまいは あたかも神のように、ただひたすらに不穏に受け止めるしかないのだ。 この映画のたたずまいそのものを終始支えているのはそれだ。 当時からそれ以後へと移りゆく変遷のなかで、 「さらば愛しき大地」を未だ色あせない傑作として記憶にとどめているのは、 何人も抗えぬ大地の重みそのものであり、また美しさなのだと。

誘拐報道 1982 伊藤俊也映画・俳優

伊藤俊也『誘拐報道』をめぐって 

この作品、キャスティングが素晴らしいのだ。 まず、ショーケンと小柳ルミ子この組み合わせがフレッシュに活きたと思う。 いずれも伊藤たっての希望だったという。 ショーケンは、この映画のために10キロも減量して臨み、 まるでドイツ表現主義的な形相で、鬼気迫る誘拐犯を熱演すれば、 小柳ルミ子はここで映画初出演とはいえ、 大胆な汚れ役を厭わず、それまでのイメージを覆すが如く 誘拐犯の妻を、文字通り身を投げうつような覚悟で演じ切った。 以後、彼女のキャリアを前に大きな爪痕を残したといっていい