ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』をめぐって

COFFEE AND CIGARETTES 2003 JIM JARMUSH
COFFEE AND CIGARETTES 2003 JIM JARMUSH

煙に巻くか味わうか、愛煙家たちによる噛み合わなさをめぐる11の苦いユーモヤ集。

演技なのか、それとも地なのか?
それってリアル、演出、どっちなのか?
映画を見ていると、どこかでそう場面に出くわすことがある。
その結論をはっきり指摘することは難しい。
演者か、演出家に直接尋ねる他ないが、まずまともな答えは返ってこないだろう。
基本的に、映画はフィクションである。
そこにカメラがあると思えば誰だって意識する。
そういうものなのだ。
強いていうなら、その現実と虚構の構造が映画として面白いかどうか、
こちらとしては、その一点に興味がそそられるだけである。

たとえば、ジャームッシュの映画なら、大抵そういうことすらも忘れて
なんとなく、ただその場の空気に馴染んでしまうような
不思議な感覚につつまれてしまうことだろう。
ある意味、映画の見方としては、理想的な体験でもあるだろう。
思えば、長編デビューの『パーマネント・バケーション』にはじまって、
最新作の『デッド・ドント・ダイ』に至るまで
多少の温度差こそあれ、
一貫した映画作りを継続しているブレない映画作家、
それがジム・ジャームッシュなのである。

もっとも、それは僕個人の印象にすぎない。
ここでとりあげる映画『コーヒー&シガレッツ』などは最たるもので
文字通り、登場人物たちがタバコを吸ってコーヒー(紅茶)を飲みながら、
とりとめのない会話をするだけの映画だ。
退屈さと面白さ、その背中合わせの空気が
手短に11話収められたショートショートのオムニバス作品で、
しかも、十年かけて撮りだめられた作品集、というわけだ。

この手の話は、とにもかくにも、一つのネタを長く引き伸ばすと
中身が薄まって、面白くもなんともなくなってしまうものばかりで
なんなら、その中の一つを膨らまして、一つの映画を撮ればいい、
あるいは、どれかとどれかをうまくくっつけて展開すればいい、
そんな単純な話にすらどうやら行きつかない。
やはり、その場の瞬間的な空気や雰囲気を小咄として見せるのがベストである。
少なくとも、ジャームッシュはそう心得ているのだ。
ジャームッシュが得意とするオフビート感覚は
そもそもが、こうした瞬間芸の積み重ねのようなものである。
それが後々ボディブローのように効いてくる。
もともと、ジャームッシュの資質において、
どちらかといえば、短編作家寄の感性をもっている作家のように思える。
むろん、長編がダメだ、向いていないというわけではない。

ここでの俳優たちがみせる表情や間が、はたしてどこまで演技なのか、
それとも、ただの日常の一コマの切り取りなのか、
もちろん、基本、前者なのはいうまでもないが
冒頭で書いたように、そんなことはどうでもいい。
ただその話を聞いていたいか、ずっとみていいたいかだけなのだ。
そうした観点が見どころになって、展開してゆく映画なのである。

ここでもあらかじめ書かれた台本のようなものに沿って会話がすすむ。
それなりに、“狙い”があって撮られたフィクションだからである。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       
テーマはずばり「すれ違い」ってことになるだろうか。
日常なんて、所詮そんなものか、とも思う。
二人、三人で囲むその席で、内容はともかくも
その会話がほとんどかみ合っていない。
そのかみ合わない空気をいかに演出するかが見せどころ。
そして、その微妙なずれ具合を楽しむ映画になっている。

全11話を全て追う気はない。
自分好みの話に勝手にフォーカスすればいいし、
撮影時期もまちまちで撮り溜められたエピソードを                                                                                                                                                                                                                                                                                             順番を組み替えて見たってなんの問題もない。
そういう映画なのだ。
いま、この瞬間でさえ、
すべてを細部にわたるまで覚えているわけでもないし、
内容を事細かく追ったからって、面白いというわけでもない。

話の内容に至っては、さほど大した内容ではなく、
まずは全編モノクロの映像に、チェック模様のテーブルと
たばこの煙、そしてカップなんかと共に
まずは演者たちの顔が浮かんでくるだけだ。
しかも、登場人物たちは皆それぞれ本人の名前で出演しているのもいい。
なかでもトム・ウェイツとイギー・ポップの「カリフォルニアのどこかで」、
ジャームッシュ映画ならではの企画である。
ともにミュージシャンであり、実際にもこういう場面はあるはずだと想像するが、
音楽性こそ違いはあれ、少なくとも、画面ではしっくりなじんで見える。
トム・ウェイツは『ダウン・バイ・ロー』以来、
すっかりジャームッシュ組というか、常連の一人だし
イギーもまた『デッドマン』や『デッド・ドント・ダイ』にもゾンビ役に出演し、
ストゥジーズのドキュメンタリー『ギミー・デンジャー』を撮っているぐらいだから
この出会いに、ぎこちなさやわざとらしさは微塵もない。
ただそれが面白いかどうかは別の話である。

