フランツ・カフカのこと

Franz Kafka
Franz Kafka

フランツとお話しましょう。それって可、それとも不可?

ベッドで裏返しになって、手足をバタバタさせながら、
自由を奪われし哀れなる個体。
ただ天井を見つめながら、オレは全くどうかしているぜ・・・
と考える巨大な甲虫ザムザに、いつしか同化しちまっている。
しかし、どうもそれが大事件のようには描かれていない、
そこがカフカ的なのだ。

どこからともなく、フランツ・カフカという虫が、
皮膚を食い破って、血管をまさぐりながら、
おもむろに管内を流れて、いつのまにか
脳内にまできっちりたどり着いてしまっているではないか。
そうした人間は、世に一定数いるんじゃないだろうか?
ぼくはそれを勝手に不条理症候群と呼んでいる。
不条理な感覚に、ある種自虐的に酔いしれるという感性。
しかし、それはある意味健全なことなのかもしれない。

あるときから、カフカの世界が身近なことに思えはじめた。
それは間違っていなかったのだ。
とくに最近はその機会が増えた。
世の中がだんだんカフカもビックリの不条理さを露見し始めているからかもしれない。

昔は随分活字ばかりを追いかけていたが、
近頃では、現実から活字を読み取ることがある。
カフカには、そうした視点を叩き込まれているような気がする。
このところ、カフカ熱が再燃したのは
映画版、オーソン・ウエルズの『審判』をみたというのもある。
(あれはほんと面白かった)
アンソニー・パーキンス演じるジョゼフKの叫びが
リアルに映像を伴って文学とは違う不気味な不条理感を醸し出していた。
さすがは天才オーソン・ウエルズの技だった。
そこで、カフカの『審判』を読み返し
夜の川沿いをぶらり散歩に出かけたりしながら
カフカの小説の世界の住人であることを再確認した。

カフカに親近感を覚えるのは、その小説スタイルが好き、
というのが前提にはあるにせよ、
まずは生涯アマチュアだったこと、
ただ好きで小説を書いていたこと、
実はユーモアのある、人間味のあった人だったというようなことがあって、
そのあとに小説の面白さがくる、
そういうわけなんじゃないか、と思えてきた。

しかし、果たして、カフカの小説がどう面白いのか、と言われると、
それまた言葉につまるのだが
隣の誰かに、カフカはかくかくしかじかで面白いから、
一度読んでみてよ、などと簡単に推奨してはいけない作家のように思えて
なかなかその名を出せないものである。
むろん、文学史上、不条理文学の第一人者であるものの
よほど、相手側にカフカを受け入れてくれるだけの、
何らかの許容値が見つからない限りは、
カフカという魅惑的な響きを、
うっかり口に出来ないような、そんななにか強い意志力を感じさせる。
要するに、人を選ぶ作家であり、
また作風であることは疑う余地がない。

生前は、一介の保険局員として小説を書いていたにすぎないカフカを、
運がなかったのか、それとも運が良かったのか、
うまく文学史を踏まえ語れる自信はないが
やはり、いろんなことをふと考えさせてくれる作家であることは、確かである。

今日の評価を、カフカ自身、仮にも生前にも作家然として受けていたとしたら、
当然、莫大な富を得たであろうし、その生活は大分変わったであろう。
しかし、果たしてカフカにそんな欲望があったのだろうか。
それゆえ、作品が思うように書けなかったという事態に陥った可能性もある。
何かしら作風に影響を及ぼしていたんじゃなかろうか。

最初に、カフカを生涯のアマチュアだと言い切ってしまったけれど、
それはカフカの小説が稚拙だからとか、
欠点があるだとかという難癖をつけたいがための蔑称では、もちろんない。
何しろ、小説が一般の人たちの目に触れたのが、
実質死後何十年もたってからだったわけだし、
友人のマックス・ブロートに全権を託した本人は、
作品の滅却を希望していたというし、
それが本人の望み通りに実行されていたら、
二十世紀の文学史はいったいどうなっていたのか、
こんな面白い作家がみすみす抹殺されていたのか、とも考えられる。
そこがカフカのカフカたる所以だろう。
カフカがどうの、不条理がどうの、なんてテーマをこうしてわざわざ考えることなど、
ありえなかったわけである。
つまり、この空想の重みこそが、カフカ文学の真髄かもしれない。

不条理=カフカ、カフカ=不条理という定説は、
最初に文学に関心を抱いたころに刷り込まれたものであるが、
それはそれで、別段間違いというほどのことではない。
ある日目覚めたら、虫になっていた『変身』に始まり、
何の理由もなく起訴され、あげくに処刑される『審判』しかり、
なかなか目的地に辿りつけない『城』しかり、
断食を芸で見せる芸人の話『断食芸人』だったり、
動物でも植物でもないオドラデクという
奇妙なオブジェが出てくる『父の気がかり』だったり、
おおむねその想像力、発想力は、あくまで現代的感覚の中では、
それほどビックリするほどのものではないかもしれないが、
当時の社会で、カフカ自身の立ち位置と思想を思い巡らしてみても、
どう転んでも、尋常な感覚ではないように思えるし、
そんな風に思いを馳せることだけでも、
実に興味深い文学的な命題が横たわっている。

真面目で、人柄もよく、女性にもモテたカフカが、
小説にあるような思想の持ち主であるとすると、
そのギャップを生きる人間は、今日にはさして珍しいものでもない。
かといって、今日、カフカのような人が実存すればするで、
やはりどうにも生きにくい社会であることは間違いない。
隣で、あるいは、たまたますれ違った人物が、
実はカフカという人で、何やら気難しい顔をして、
いまにも自殺しかねないような雰囲気を醸していると考えるのは単純で、
実はとても気さくで、一見すると好人物な雰囲気で、
どちらかというと、小説家然とはしておらず、
どことなくスポーツ選手のように爽やかで、
あるいは、心底相談相手になってくれそうな頼り甲斐のある好青年だったとして、
そういうタイプの人間が、ある時急に自殺したり
あるいは、とんでもない事件を起こしたりするというギャップに
ひとはなぜを突きつけるだろう。

まさに机上の空論ってやつで、意味はないことだが、
少なくとも、自分には何故だか、近いとはいわなくとも、
そんなに遠い存在だとも思わない作家であるような気がしてしまう。
その対比でいうなら、その実、
むしろリアルな現代人の闇を露呈する小説家である安部公房の方に
全く異次元の存在に思えるくらい遠い存在感を覚える。
あまりにも完璧すぎるアリバイのようなもの、といえばいいのか。
どちらも不条理な闇を文学の高みに押し上げたモンスターだが
やはり、その温度差を感じずにはいられない。
安部公房にはヒリヒリ皮膚を刺激される感覚があるが、
カフカには、もっと内的に、そして本能に訴えかけられてしまうような、
そんな感覚を受けるのだ。
いずれにせよ、カフカという特異な作家には親近感を覚えないわけにはいかないのだ。

カフカ短篇集 (岩波文庫) 池内 紀 (訳) 

僕にとってのカフカは、なんといってもこのカフカ短篇集だ。
池内氏の翻訳がいちばんしっくりくる。
カフカを興味を覚えたら、ここから入るのがいいかもしれない。
目にとまる短編をどれか選んでそこから入れば、
あとはすんなりカフカの世界の住人になれるだろう。

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