他人の修羅場は蜜の味?
今から40年も前のことだ。
51歳の若さで飛行機事故で帰らぬ人となってしまった作家向田邦子。
随分月日が流れているが、
つい昨日のことのように覚えている。
大の飛行機嫌いだったというから、
本人もその運命をどこかで察知していたのかもしれないが、
飛行機事故なんてと、まさに狐につままれる思いがした。
さぞや、無念であったろう。
ちなみに母せいさんは100歳まで生きた。
娘はほぼ半分しか生きていないことになるが、
その人生は十分に色濃く、残された作品を知れば
いまだに読者の胸の内に引っかかってくるものばかりだ。
遠くて近しい、あるいは近しいがどこか遠い、
そんな作家ばかりだが、この人は違った。
近しく、まさに等身大で斜に構える必要はない。
自分にとっての良き昭和は向田邦子の死でひとまず
完結してしまったとも言えなくもない。
まさに良き昭和、思い出の昭和は全て
彼女の手の内にあるとさえ言い切れるのだ。
それぐらい心に残っているものがある。
とりわけ、新年になれば、
自然に彼女の脚本ドラマにかじりついていた覚えがある。
向田邦子が書く脚本、ドラマが好きとはいえ、
やはり、テレビドラマは俳優の絡みがあって
彼女自身の本意でないようなものもあっただろうし、
それは見る側も同じだ。
ただ、不思議に、向田ドラマに出演する俳優たちには
彼女同様、自然と親近感が湧いてしまう。
例えば加藤治子という女優である。
向田ー久世ラインのドラマには不可欠な女優であり
ホームドラマの母親役といえば
真っ先にこの人の顔が浮かぶほど、自分には親しみがある。
お茶の間の母である。
良き日本を時代背景をしっかりと背負いながら
どこか優雅で、気品がありながら
それでいて、女優然とした
不思議なオーラを醸し出していたように思う。
好きな作品はたくさんあるが
とりわけ『だいこんの花』『寺内勘太郎一家』は
今見ても面白く大好きなドラマだ。
どれも家族の話で個人的な男女のもつれよりも家族の絆、
家族というものの情景を丹念に鋭い視線で描いてきた作家である。
ところで、彼女の最高傑作は何と言っても
『阿修羅のごとく』ではないか、というのが
自分の中の揺るぎない思いである。
ひょっとしたら、向田ファンにはそういう人は多いのかも知れない。
こちらは家族の話であると同時に、
女の意地の張り合いが見事に描写されている作品で、
決して男には書けない女同士の心理の綾が見事に織り込まれた傑作だ。
当時、NHK土曜劇場で放映されたVOL.1,VOL.2の
『女正月』『三度豆』『虞美人草』『花いくさ』『裏鬼門』『じゃらん』『お多福』。
計7話のテレビドラマが未だ忘れられないぐらい好きなのだ。
とにかく、テレビをみなくなって久しいのだが
自分の記憶では、あの時代以降
これぐらいのクオリティを誇っていてさえくれれば
いまだにテレビにかじりついていたかもしれない。
しかし、そんなことは幻想だ。
あれを超えるテレビドラマに出会うことなどあるまい。
もっとも、そんな自分の価値観物差しであって、
それを誰彼なく強要するほどのものではない。
だからこそ、ひっそりドラマを思い返し
静かにシナリオを読み返したりしている自分がいるのだ。
テレビに関しては自分の中で時計の針が止まっているに過ぎない。
止まった時間を辿ってみれば
『阿修羅のごとく』に行き着いてしまう、ただそれだけである。
まさに昭和に立ち返るドアがそこにある。
さあ、再び、あの時間に戻ろう。
このドラマを随分久しぶりにNHKのアーカイブ映像で再見したが
今見ても、感動は失われていなかった。
いやあ、やはり時代を超えて面白いのだ。
その感性に、再敬礼したくなる。
今見たいものこそはまさにこういうドラマだったのである。
ホラーだとかSFだとか、ファンタジーだとか
男女の恋愛ものだとか、ジャンルはどうでもいいが、
心を掴まれるのはやっぱり日常の中にこそある。
そんな思いに立ち返らせてくれる優れたホームドラマである。
掛け値無しの名作ではなかろうか。
それぞれ成人し、家庭も別々の四姉妹の物語で
当然、実家には父と母がいて家というものがある。
その父の浮気を巡る母親に絡む四姉妹の話というのが骨子で、
この四姉妹の人物設定が実に見事なのである。
その上に、それぞれの配役がこれまた素晴らしいのだ。