ちなみに、トムは「この台本のどこが面白いか言ってみろ」と
撮影には不機嫌だったとジャームッシュが告白している。
イギーの方がむしろなだめ役だったというから面白い。
内容は、ハワイヤンがかかった場違いな空気感のなか
イギーと呼んでくれというのに、いきなりジムと呼ぶトム。
ジュークボックスをめぐっては、
「君の曲が入ってないよ」というイギーに対抗するように、
それを後で確かめるように「あいつのもないじゃないか」と呟くあたりが
なんともジャームッシュならではのおかしみがある。
ミュージシャン同士の探り合い、どこかでミエの張り合いのような会話がツボだ。

他で印象的だったのは、
才女ケイト・ブランシェットが一人二役を演じている「いとこ同士」。
まったく個性も外観も違う二人のキャラ、
品のある有名なセレブ女優ケイトと
タバコを蒸す蓮っ葉娘シェリー、パッと見別人、
そんないとこ同士の間柄を演じているが、
この場合、高級ホテルのラウンジという場所が重要なポイントで
そのオチが以下に落語のように展開する。
映画の中で、フィクション空間そのものとしては
かなり気合の入ったエピソードじゃないかと思う。
当然、場面は合成ということになる。
で、その外見、風貌からもヒエラルキーが出来上がった間柄として
明確な演出がとられているのだが、
高級ホテルという場所が、この場合、ヒエラルキーによって、
低い立場のシェリーが“世の現実”を突きつけられるおかしみがある。
つまり、有名人ケイトがいなくなった時点で、
一般人シェリーはラウンジで禁煙を余儀なくされる、そんなオチだ。

アルフレッド・モリナとスティーヴ・クーガン演じる
もう一つの「いとこ同士?」。
アルフレッドはしがない俳優、スティーヴは名の知れたスターという関係。
いみじくも、ケイト・ブランシェットの一人二役のエピソードと同じタイトルだが、
最後に「?」があるのがミソである。
お互いに認識がなく、遠い親戚関係であることを会話を通し認識し合うのだが、
最初乗り気だったアルフレッド、全く興味のなかったスティーヴの関係性が
次第に変わってゆく感じのおかしみが描き出されている。
最初は、連絡先の電話番号を聞かれても快く教えたくなかったスティーヴは
アルフレッドがとある有名な俳優と知り合いだと知った瞬間から
態度を豹変させる、と言った具合である。
しかも、スティーヴはそれまでの態度へのバツの悪さをにじませる演出が乙だ。

その他、この映画企画の初っ端に撮られた
歯医者をめぐってナンセンスな会話になる
ロベルト・べニーニとスティーブン・ライトによる文字通り「変な出会い」、
あるいはジャズ・ベーシストビル・リーの子供達(スパイク・リーとも兄弟)
ジョイとサンキが双子を演じる『双子』、
雑誌を眺めながら、タバコ片手にコーヒーを飲むミステリアスな美女ルネ・フレンチに
コーヒーのお代わりはいかがと
ことあるごとに気を引こうと近づくウェイターが絡んでくる店内小咄『ルネ』など、
人によって好みが分かれるだろう。

大雑把にいえば、総じて1時間40分ほどの間に
個性豊かな登場人物たちの絶妙なマッチングで
その噛み合わない会話のミニコントを演じる映画だ。
これを我々の日常に置き換えてみると、
意外に重なる部分が色々見えてくるかもしれない。
ジャームッシュの視線は、あくまで、日常の延長上にある「観察」であり、
「表情」なのだと言えるのかもしれない。
我々は無意識のうちに、日常という名の映画空間に生きているのだと。
そんなひとときの遊びを疑似体験する場所がカフェであり、
その際に、コーヒーやタバコがちょっとした小道具として場を演出する、
そういうことなのかもしれない。

ちなみに、この11話の中には
タバコやコーヒーの健康についての蘊蓄が語られるシーンも出てくる。
ヒップホップグループウータン・クランのGZA、RZAに
ウエイターでビル・マーレーが絡む『幻覚』などがそれだ。
GZA、RZAが飲んでいるのはカフェイン抜きの紅茶で
つまり、コーヒーには中毒性があって危険というわけだが、
ビル・マーレーはここではカフェイン中毒&ニコチン中毒で、咳が止まらず
その対処方法をエセ代替医療師のRZAに聞いて
素直に「洗剤でうがいする」というナンセンスなオチに行き着く。

最もおかしいセリフは
「タバコを辞めて良かったよ。だから堂々と吸える」という
「カリフォルニアのどこかで」でのトム・ウェイツだろう。
健康なんて糞食らえ、タバコもコーヒーもない生活なんて無意味だ。
そう言いたいのだ。

IGGY POP:LOUIE LOUIE

『コーヒー&シガレッツ』のオープニングで流れるのが、リチャード・ベリーの元祖「LOUIE LOUIE」。エンディングで、このイギー・ポップバージョン。どこか初期ベルベットアンダーグラウンドのような暴力性があって好きなのだが、歌詞の内容もまたなかなかぶっ飛んでいて面白い。

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