梶芽衣子小論法

梶芽衣子 1947-
梶芽衣子 1947-

目力恨み節

最近、ストリーミングで梶芽衣子60周年コンサート『セッテ ロッソ』を観た。
彼女の映画を通じて、その数々の歌に親しみはしてきたが、
ここに立つ彼女は78歳。
そこには芸歴60周年のずしりとした重みもあり、
老いてなお、凛とした佇まいでステージに立つ彼女に
今更ながら驚かされ、そしてしびれるのだ。
ときに、姉のように、ときに母のような面影を宿す彼女は、
やっぱり、唯一無二な存在だなと、つくづく思った。

そんな梶芽衣子について思う時、
映画の中で、誰よりも多くを語らなかった女優であることを思い返していた。
しかし事実、彼女ほど、多くを語り続けてきた女優もいない。
梶芽衣子とは、沈黙によって存在し、その強い目力を誇りながら、
生活の中へと隔てなく降りてきた、稀有な女優だったように思う。
まずは青春スター太田雅子として売り出されたものの、
彼女の名を映画史に刻んだ決定的な瞬間は、
言うまでもなく、『女囚さそり』シリーズにおける松島なみだったといえる。
裏切られ、収監され、制度の内部で人格をいくども剥奪されながらも、
彼女は決して叫ばないし、屈しない。
また弁明もしないあの強烈なイメージを刻んだ。
そこにあるのは、説明を拒否した存在の硬度の極みを演じた、
まさに、劇画のヒロインそのものの姿だ。

松島なみの復讐は、なにも行為として始まったわけではない。
制度の中に放り込まれて、権力に抗うこと自体が運命だったのだ。
彼女がそこに存在し続けること、それ自体が生き様であり
すでに復讐そのものを意味していた。
デビュー当時、アフレコが上手くいかないというなかで、
大物女優に笑われ、言い返したという、
その肝の据わった伝説の女にとって、真の活路だったからである。
抹消されるはずの存在が、消えずに立ち続けること。
恨みという情念をその眼差しに宿し、
梶芽衣子の身体は、制度に回収されることを凛として拒む。
その視線は怒りを表現するのではなく、世界を見返す力そのものであり
見られる存在から見返す存在としてスクリーンに立ったのである。
この「沈黙による否定」、視線による不服従こそが彼女の最初の軸となった。
以後彼女は、その否定の中に閉じ込められることは一度もなかった。

歌舞伎の間合いに戸惑いながらも、演技としての成熟に達した、
増村保造監督『曽根崎心中』における遊女はつは、
松島なみとは対極にある存在のように見える。
はつは復讐を選ばず、逃げも隠れもしない。
ただ徳兵衛とともに死へと歩みを進め添い遂げるだけだ。
ここでも彼女が示したものは、敗北ではない。
それは、愛を貫くことによって存在を完結させる意志だった。
松島なみが世界を拒絶することで自己を保持した存在ならば、
はつは愛の中に自己を委ねることで存在を完成させたのである。
否定と肯定。復讐と殉教。
この両極を同じ身体で生きた二人の姿をならべるとき、
梶芽衣子は単なるジャンル女優ではなく、
悲劇の女優としての位相に到達したのだといえる。
その意味ではこれも見過ごせない彼女の金字塔的な代表作だ。

だが彼女の特異性は、この二極にとどまらない。
70年代初頭の風俗的作品『野良猫ロック』シリーズや、
同期渡哲也との中島貞夫『ジーンズブルース 明日なき無頼派』
そして『仁義なき戦い 広島死闘篇』の靖子などにおいて、
彼女は風天ものやアウトローの男たちの傍らに立ちながら、
決して彼らに回収されない女を演じてきた。
それらの彼女の役どころは共犯者ではなく、場の証人として常に寄り添ってきた。
男たちの破滅を止めることも、加担することもなく、ただ見つめる潔さ。
この「境界に立つ女」という第三の軸は、
彼女の存在がさらに深みをまし、豊かなものにしたといえるだろう。
復讐者でもなく、殉教者でもなく、まさに女優道を生きた。
ただ、世界の内部にいながら、世界に属さない存在の美学。
この位置こそが、梶芽衣子の本質なのだ。