長女綱子は女やもめとなり料理屋の主人と懇ろの関係にある。
昭和のよきお母さん役が多かった加藤治子が
珍しく、女の業を一番強く感じさせる艶のある熟女を演じている。
やはり向田ドラマに不可欠な女優である。
次女巻子は四人の中でもっともおっとりとしているが
夫の浮気に気を揉みながら、姉妹のことを一番気遣う役回りである。
演じるのは、ついこの間他界した八千草薫。
(森田芳光の映画版では母親を演じている)
一見すると元祖お嫁にしたい女優のように見受けられるが
その芯は熱く強い。
で、三女滝子は、四姉妹の中で一番個性が強いのだが
非常に堅物であり、ヒステリックかつ情緒不安定な役どころを
いしだあゆみが演じている。
いしだあゆみといえば、当時ショーケンと浮名を流し、
そのまま結ばれたが残念ながら長続きはしなかった。
失礼な言い方だが、どこか薄幸のムード漂う美人にぴったりである。
まさに、そんなハマり役で
実はこのドラマで一番感動したのも彼女の演技である。
いしだあゆみの女優魂のようなものを感じた。
そのことはのちに記そう。
四女咲子は、末っ子ということもあり、
一番現代っ子、というか、奔放でしがらみがない。
その分自由だが、ドラマの中では一番運命に左右される役柄で、
後半になるに従って彼女の比重がどんどん増えてゆく。
演じるのは風吹ジュン。
風吹ジュンは当時どちらかといえば
半アイドル的な存在だった気もするが、
その個性には捨てがたく、男目線でのそそる魅力があった。
父親役の佐分利信もまた存在感がすごく、何よりも渋い。
まさに昭和の父親像にピッタリである。
さすがは小津映画等で鳴らしたいぶし銀、貫禄が違うのだ。
また、興信所に努める三女滝子のフィアンセ勝又役の宇崎竜童も、
素人ながらいい味を出しており、好感が持てる。
まさに昭和ならではのラインナップである。
さて、阿修羅とは何か、まずは冒頭に示される。
阿修羅とは、インド民間信仰上の魔族で、諸天は常に善をもって戯楽とするが、阿修羅は常に悪をもって戯楽とする。
天に似て、天に非ざるゆえに、非天の名がある。
外には仁義礼智信を掲げるかに見えるが、内には猜疑心強く、日常争いを好み、たがいに事実を曲げ、また偽って他人の悪口を言いあう。
怒りの生命の象徴。
争いの絶えない世界とされる。
彫刻では、三面六臂を有し、三対の手のうち一対は合掌他の二対は、それぞれ水晶、刀杖を持った姿であらわされる。興福寺所蔵の乾漆像は天平時代の傑作のひとつ。
世に言う修羅場というのは、そこから来ていて、
このホームドラマでは四人の姉妹がそれぞれの修羅場を通して
姉妹、家族の絆を確かめ合う。
いがみ合っても、距離を保っても
血の濃さ、深さは何ものにも代え難いということを
さりげなく、そして豊かに証明してみせる。
今時、こんな歯ごたえのあるドラマがあるだろうか?
このNHKのドラマを観た後で、
2003年森田芳光監督の下で映画化された方も鑑賞したわけだが
やはり、このテレビ版には及ばないものだった。
向田邦子の脚本が活きたのは圧倒的にテレビ版の方である。
それは彼女が主にテレビドラマのシナリオを手がけていたからという、
単純な方程式に合致したというのもあるだろうが、
所詮は演出の妙である。
テレビ版では“監督”が明記されていない分
実質演出家和田勉が辣腕をふるったドラマである。
かつて、この人がお茶の間に現れると
その雰囲気、その容貌から、
何となく敬遠しがちだったけれど、
今思うと、かなりのものである。
自分自身の見る目のなさ、失礼を詫びたいところだが、
そこは時効ということで勘弁願おう。
名プロデューサーで名コンビだった久世演出とは
また違った良さがあるのだ。
このドラマは何と言ってテーマ曲の凄さである。
通常のホームドラマにトルコ軍隊の行進曲が使用されるなど
前代未聞である。
しかし、それが功を奏した作品とも言える。
女の修羅場、家族の修羅場に
「ジェッディン・デデン」が高らかに響き渡る。
これだけで強烈なインパクトを醸し出している。
そのコンセプトは和田勉によるもので、向田邦子の脚本にはない。
しかも、現地録音で、音質もそれなりのものを使っていると言うから凄い。
この演出だけで十分に痺れてしまう。
テレビがまだ自由を謳歌していたとはいえ、
ホームドラマにトルコの軍隊を使うなど
