小沼勝『花芯の刺青 熟れた壺』をめぐって

花芯の刺青 熟れた壺 1976 小沼勝
花芯の刺青 熟れた壺 1976 小沼勝

観音か官能か、ツボにハマって元祖SMクイーンに悶える季節

ちょっとやそっとの女のハダカを見せられたって
今更驚くような歳でもない。
興奮なんてしやしない。
さりとて男が枯れちまったってわけでもない。
今更、検閲などあってないようなAV天国に酔うような歳でもない。
時折、考えるのは、
昭和を賑わした猥褻裁判、あれっていったいなんだったんですかねえ?
よってエロはどこか淫美なものであってほしい、ってのが、
長年小生に、どこかで刷り込まれてきた一つの妄想かもしれぬ。

が、肝心の淫美さも薄れ、恥じらい奥ゆかしさなどはすでに死語。
このピクセルの集合体跋扈のエロ大国ニッポンに生きていると、
肝心のエロティシズムには程遠い、ガジェットとしての駄エロばかり。
興ざめがする。
はて、それでいいんでござんすかねえ・・・
近頃じゃ女子の方があっけらかん。
男子は身も心もすっかりすっからかん。
ゆえに少子化問題でいよいよ未来も暗雲か、ってなもんだが
そんなことは考えてもしょうがおまへんがな。
問題は官能性と生殖行動が結びつかないという領域で、
つまりは、「死にまで至る生の称揚」が見られないことが問題なのだ。
小生、このバタイユ仕込みのエロティシズムの本質を嘆いているわけである。
なにやらぶつくさ独り言がつきませぬが、ご勘弁を。
ひいては全て想像力の欠如、衰退、無関心に問題ありとみて
ひたすらスクリーンの海を彷徨う男の哀歌におつきあいのほどを。

そこで、名匠小沼勝の傑作と誉れ高き『花芯の刺青 熟れた壺』。
「壷」と書くだけで、何だか手が股間あたりでうろちょろするような、
そんな淫美な気配がしてくるのは、気のせいではありませぬ。
他にも『熟れた壺』いうんもあって、この小沼という人は、
実に男のツボ、というかエロのツボを押さえた作家なのである。
日活ロマンポルノのなかで、ひときわ道を極める匠である。

騙されたと思って一度は観て欲しいこの世界。
いやあ、いかった、実にいかったわぁ、ってなことになるからさ。
よっ、観音様!
スクリーンで拝む谷ナオミって女優の存在感は実に眩しいのだ。
そう、絡みがあってもなくても、その女優魂がしっかり伝わってくる。
こんな女優、今、どこにもいない。
が、ここには、縄もなきゃ鞭もロウソクもありゃしません。
刺青を彫る際の苦悩に歪んだ表情だけでも、見応えがあります。
それだけで十分のこの世界の片鱗を味わえるってなものです。
もっとも花芯への刺青である。
箇所が箇所なだけに、想像するも恐ろしいや、ではありますが・・・

もっとも、ナオミ様を語るには、あの団鬼六師匠の名作『花と蛇』や
金襴緞子の吊るし上げが頭から離れない『生贄夫人』だとか、
言うなれば本格的SMの金字塔的作品、
その路線は絶対にスルーできないのではあるけれど、
禁断のエロスに向かう勇気を、今一歩踏み出せぬ輩に、
まずは、しっとりじっとりうっとり美しいその女体の審美を
ふんだんに味わえるこちらを勧めたい。

肌、肢体、吐息のなまめかしさは
あらゆる責め苦に苦渋に満ちたその一挙手一投足とともに、
どれをとってもけちつけようなき素晴らしさ。
あんね、この女優、日活ロマンポルノのスターとかSMの女王とか、
そんなありふれたフレーズだけじゃもったいないのよ。
そこはみうらじゅん氏に敬意を表して
日本が誇る元祖サブカル王を産んだ母とよんでもいいわけさ。
ナオミといやあ、大坂でもなきゃ、渡辺でもない。
キャンベルでもスコットでもワッツでもなーい。
むろん、『痴人の愛』のナオミでもないってこと。
おぼえといてちょうだい。
(もっとも源氏名はその谷崎潤一郎大先生と、その創造物ナオミの合体系なのだが)

