大竹伸朗『ジャリおじさん』のこと

大竹伸朗「ジャリおじさん」
大竹伸朗「ジャリおじさん」

ユーは阿闍梨、それとも砂利? こりゃいったい何ジャリか? 

一年遅れのオリンピックがここ日本で
なんとか開催されるところまでこぎつけた。
本来なら、熱気とざわめきで、トウキョウの街は大いに賑わったであろうに
ご覧の通り、いろいろケチがついてしまったものである。
僕自身、当初から堂々とやればいいと思ってきた。
せっかく権利を得たのだ。
とはいえ、金や打算、科学的根拠のない被害のことばかりが取り沙汰される。
やれやれである。
しょうがないという思いと、やりきれぬ思いが交差する。

実際の状況を客観視すれば、正直観客を入れたからどうなるとも思えない。
むしろ不自然すぎるし、不条理そのものである。
1998年における長野オリンピックなどは、
インフルエンザ患者数はなんと50万にも達しようかという真っ只中で
だれひとり、感染を危惧することなく平然と開催され熱狂していたという経緯がある。
マスクや三密回避など、だれも気に留めてはいなかったのはいうまでもない。
知らぬが仏とはまさにこのことである。
が、今や世間にそれを許さない空気だけが充満している。
おかしな世の中になってしまった。

あらかじめ異様な光景に演出され、捻じ曲げられたこの特別なイベントは
いずれにせよ、いろんな意味で、生涯語り継がれることになる大会であろう。
この一年、随分と肩身の狭い思いをしてきたのは
紛れもなく、ここに照準を合わせてきたアスリートたちである。
簡単に反対や延期を唱えるのは勝手だが、
声高に反対だけを叫ぶ人間に、彼ら選手側の言い分や気持ちを慮る声はあるのだろうか。
命重視という大義のもとに、彼らもまた犠牲者であるというのに・・・
なにかと物議をかもす大会だが、無事に終わることを願っている。
終わってみれば、やっぱり開催してよかったんじゃない? と思いたい。
金がいくつ、ニッポンが、日の丸が、チャチャチャ、なんてことはおいておいて
出場する選手たちにはみなエールを贈りたい。
この際、損得などどうでも良い。
国籍などは関係はない。
そのためのイベントだ。

さて、前置きが少し長くなってしまったが
そのオリンピックの公式ポスターを手がけたアーティストの一人が
現代美術界のいまや巨人、といっていいあの大竹伸朗である。
その世界観は、ひときわ異彩を放っている。
このタイミングで、この特別なオリンピックに向けたポスターを手がけたのも、
なにかの縁なのだろう。
大竹が描くヴィジョンは、オリンピックというものの大会意義に
特別に執着するようなものではない。
意味などあってないのが、この芸術家の所業だ。
が、メッセージはある。
インパクトは絶大だ。
未来を見据えた、どこか宇宙的ビジョンをもって、
今後、いつお目にかかるかはわからないこの貴重な機会においても、
大竹伸朗の意識は、国と国との争い、
政治的思惑など無関係にどこまでも自由をかかげて
それはまさに、オリンピック原点である文化や国境を越える真の力を有している。
僕はその力を支持し、信じたい。

そんな大竹伸朗がかつて手がけた絵本が『ジャリおじさん』である。
大竹伸朗らしさが満載である。
絵本といっても、子供に迎合するスタイルは一切とられてはいない。
その名の通り、この絵本はアルフレッド・ジャリの
アナーキーでグロテスクな戯曲『ユビュ王』をモティーフに、
そのキャラクターを拝借しているのは明白だが、
ユビュそのものが、ナンセンスの象徴そのものであり、
大竹の描くジャリおじさんも、基本的にはその流れを汲んではいるのだが、
ここには小難しい哲学も、現代アートとしてのはけ口でもない、
どこかでおかしみと親しみを携えたジャリおじさんというキャラクターが
ちょっとした冒険譚をくりひろげる。

本家ジャリおじさんのひげ(はなげ?)が鼻の頭にまで移動してる(!)。
で、このジャリおじさんは、あおい海が好き。
あるとき気づくと長い道がのびている。
あるいてゆくとピンクいろののそのそワニくんに出会い、つれそうが、
ドッペンゲルガーよろしく、ジャリおじさん本人に出会ったかと思えば、
ヘンテコなタイコおじさんなるものに出会ってみたり・・・
どこまでいってもナンセンスにあふれた絵本である。
さて、この冒険物語の結末はいかに? 

うむ。結局意味や意義なんて必要ないのかもしれない。
逆接的にいえば、あらゆるものには意味がある。
その意味がなんなのかは、感じとるものに委ねられる、というだけだ。
めぐりめぐれば、ジャリおじさんという等身大の自己投影があるだけなのだ。
山は山である、的な感じがなんともすがすがしく、
ある意味、すこぶる禅的世界の表出といっていいのかもしれない。
僕は勝手にそこに十牛図などを重ね合わせて見てしまう。
だが、物語に起承転結が敷かれているわけでもない。
そうした世界観が、まったく一部のマニアックな層にのみ訴えうるものでもなく、
手にした子供たちの目をちゃんと輝かせてしまうところに、不思議な力を感じる。
こんな絵本に胸ときめかせる子供たちの未来が、つまらないものであるはずがない。

これぞアートの力であり、宇宙言語としての共感なのかもしれない。
理屈や常識で測り得ないものを、
ひたすら衝動とその熱情とともに放出するスタイルを貫いてきた
大竹伸朗という一人の異端なアーティストが、ふと立ち止まって海を見ている、
そんな絵本でもある。
そこに子供たちに向けたメッセージを絵本に認めた。
それが『ジャリおじさん』であり、合言葉「ジャリジャリこんにちは」を発して
出会う人間たちに、どこまでも不思議なコミュ力をもって伝播してゆくのだろう。

Final Solution:Pere Ubu

同じく、ジャリのユビュ親父からそのバンド名を拝借した、デヴィッド・トーマス率いるアメリカのオルタナバンドペル・ウブ(英語読みだとウブだが、原題はユビュである)の曲「Final Solution」。
(ピーター・マーフィーがカバーをやっていた)
大竹伸朗との関わりはよく知らないが、ナンセンスという意味では遠からず。
ちょっとヘンテコなガレージロックだけど、大竹のスクラップの美学にも通ずるものを感じる。


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