今村昌平『復讐するは我にあり』をめぐって

復讐するは我にあり 1978 今村昌平
復讐するは我にあり 1978 今村昌平

リアルな悪を俯瞰する、あくなき欲望

目には目を、歯には歯を・・・
ただでさえ、ギスギスした人の世、
復讐、その言葉の意味合いには少々注意深く吟味する必要がある。
英語で「リベンジ」などというと、実に軽く、
少し曲解されて流通しているのにはなれっこだが、
不当な酷い仕打ちを受けたことに対する報復を意味する
復讐劇というものが、ときに悲惨な結果を生むことは知っている。
妻に間男されただの、妾に財産をせしめられただの、
大衆の面前で赤っ恥をかかされただの、
かくかくしかじか、あいつのせいで人生が狂ってしまっただの・・・
とかく恨みは恐ろしい。

生まれてこのかた、殺してやりたいと思う人物に
出会わなかったとはいわないし、
そのときには、メラメラ復讐心が芽生えたという経験なら
だれだって、一度や二度では済まないだろう。
それを面と目向かって行使するには勇気や覚悟がいる。
代償もついてくる。
それが人を踏みとどまらせる要因というだけだ。
犯罪、とりわけ殺人事件では、それが元になっているケースが珍しくはない。
仮に心情的に共感し、理解できたとしても、
問題が根本解決するわけではないということ、
何一つポジティブを生み出さず、ただ憎しみだけを増長させるだけだとしたら、
やはり、軽々しく復讐を後押しできないのもまた、人情だろう。
復讐という名の病を乗り越えずして、人には真の幸福など訪れない、
はたして、そう信じる人間の絵空ごとなのだろうか・・・

その意味をふまえて映画『復讐するは我にあり』について考えてみたい。
なんとも含みを持ったインパクトあるタイトルだと思う。
新約聖書(ローマ人への手紙・第12章第19節)にある言葉で、
「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ・・・」
ということで、通常解釈されるような、
自分には復讐すべき権利がある、であるとか
自らの復讐の正当性を肯定する意味ではなく、
本来、ここでいう「我」とは神自身のことを指し、
よって、復讐は神の手にのみぞあると言うことなのである。
つまり、どんなに悪が栄え、それによって虐げられたとしても、
すべて神の手に委ね、決して復讐に手を染めてはならぬ、
ということを意味する言葉といわれている。
逆にいえば、復讐とは、神なきもののなせること、という見方ができるのだ。

そんなタイトルがつけられたのは
戦後最悪の連続殺人といわれた西口彰事件をモデルに
カポーティの『冷血』をも意識しながら、
ノンフィクション作家でもある佐木隆三が
丁寧な取材を元に書き下ろし、直木賞も受賞した同名小説から、
今村昌平が映画化にこぎつけ、話題をさらった作品である。
こぎつけた、と書くのは、その版権をめぐって、
複数の映画人たちとの争奪になった経緯があり、
最終的に、松竹側がその権利を手にし、この今村によって映画化されたという、
いわくつきの作品だからである。
その件については、本編とは別の話になるので割愛するが
そこまで、映画人たちを大いに刺激した原作であったことの証であり
この作品を見れば、今村による渾身の思いは
熱いほどに伝わってくる。

映画版『復讐するは我にあり』では、
緒形拳扮する榎津巌という殺人鬼が
実話を元に書かれた原作に基づき
別解釈を加えられ、映像化された作品だと断言できる。
原作は、丹念に事実を洗い出し、その被害者側の視点にたって
この榎津巌という人間像をあぶり出そうとする話だったが、
ここではさらに、原作と映画はあきらかな別物、という視点にたって
この問題作をみなおしてみた。

共通の受け止め方として、榎津巌の行動、犯行は
確かに無差別であり、理解の範疇を超えて描き出されている。
全国津々浦々、警察組織操作網を掻い潜りながら
七十八日にも及ぶひたすら逃走をくりかえした男だが、
いってみれば、いくら金のためだとはいえ
動機なき殺人がこうも粛々と繰り返されるものなのか?
疑問はそこに集中する。
榎津は元は比較的裕福な敬虔なクリスチャン家庭に生まれ、
同時に、厳しい戒律の元に、幼少期を過ごしはしたが
両親の愛情が欠いていたとは思えない。
映画では、父親に対するあからさまな敵対心がありありと描き出される。
国家によるキリシタン弾圧シーンでは、
子供ながらに、権力に無抵抗な父親に失望し、
よりいっそう不信感を募らせるシーンが強調されていたりする。
あるいは執拗に嫁と舅の不義関係に視線がそそがれていることなどをみるにつけ
そこが犯行の動機でさえあるかのような、
環境が悪を育てた、と言う描き方になっていることは否定できない。
ただ、これが実話に基づいているかというと
佐木の原作でも、そういう節がとくに強調されてはいないのだ。