そして何と言っても歌舞伎の「道成寺」の刺青彫るところの悶え、
何しろ、彫るシーン痛々しきこと。
これ、十分SMだわって思う。
SM以上だわ。
彫り師の辰こと蟹江敬三も熱演で、これまた渋くてかっこいいんだな。
これぞ審美の引き立て役、ザッツビューティーの黒幕。
ナオミ様が刺青を彫り終えた後、堂々、全身の彫り物を晒すこのシーン。
背中に丸ごと施されたその刺青の圧巻的美しさ。
で、痛みをこらえながらの入浴シーンから、一気にスイッチが入る。
そこから始まる視線の戦い、この彫り師との絡み、
音楽の臨場感と相まって、その高揚感ときたら、
もう快楽の滝へと一直線。
たまりませんのよねえ。

ちなみに「道成寺」というのは、能、歌舞伎、浄瑠璃といった
伝統芸能で、しばしば取り上げられてきた有名な安珍・清姫伝説のことで
恋した若い僧の安珍に裏切られた清姫が、ついに蛇となって
鐘のなかに隠れた安珍もろとも焼き殺すという、
いわば悲哀を超えた情念というか、怨念というか、なんとも凄まじい話。
その伝説的な題材を、彫り物にするのですからただごとじゃござんせんのよ。

何と言っても、この映画の美は、あの谷崎の世界にも通じるし、
溝口が求めた世界でもあると言えましょう。
でも増村なんかがさばいてみせた女の生き様とは
ちょっと違うかな、って思う。
例えば、若尾文子演じる女郎蜘蛛『刺青』なんかの場合は
どちらかと言えば、まだ観念の方が先にきてたかなあって思う。
谷ナオミがここで真っ向から対峙するエロスの域とは
実は正反対のもののような気がしたものだ。

この『花芯の刺青 熟れた壺』を見れば、それぐらい谷ナオミの情念は
肉体を伴って凄まじいものを醸し出している。
女のエロスの形において、もっと直接的な感じがして、
脳髄に行くまでに、すでに網膜でエロスが捕らえられ滲むって代物だ。
ダイレクトな女の官能性を惜しみなく投げ与える女、
それがナオミ様の凄いところである。

なんやらこむづかしいことになってきたましたな。
いや、要は女の美ってなもんを
文芸以下ゲイジュツ未満でみさしてもらいましたわ、
そういうことなのよ。
男なら、このナオミさんに惚れぬものはおりますまい。
あの紡錘形の乳房はじつにええ形やったなあ。
何より表情が素晴らしい。
うっとりする。
まさに芸術品。
女の裸がまるで生きもんみたいやった。
実に興奮させられました。
これぞ生き神、生き菩薩さま。

ちなみに、この映画の音楽はピコこと樋口康雄が担当。
伝統音楽にポップな現代性を持ち込んだ処理が施されていて聴きどころ満載。
これが早坂文雄先生なんかだと、格調って域になるんだけれども
こちらロマンポルノにふさわしき軽さの美学。
軽いといっても、安っぽい軽さではない。
キャッチーで、実に親しみやすい和楽を持ち込んで
この傑作に色を添えているのであります。
途中で挿入されるのは、カルメン・マキ&OZの「きのう酒場で見た女」。
『OL官能日記あァ!私の中で』でも鳴っていた激しい「私は風」とは対照的に
どこか明るく、あっけらかんとした曲調が
この官能映画のアクセントにもなっている。
この辺りが、小沼勝の演出のにくいところでもあり、
映画を必ずしもゲイジュツの檻に縛らない魅力があるのだ。

何れにせよ、『花芯の刺青 熟れた壺』は
ロマンポルノの中でも屈指の官能性を誇る作品だといえよう。
最後、「道成寺」を纏った谷ナオミの肉体の衣もろとも
ぐっさり果てるシーンの圧巻的終焉劇。
まさに、清姫が安珍を鐘ごと焼き尽くした情念が宿ったかのようなラスト。
ここには紛れもなく、「死にまで至る生の称揚」としてのエロティシズムが
堂々写り込んでいるのを目撃するのである。

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