映画・俳優

Mauvais Sang 1986 LEOS CALAX文学・作家・本

レオス・カラックス『汚れた血』をめぐって

愛のない性交渉で感染するというSTBOの脅威に晒されるパリに ランボーの『地獄の季節』の詩編からとった二作目、 とりわけ『汚れた血』の印象がカラックス像を決定づけた。 カラックスの分身たるドニ・ラヴァンの風貌、 その存在感は圧倒的に異質なものに映った。 面構えからして只者ではないのだ。 (確か来日時には「笑っていいとも!」にも出演していたっけ) あの注目を浴びたデヴィッド・ボウイの「モダンラブ」をバックに ワンカットで疾走するシーンに、 こちらも青春を重ねて合わせてみた記憶がある。 だれしもあんなふうにまっすぐ思いのまま突っ走りたいのだと。

女が階段を上る時 1960 成瀬巳喜男アート・デザイン・写真

成瀬巳喜男『女が階段を上る時』をめぐって

その上で、この映画における森雅之のグズグズ感、 仲代達矢の小生意気なニヒルっぷり 頑張って生きる女たちの周辺を巡って 男たちは絶えず甘い汁を吸おうと集まってくる。 女は人生に翻弄されながらもたくましく生きてゆく。 こうした一つ一つが積み重なって奇跡のように 上質で無駄のない日本映画の黄金時代を証明する作品に仕上がっている。

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.34 女と男のいる鼓動 映画特集映画・俳優

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.34 女と男のいる鼓動 映画特集

恋は勉学の対象でないが、映画にはロマンティックで マネしたいようなそんな瞬間はいくらでもある。 でも、チョット待って! そんな安直な特集をここで繰り広げたいのですか? そう思いのあなたにだけ、特別な映画をご紹介しよう! 別段、美男美女のロマンティックな恋模様だけが全てではない。 くたびれのもがきであろうと、老いらくの狂い咲きであれ、 またまたトンチンカンで自己中な思いであれ、 はたわけのわからぬ戯れであれなんであれ、 そこにいる男と女がそれぞれの立場で、 相手を思い、すれ違う様を瞳に映じて夢をみようというだけの話だ。

女と男のいる舗道アート・デザイン・写真

ジャン=リュック・ゴダール『女と男のいる舗道』をめぐって

要するに『女と男のいる舗道』は ゴダール流のアンナ・カリーナへの愛を汲み取らねばならない。 ルイズ・ヘアーにさせ、 映画館でドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』を見て涙をながさせ 娼婦のまねごとをさせ、そしてあっさりと死の洗礼を浴びせる。 非常なのか、クールなのか、 そんなレトリックにゴダールとカリーナの六年間の愛の歳月をみる。

8 1/2 1963 フェデリコ・フェリーニ映画・俳優

フェデリコ・フェリーニ『8½』をめぐって

よって、サーカス、そして祝祭的な人間讃歌がそこにあるのだとして フェリーニ映画を代表する作品、という認識は間違いではない。 人、状況、そして自らの創造性(芸術性)、 こうした映画作りの現実を前に、さんざん困惑し、もがき、苦悩し、 にっちもさっちもいかない袋小路な状況下にまでおいやられながら 結局は、ラストシーンで、出演者が手をつなぎ、 「人生は祭りだ、共に生きよう」と結ぶフェリーニ的映画の帰結の流れが 心の底からフェリーニ的映画人生のイメージに寄り添い、 われわれをいかにも陶酔へと誘い、 これみよがしに包み込んでくれる作品には、感動の言葉こそが似つかわしい。

COFFEE AND CIGARETTES 2003 JIM JARMUSH映画・俳優

ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』をめぐって

ここでとりあげる映画『コーヒー&シガレッツ』などは最たるもので 文字通り、登場人物がタバコを吸ってコーヒー(紅茶)を飲みながら、 目の前にいる人物たちと、とりとめのない会話をするだけの映画だ。 退屈さと面白さ、その背中合わせの空気が 手短に11話収められたショートショートのオムニバス作品で、 しかも、十年かけて撮りだめられた作品集、というわけだ。

『オリーブの林をぬけて』 1994 アッバス・キアロスタミ映画・俳優

アッバス・キアロスタミ『オリーブの林をぬけて』をめぐって

出演者たちを見渡しても、職業俳優などほぼいない。 「らしさ』を極力排除した世界であり、 それはどの映画においても共通しているのだ。 ナチュラルなところが徹底された映画に、 虚構性さえ見いだすのがだんだん難しくなってくる。 がしかし、それこそは映画の魔法であり 素人たちを上手に操ること、彼らをうまく映画空間に引き入れるマジックの先に、 キアロスタミ自身が化学反応を伺っているようにも思えてくる そんな映画づくりを体験させられるのである。

IRMA VEP 1996 Olivier Assayas映画・俳優

オリヴィエ・アサイヤス『イルマ・ヴェップ』をめぐって

オリヴィエ・アサイヤスによる90年代フランスにおける 伝説の怪作『イルマ・ヴェップ』もまた、 フェリーニの『81/2』やゴダールの『パッション』、 ヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』 あるいはキアロスタミの『そして人生は続く』や『オリーブの林をぬけて』同様、 映画制作の現場〜舞台裏を描くメタフィクション映画だが、 比較的わかりやすく、とっつきやすい作品と言えるのではないだろうか? などと思うには思うが、とくにドラマティックな映画というわけでもなく、 また、ことさらにストーリーを追う映画でもない。 いうなれば、ポストヌーヴェル・ヴァーグな映画であり、 目に入れて愛でる映画、でもある。

ヨーロッパ横断特急 1970 アラン・ロブ=グリエ文学・作家・本

アラン・ロブ=グリエ『ヨーロッパ横断特急』をめぐって

仏ヌーヴォーロマンの旗手、アラン・ロブ=グリエによる メタフィクション映画の傑作『ヨーロッパ横断特急』。 どこかフィルムノワール風、どこかサスペンスを漂わせるが ロブ=グリエのメタフィクションは、もとより筋に重きがあるわけじゃない。 あたかも映画に遊ばれているような感じに陥って そこがわかっていないと映像の世迷い人になってしまう感じだ。 騙されることなかれ。

人間蒸発 1967 今村昌平映画・俳優

今村昌平『人間蒸発』をめぐって

「この映画はフィクションであり、そのあたり勘違いしないで下さい」 イマムラはそう念を押す。 なぜなら、フィクションであるということが、 この映画の救いであり、成功なのだという確信があるからである。 この映画は「蒸発者をめぐる考察」をしただけであり その本質が導き出されたわけでもない。 それどころか、問題の論点は「真実とはなにか?」であり 真実は誰にもわからない、という帰結の中で 映画に出演したという勲章はさておき、 登場人物たちのだれもが徳をしない、 まったくもって不快な思いしか残さない映画になっている。 そのあたりの執拗さは、他の映画にも見受けられる本質だが ここに、真実という生々しい現実がかぶってくるあたりに 映画としての面白さが広がっている。 作りの手の意図をはるか超えた次元でまぎれもない傑作に仕上がっているのだ。