事件だけをみれば、榎津は、神をも恐れず、罪なき人を陥れ、
大胆に詐欺、殺人を容赦なく繰り返していたシリアルキラーだが
実際、西口という殺人鬼は、元来宣教師志望の男であり、
逮捕後さえも、信仰心をうしなってはいなかったといわれており
死刑に至る過程では、それ相応の反省心も芽生えていたようである。
映画の、面会での刑務所内の父親とのつばぜり合い
あるいは、ラストシーン、父親と元嫁による
散骨での複雑な葬いなどを目の当たりにすれば
すべて今村昇平による、この物語への強いこだわりそのものが
「父殺し(エディプスコンプレックス)」なる
ひとつのテーマとして浮き上がってくる。

が、父親への恨みという意味でも
映画で強調されるほどに、その動機部分がはたしてどこからくるものか、
正直なところ、よくわからない部分の方が多いのだ。
小説と映画、そして、実話をならべて比較することはさておき
映画版は今村の感性、ひいてはその解釈が
はっきりと明確に定められた作品だということは強調しておく。
人を殺める、詐欺を働くという一連の悪魔的行為が、
この男の場合、はたしてどこからくるのか、それを考察する上で、
宗教に対するアンチテーゼ、神への挑戦といった解釈の方が
一見わかりやすく、腑に落ちるということもあるだろう。
少なくとも、今村昌平がそこを執拗な演出で
切り込んだ作品になっているのである。

これまで、今村自身の映画愛、情熱に対しては、
正直なところ、必ずしも信奉者ではなかったことを書いておく。
今村作品ははっきりいってしまえば苦手な部類である。
日本人で二度もカンヌグランプリの栄誉にあずかり
その知名度、その映像の喚起力はお墨付きだが、
個人的には、その生理として受け付けぬところがある。
二度目の受賞作『うなぎ』をみたときに、
あまりに執拗な性衝動が続き、辟易した記憶があるし、
そのタッチのギラギラした人間の欲望が据えられた性的な表現に、
強烈な盲信があるようにも思われる。
作品において、それが有効なときもあろうし、
すべてを否定するものでもないのだが、
こと今村映画の場合、それがややくどいほどに
ねちっこく感覚につきまとってくる、という認識が払拭できない。

『復讐するは我にあり』のなかでも、再三そうした場面が出てくる。
たとえば、血で汚した手を小便で洗い流すシーンにはじまり、
愛人が手切れの際に千枚通しを握り締め歯向かうシーンは
男の股間に狙いがつけられ、未遂に終わるが
「キンタマ刺しちゃろ思たら、縮みあがってですね・・・」と
女は嬉々としてその事を刑事に告白する。
父親と嫁が温泉で、情交まがいすれすれにかわす官能シーン、
かと思えば、旅館のおかみと懇ろになり、
その母親は絶えず客と娼婦との睦ごとを覗き見するという設定で
娼婦たちは、その不気味さゆえに客をとるのを躊躇するのである。
その母親の目の前で、娘である女将ハルが
北村和夫扮する長年の情夫に犯されるシーンを長々と映し出す。
その女将を榎津が絞殺した後、失禁するところ股間を執拗に拭うシーン。
これでもかこれでもか、と今村は必要以上に性の側面を重ね描き続ける。
リアリズムにこだわり続け、生々しいシーンの数々が蓄積され
ひとかどのこだわりのある作家の演出として、
見るものを刺激してやまないカットにブレはないが、
実話にはない、そうした過度に生理的なシーンが
はたしてなにがそこまで強調されなければならぬのか、
この作家の資質を深読みしたくなってくる。

