ダダより面白いものはない
ウルトラマンに登場した怪獣のなかで
ひときわ個性的なものをひとつあげるとしたら、
真っ先に思いつくのがダダ星人である。
その個性的なマスクと幾何学的な縞模様のいでたちで
これほどこの現代で人気を博している怪獣・怪人は
他にちょっといない気がする。
(バルタン星人も手強いが・・・)
まさにバラエティからCM、アニメにゲームと
引っ張りだこのキャラクターである。
そもそもが、なんのひねりもない、
ダダ星人というネーミング自体が乙である!
もともとダダイズムとは
第一次世界大戦の渦中に各地で起きたゲイジュツ運動で
既成の秩序・常識を否定し破壊するというものである。
詩人トリスタン・ツァラが発起人で
ラルース辞典を開いて、偶然目に付いた単語「ダダ」を名称とした。
つまりは幼児ことば「おうまさん」を意味する言葉が
二十世紀の芸術運動の重要な概念をあらわすムーブメントだったのだから、
皮肉にも、ダダ星人の扱いなどを見て
子供受け、庶民的人気を博するのも不思議ではない気がするのが面白い。
だが、その解釈はまったく別の次元でかたられている訳で
つくづく時代性を感じるものだ。
もっとも、ダダそのものの概念は興味深いものだが
実際の表現としての面白さの点では
コンセプトよりも造形そのもの、発想そのものの方にある。
だから、むしろダダ星人そのものに支持が集まる現代にこそ
健全な精神を感じとったりするのだ。
同じものをながめていても
見る人によって観点は異なるものだし
そもそも同じだからいいってわけでもないし
違うからダメってことでもない。
いやあ、少々回りくどくなってしまった。
これは男の感性でも女も感性でもない。
自分の感性から切り出そうとして
こうなってしまったにすぎないのだが、
感性を言葉に移し変えることは難しい。
単にダダのことを書きたいと考えていたのだが、
そのなかで、ベルリン・ダダのメンバーとして活動した
ドイツゴータ生まれのハンナ・ヘッヒというコラージュ作家
女ダダイストのことを年頭にあってのことだ。
コラージュ、それは夢とポエジーのアマルガム
それをコラージュと呼ぶにやぶさかではない。
恋人だったダダイストのラウル・ハウスマンが
「ダダゾーフ(ダダ哲学者)」とよばれ
文字通り、観念的に言葉でもって
「ポスター詩」「文字詩」に没頭しているかたわらで
ヘッヒはフォトモンタージュで
女性固有の情動的なビジュアルコラージュを展開している。
ここで男と女の思考の違いを唱えるつもりはない。
だが豊穣なイマージュを偶然に産出せしめるこうしたデペイズマンは
小難しく理論を交わす以前に視覚的に脳髄を刺激する点で
ダダ星人のように、不気味ながらも
問答不要に気を惹いてしまうものかもしれない。
ちなみにデペイズマン とは、
意外ものの組み合わせによって
見るものを途方にくれさせる(dépayser)
というシュルレアリスムの手法である。
詩人ロートレアモンによる
「解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会いのように美しい」
という詩に端を発していると言われる。
ダダイズムの精神を超え、人間の本質をも刺激する
コラージュ、フォトモンタージュの旗手
ベルリンダダを代表するハンナ・ヘッヒのコラージュワールドは、
既成概念を打破するためのどこまでも直感的、脳髄的な刺激、遊びなのである。
それはもともと男性には疎い、
つまりは女性的感性の発露であると同時に、
これは子供のエロティズムの領域でもあるといえるのだ。
余談だが、女性はマスク社会において、その恩恵を受けているものが
少なからず、いるというのはわからなくはないが、
子供においては百害あって一理なし、ではないかと思う。
場合によっては発育に害があろうし、
最悪の場合、死に至るケースも耳にする有様である。
精神のバランスを崩し、自ら命を断つと言って事象を聞けば胸も痛む。
これほどまでに子供たちの自由をほぼ強制的に奪う時世において
いっそのこと、子供にマスクを強要するのであれば
子供たち各々が好きなイメージをコラージュしたマスクでも配布してあげて
それを着用させてあげればよろしいのではないか、などと思う。
そもそも、小学校あたりの美術の時間にコラージュを取り入れる、
そんな柔軟な思考があるなら、
世の中はもっと楽しく自由で生きやすいものになっているのかもしれない。
ハンナ・ヘッヒのコラージュなどは、そうした遊び心を喚起するものだ。
コラージュは発想や想像力を育むには有効な遊びだと思う。
失いつつある精神の自由を保持するためのエクササイズとしてのコラージュ。
最も、それでマスク信奉から抜け出せなくなってしまうのも困りものだが
大人はさておき、この日本で子供の死者数が皆目報告されていないわけで
子供にマスクをさせる科学的エビデンスがない以上、
これ以上の犠牲に目を瞑るわけにもいかなくなってくる。
1日も早く、元気なフルスマイルが子供たちに戻る日々を願うばかりである。
David Byrne’s American Utopia – I Zimbra (Live on Colbert, 2021)
1979年のトーキング・ヘッズのアルバム『フィア・オブ・ミュージック』の一曲目を飾る「I Zimbra」という曲は、ダダイスムの詩人フーゴ・バルの音響詩「Gadji Beri Bimba」からの一部が繰り返される実験的な曲なのだが、そのアイデアを思いついたのがプロデューサーでもあるイーノだった。もともとイーノもバーンも美術学校出身だから、そういうところの感性もバッチリ合うんだろうな。そのエピソードが映画『アメリカンユートピア』で、バーン自身の説明で初めて知った。ちなみに、ハンナ・ヘッヒとフーゴ・バルに接点があったかまではよく知らないが、、クルト・シュヴィッタースを介してオランダの言語学者マチルダ・ブルグマンと知り合い付き合っていたぐらいだから、どこかで接点があったのかもしれない。
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