そんな彼女の存在をさらに特異なものにしているのは、「歌」である。
当時は演じたヒロインが主題歌を歌うという日活の土壌が、
以後の彼女の両立を育んでゆく。
「怨み節」や「修羅の花」において聴かれる彼女の声は、
歌唱というより、沈黙の裏側で持続してきた情念そのもののように響いてくる。
感情を放出せず、情念を静かに絞り出す歌。
むしろ感情を内部に保持したまま、静かに空間に広がってゆくのを感じるが、
映画の中で沈黙していた身体が、映画の外では声として持続するのだ。
そこにみる彼女は、肉体と声の両方で存在し続けることのできた、
稀有な女優としての際立った存在感だ。
それは、時を経て、大のファンを自称するクエンティン・タランティーノの
『Kill Bill』によって再び世界に響くとき、
彼女は永遠のアジアンビューティとしてではなく、
ブルース・リーと対等に立つ映画スターとしての栄光を手にする。
「修羅の花」が流れるとき、そこに現れるのは単なる楽曲ではなく、
梶芽衣子という存在そのものの召喚だったからだ。
たとえ画面にいなくても、声によってそこに存在することができる。
この映像と音声の両方において持続する存在というもの。
それは映画史においても極めて稀な現象といえるのではないだろうか?

こうして、タランティーノやスコセッシからのラブコールにもかかわらず、
彼女は言葉の通じない外国作品への出演を選ばなかった。
これは機会を逃したのではない。
彼女は演技を、身体の動きではなく、
理解の上に成立する存在の行為として捉えていたからだろう。
彼女は世界に近づこうとはしなかった。
むしろ、自らの存在が根を下ろす場所に留まり続けたといえる。
ポリシーである「媚びない めげない くじけない」という生き方は、
彼女の演じてきたすべての役の内部にすでに刻まれていたことの証明となる。

そしてもうひとつ、彼女を唯一無二の存在にしているのは、
「生活の中に存在できる」女優であるという点ではないだろうか?
その存在は特別でありながら、同時に身近な存在でもある。
昭和のテレビドラマ『寺内貫太郎一家』における足の不自由な娘静江、
『鬼平犯科帳』での密偵のおまさ。
そして近年では『昨日何を食べた?』における母親役において、
こうして彼女は、神話的な強度を失うことなく、
生活の中にも静かに溶け込んでいるのだ。
この神話と生活の二重性こそが、彼女の存在を時代の中で
持続させてきた理由でもあるだろう。

多くの女優は、神話になることで生活から遠ざかるか、
生活に入ることでその神話性を失いがちである。
ただ、梶芽衣子の場合は、その両方を同時に生きてきた。
復讐者であり、恋人であり、証人であり、娘であり、母であった。
実生活では独身を貫いた彼女だが、
女優という役の幅において、
同じ静かで強い重力を保ち続けてきた。
そんな梶芽衣子とは、決して情念を爆発させた女優ではなかった。
それは情念を内部に保持し続ける女優であり、
その沈黙は否定であり、肯定であり、持続であり、生活そのものを演じてきた。
なにより、彼女があえて世界に向かって羽ばたくことを選ばずとも
時代は、世界が彼女に向かって歩いてきたのを見届けることになった。
沈黙のまま立ち続ける存在。
その姿はなんとも凛々しく、かっこいい。
その静かな強度こそが、梶芽衣子という女優の永遠の輝きそのものなのである。

梶 芽衣子 – あゝブルース

梶芽衣子の歌といえば、「怨み節」や「修羅の花」だけでなく、いい曲がたくさんあって、選曲するも悩ましい。その中で、2011年に約33年ぶりで出した『あいつの好きそなブルース』からタイトル曲にしよう。増村の『曽根崎心中』で共演をみせた宇崎竜童とのコラボということで、演技では、素人同然の宇崎をリードした形だったが、今度は逆に宇崎主導で、バラエティに富んだ曲調がならぶ渋いポップミュージックを、これまた無難にこなす円熟の梶芽衣子の歌いっぷりもまた、やっぱり男前なのだ。