一人暮らしの老弁護士を殺害するシーンでは
実際に、事件のあった部屋で撮影が行われているのだと言う。
殺害後四日間、滞在したという事実に基づくとはいえ、
そこまでのこだわりには、さすがに恐れをなすほどである。
もっとも、映画自体は、これらの執拗さ、くどさによって
主人公の行動の動機として寄り添う形ではあるものの、
一塊の人間の奥底とどう通底しているのかはよくわからない。
金であり、女であり、己の欲望のまま、
なによりも、自由への意志とでもいうのか。
詐欺を働く際には、単純な詐欺ではなく
知能犯的な工作にも周到で、長けているのがみてとれる。
一般的に、詐欺と殺人は相容れない、という見方もあるが
この男の場合は、すべて一貫した悪の意識に貫かれているのだ。
途中、偽装自殺を企てたと思えば、
大学教授や弁護士といった知的な職種になりすまし
人を欺き、実際の西口は78日にもわたる逃避行を繰り広げた人物像。
はたして、何がこの男を動かしていたのか?
結局、そこに戻るのだ。

映画では、旅館に派遣される娼婦根岸とし江の密告で逮捕に至るが、
実話ではさらに恐ろしいストーリーが残されている。
死刑囚の冤罪撤回運動に取り組む教戒師宅へ、弁護士を偽り訪問し
金銭を搾取しようと相手を騙し、家にまで泊めてもらったが、
10歳の娘の機転で、難を逃れ翌日逮捕につながったのである。
この教戒師は、皮肉にも西口を逮捕、死刑へと向かわせることになったが
逮捕後も、西口との交流は続き、西口は死刑の際に
この教戒師に、祈りの言葉を求めたというし、
西口は獄中から手紙で、この教戒師、および、娘に感謝の思いを述べつづけたらしい。
逮捕から四年ものスピード執行で、この世を去るシリアルキラー。
その速やかな判決を西口自身が受けいれたのは
この教戒師による、悔悛への施しがあったからだというが、
そこには、執拗に犯罪に手の染めた男の末路として、
映画には全く触れられなかった、
殺人鬼のもう一つの顔がのぞく。
計5人もの人間を殺害し、その代償がわずか計80万円程度のカネである。
いったい、なにがこの男を犯罪にいたらしめたのか、
興味は尽きない。

最後に、映画について、もう少しだけ触れておこうと思う。
なんと言っても、榎津巌を熱演した緒形拳につきるのだ。
ときに人間らしい表情を巧妙に交えながらも
眼光鋭く、鬼気迫る狂気を発動し、
次々に殺人を繰り返す犯人像は
やはり、この人以外に考えられないほどのはまり役だ。
当初の予定では、寅さんこと渥美清を想定していたというが
「イメージは壊せない」ということで
緒形拳に落ち着いたという経緯がある。
榎津が緒形拳でないケースを想像できぬのは、映画の力であるが
結果が大きく左右されたであろうことだけは想像に難くない。

対する、父親が三國連太郎であったことも大きいといえるだろう。
原作にはない、父親像の膨らみが大きく表現されている。
信仰と欲望の間に揺れながら、偽善者とまでののしられるなか
この悪魔のような息子に対峙できる器を有する俳優、
それが三國連太郎には十分備わっているように思われる。
ひとことでいえば、存在感である。重みである。
これまた、三國連太郎でなければ、
息子の一連の悪行がひきたたないどころか、
ひとりよがりの、まったく感情移入なき
ルポルタージュであり、ドキュメントであり、
救いようなき単なる殺人犯になりさがったような気がしてくる。
その意味で、この両雄の並びたった絵に、
この映画を傑作たらしめている原動力を感じるのである。

そこに倍賞美津子や小川真由美といった、
人間の欲望に翻弄され、抗えぬ犠牲者たる女たちの存在が
生々しい刻印をもって色をさらしているが、
今村の演出には、そうした女たちの官能の色、匂いを
あらかじめ、究極なまでに引き立たせるようにもってゆくところがある。
そこが、安っぽく艶やかに処理されては形無しなのである。
要するに、この『復讐するは我にあり』において
みるものは、常軌を逸脱する悪のほとりで
死に直結する諸々の官能のざわめきを、どう受け止めるかであり、
人間が醸し出す、悪の部分や性衝動といった
生理的なものの目撃者として、目を背けることなく、
その根源がどこからくるのか、それを導く手がかりについて
はたと考えさせられるのである。

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