なかなか発想できるようなものではないと思う。
改めて和田勉には敬意を払っておこう。
そんな中で繰り広げられる女たちの諍い。
自分が男であるだけに、なおさら面白い女の習性が
ドラマの中に溶け込んでいる。
女とはかくも興味深い生き物であることよ。
いや、女であれば女としての面白さも感じられるだろう。
まさに痒いところに手が届く、微妙なふり、セリフ、
演出がドラマの中で展開されていて見応えがある。
好きなシーンも色々ある。
例えばVOL2『花いくさ』で
三女滝子がまだ恋人勝又と結ばれる前の話、
深夜一人暮らしの滝子は部屋で、一人化粧をしている。
かなり念入りに、少々ケバいぐらいのメイクである。
普段男っ気がまるでなく、
生真面目で理屈っぽい図書館司書である彼女が、
初めて女に目覚めるシーンである。
そこへ恋人の勝又がやってくる。
直に恋人の声が聞きたいのだ。
滝子の慌てようがなんとも可愛いのだ。
ドア越しに手だけを差し伸べると、
恋人もまた手にキスをするぐらいが関の山だが
なんとも微笑ましく、思わずキュンとするシーンである。
男に簡単に貞操を解こうとしない彼女が
精一杯ギリギリのところで女心と戯れるシーンに
思わず気を取られてしまうのだ。
同じく滝子のシーンで、
最後『お多福』のなかで
末っ子の咲子の夫でボクサーの陣内が
すでに植物人間になってしまっている。
病室で、その夫の傍に、咲子をゆする男(岸部一徳)に
猛烈に責め立てるシーンが凄い。
希望を見出せず、失意のどん底に突き落とされた咲子は
街角でふと声を掛けられていっときの過ちを犯してしまう。
その相手が岸部一徳で、男は後日弱みをつけこんで
咲子をゆすろうとするわけだが、
そこへ姉の滝子が身代わりに、正義を振りかざす。
普段、歳が近いこともあり姉妹の中では
一番ギクシャクした関係で、ソリが合わない二人だか
この時ばかりと、滝子は妹の心情を慮って
このゆすりたかり男に精一杯の一撃を食らわす。
男はいたたまれず逃げるようにして病室を去った後
あれほどまでに勇んですごんでみせた滝子が
ふらふらと身を崩すシーンは見事だ。
姉としての思い。
人としての思い。
そして自らの正義を百二十パーセント発揮した後の虚脱感が
画面に哀愁を漂わせる。
そうかと思えば、このドラマにはちょとした可笑しみが絶えず挿入される。
長女綱子が自宅で愛人とすき焼きか何かの鍋をしていて
ガス管が外れたか何かで、ガス中毒をおこす。
近所から次女巻子へは心中だと一報が入るが
病院に運ばれた綱子と愛人の足の裏には
それぞれマジックでへのへのもへじが書き込まれている。
これは咲子が病棟の植物状態の夫の足の裏に
へのへのもへじが笑って欲しいと、
つまりは生命の復活を願って書き込んだ他愛もないいたずらを
そっくり遊びで真似ただけなのだが
そのことが導線で、笑いが起きるのである。
ひとつひとつ書き出せばキリがないが、
このドラマでは細部の微妙なやりとりが実に面白いのだ。
あくまでもお茶の間でみるホームドラマとしての面白さに
焦点を当てて書いているのだが
ドラマを見終わった後で、シナリオはシナリオで再読していると
これはこれでまた新たな発見があって面白い。
こんな脚本を書ける人が今いるのだろうか?
こんなドラマを手がける演出家はいるのだろうか?
答えはノーである。
映画、テレビ、小説、何でもいいのだが
奇想天外なプロットや想像豊かな妄想のストーリーは
それはそれで面白いし
男と女がいて、人が羨むような愛やら恋に走って、
何かと興行的に話題になる話なら
今時五万と溢れかえっているが、
何気ない日常の、普遍的な家族のドラマを巡って
ここまで真に心を掴まれるような作品に出会うことは稀である。
そんな流れで昭和の時代がよかったというつもりはない。
時代は全く関係はない。
いや、今だからこそ描ける話、題材もあるだろうが
人間というものがそんなに進化しているとも思えない。
そう思うとやっぱり、向田邦子の書くドラマを
必然的に渇望してしまう自分がいるのだ。
今もし仮に生きていたら、
果たして、どんなテーマで物語を書きおろすのだろうか?
湯船に浸かりながら、ふとそんなことを考えてしまうのである。
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