Are you ReadyMade?
20世紀の最大のトリックスター、
なんていわれる彼の前では
彼以降の作家たちもちょいと色あせて見える。
彼は生涯芸術に対し“無関心”を装ったクセモノ、
その名もマルセル・デュシャン。
芸術家? モワノンプリュ!
この強力なアンチテーゼの光源に惹き付けられる蛾たち、
すなわち、ぼくもそのひとりではあるのだが、
この創作の美学は、
むしろ解釈するもの自体を写しだしてしまう鏡のようなもの
なのかもしれないね、そんなことをふと思う。
デュシャンをめぐり多くの言説が
語られてきたわけだけど、よく考えてみてよ、
「泉」、すなわち便器がだよ、
いまなお、芸術として語り継がれるということは凄いことだよ。
人は用を足している時、
誰がそんな馬鹿げたことを考えるんだろうか。
いまでこそフツーにレディメイドには
芸術的市民権が与えられているけれど
この概念こそは、現代のキーワードだとさえ思うんだ。
すなわち、ヒトは芸術を作り出すのではなく、
その概念において、
便器でさえも芸術にもなりうるのだという、
とんでもない意識をなげかけた意義は大きい。
もっとも、ぼくがデュシャンを評価するとき、
現代美術界のスーパースターM・Dではなく、
チェス大好きっ子デュシャンであり、
モナリザにヒゲを書いたりなくしたりして、
面白がっている子供のようなイタズラっ子の姿であり、
なによりも、コトバに対するデュシャンの純粋な興味にそそられる。
これまた有名な「大ガラス」に対して
「大鴉」を提示した吉村益信氏にはちょっと笑えるけど、
ま、そういうことなんだ。
ジョコンダこと、モナリザにただヒゲをつけただけの「LHOOQ」
これはフランス語で読めば、Elle a chaud au cul.
発音はおなじエラショーキュでも
つまり彼女のお尻は熱い(性的に興奮している)
と言う意味をも含ませるコトバ遊びってわけなのね。
こういうの地口って言うんだけれども
そう言うのが得意だった人がデュシャンだ。
ボクにとってのデュシャンは、
そういう意味では決して晦渋なわけではない。
例えばボクが大好きなコトバ
「アンフラマンス」という造語がある。
そもそもアンフラマンスとはなんぞや?
といって、うまくコトバにする自信がないのだけれど、
“極薄”なんて風に訳されている。
デュシャン本人のメモに、
(ヒトがたったばかりの)座席のぬくもりは極薄である。
という一節がある。
うん、これならなんとなくわかる気がしてくる。
この感覚は漠然といつも感じてきたことで、
と座席についたとき、うむ、これがアンフラマンスかあ、
とっさにうなってしまうことがある。
そして席を離れるときにも
人は皆このアンフラマンスにしばしの別れを告げるってわけね。
だって、席を離れると極薄は跡形なく消えてしまっているんだから。
そんな変な意識が頭の中の去来している。
マジックみたい不可思議さ。
なんだろう、この得体の知れない心地の良さは。
もちろんそれがアンフラマンスという概念の全てではないけれど、
イマドキのことばでいうとチョービミョー、
そんなテキトーなニュアンスで片づくかもしれないけれど
その部分が、デュシャンにおいて
“極薄”的というニュアンスで置き換えられることを、
ボクはボクなりに咀嚼すると、
それは人間という薄っぺらなものとしての総体そのものへの“告白”
と言い換えることもできるんじゃなかろうか。
「レディメイトについて」(コレクション瀧口修造3より)
人間はハンディキャップなしには出発することはできない。彼はレディメイドからスタートしなければならない。自分の母親だって父親だってそうではないか。
ふむふむ。
そうね、人間こそが「泉」のように
レディメイドな作品だってわけだ。
これもまた深い話だね。
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