北斎に詣でて

弘法大師修法図 弘化年間(1844-47) 西新井大師總持寺
弘法大師修法図 弘化年間(1844-47) 西新井大師總持寺

天外魔境の画狂人北斎はポップスターの先駆けであった

最近何とは無しに気になる言葉は“画狂人”。
その名もクレイジーペインター。
なぜか日本語になると
“言葉狩り”の対象になってしまうおそれのある雰囲気が漂う。
それが狂人という響に込められた呪詛である。
とはいえ、まさに北斎がこの画狂人であることを
疑う来訪者などだれ一人としておるまい。

そもそも本人が、今でいうところの、
いよいよ終活にでも入ったかという晩年に
「画狂老人卍」などと名乗って、
老いても益々その画狂人ぶりを加速させ、
娘であり弟子でもある応為とコラボしたり、
艶やかな色彩や構図、筆運びに至るまで
百花繚乱とはこのことで
その質量共に枯れることなく卒寿で没するまで、
あくなき画狂人道をひたすら邁進したのである。
生涯に遺した絵は三万点を超えるというのだから
全くもって言葉が出ない。

同じく、当代きっての画狂人たる伊藤若冲とて、
この天才絵師北斎を知っておれば
果たしていかなる思いがもたげたであろうか?
その質を競うことにあまり意味はないが
その同時代人の前には一目も二目も置いたはずだ。
天才は天才を嗅ぎわける。
同時代の天才が東と西でそれぞれの宇宙観を育み
後世にその天稟の画才を残しえたことは
奇跡といっていいのかもしれない。

それにしても、北斎という人は
なんと生命力を持った画家だったのだろう。
90歳に至るまでこの膨大なるエネルギーを持続し
信じられないほど精力的に残した作品は
時代を超えても我々を魅了する熱が冷めやらない。
天才奇人という伝説が一人歩きしてはいるが
そんなことより、
むしろ、この現代に改めて提示される宇宙こそは
圧倒的にモダンで斬新だ。
おそるべし北斎、素晴らしき絵師である。

モダンであるのは何も絵のスタイルだけではない。
凡人には到底理解できるはずもない感性は天才固有のもの。
又の名を屋号狂人。(これは自分が勝手に呼んでいるだけだが)
いわゆる葛飾北斎期など
その長い画歴においてわずか五年に過ぎないのだ。
先ずは十代で当時の人気浮世絵師・勝川春章の門下となり
勝川春朗を名乗って、20歳で浮世絵界に身を投じる。
そこから生涯に渡っての転生ぶりがこれまた凄まじい。
群馬亭、北斎、宗理、可侯、辰政、百琳、雷斗、戴斗、不染居、
三浦屋八右衛門、百姓八右衛門、魚仏、為一、画狂人、九々蜃、雷辰などなど
枚挙にいとまがない。
そして『富獄百景』初編の跋文で
「画狂老人卍」と言う号を名乗って以後床に伏すまで、
衰えを知らぬ勢いで肉筆画に没頭する。

ひと魂でゆくきさんじや夏の原
この句を詠んで永眠したのが90歳
その法名も南牕院奇誉北斎、
ここでようやく打ち止めと相成るのだが、
なかには「鉄棒ぬらぬら」なる
春画家ペンネームまであるのだから、
開いた口が塞がらない。

『蛸と海女』といったなんともエロティックで
どことなくもユーモアラスな春画を残しているのだが、
そのまことにつややかなペンネームに
思わずニンマリせずにいられない。
そうなると北斎という人に、
すでに二百年も前にして、
今日的ポップスターそのものの資質をみてとったとて
なんら違和感などありはしない。
あのピカソやダリ、岡本太郎、
アンディ・ウォーホール、横尾忠則といった
錚々たる絵画の巨人たちにもなんら劣ることのない、
偉大なポップカルチャー性をすでに懐胎している。
まさに早すぎたポップアイコンとしての北斎に
驚きを禁じ得ないのだ。

それにしてもなんという遍歴であろうか。
それだけで立派なコンセプチュアルアートと呼びたくもなる。
おまけに引っ越しすること90回以上。
1日に3度も引っ越したほどの引っ越しマニアでもあった。
なんでも部屋が汚れ放題、
その限界に達するたびに家を替える放浪の日々。
兎にも角にも自由奔放というか奇人というか
筆さえ握っておればご機嫌だった、
根っからの画狂人であったというのが
今日の定説となっている。

行儀作法を好まず、挨拶などいう概念もなく
随分と愛嬌のない人物としての評判が独り歩きしたとみえる。
その割には『北斎漫画』に見られるような
ユーモアやウイットに富んでいるのだから不思議だ。
日常においては金、食、衣には無頓着で、
身の回りのことにほとんど関心を示さないが故に
変わり者としての評判からは
若い時分には随分長く赤貧生活を余儀無くさせられたようだが、
かの『富嶽三十六景』や『北斎漫画』によって
ようやくその天才の名を知らしめるに至る。

その当時、長崎から江戸に来て
北斎に絵を依頼したのが
加比丹付属医師シーボルトで、
その際にシーボルトは当初の決め値から
言い訳がましく半値に値切ったというのだが、
北斎はそれを断固拒絶し売らずに持ち帰ったところ、
当時の妻が生活の足しになったのになぜ売らぬと諌めるも
人によって値段をコロコロと変えているようでは
日本人としての沽券にかかわるとして、
断じて甘んじなかったらしい。
なんとも純粋というか、天邪鬼というか、
そのエピソードを聞いた加比丹が北斎の心意気に感動し
元値で買っていったという伝説が残されているほどである。

そうした数々の伝説はさておき、
天才絵師の評判は海を渡り西洋にまで轟いた。
兄弟共に浮世絵の大ファンだったゴッホをはじめ、
印象派の巨匠セザンヌやモネ、マネなどは
江戸浮世絵をはじめとする東洋の美に魅了され
その思いを絵の中に持ち込んだ作品を数々残している。
アンリ・リヴィエールに至っては
北斎の『富嶽三十六景』にちなんで
『エッフェル塔三十六景』を描いてしまうぐらいだから
この江戸の画狂人の影響ぶりには
どこまでも計り知れないまでのものがある。
あの音楽家ドビッシーまでが
「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」に発想を得て、
交響詩「海」を書くぐらいだから、
北斎ポップスター説はいよいよ持って
核心に迫る思いがしてくるのだ。

ちなみに北斎の三女、お栄こと葛飾応為もまた
北斎の血を受け継ぐ浮世絵師なのだが、
北斎との合作『唐獅子図』や『夜桜美人図』といった
その残された絵を見るにつけ
父に劣らぬ感性を有していたのは疑う余地がない。
それは北斎のお墨付きでもあり
「余の美人画は、阿栄におよばざるなり」と言わしめた。
西洋美術にも明るく、影響を受けたそのタッチには
「江戸のレンブラント」という指摘があるほどである。
北斎が「おーい、おーい」と呼んでいたのが
そのまま名前になったという説もあれば、
アゴが出ていたがゆえに父が直々「アゴ」と呼び、
どこまで信じていいのかはわからないけれど、
文字通り、顎でこき使ったわけではなかろうが、
北斎が床に伏すまでの晩年の世話をしたとされている。
親子して天才で変わり者同士気が合ったのであろう。
どうやらそれは動かし難い事実のようだが、
残された作品を見れば
それもそれで納得の他あるまい。

そんな北斎の臨終の時の言葉は実に感慨深い。

天我をして十年の命を長らわしめば…
天我をして五年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし

天が後十年、いや五年でも構わないから
我が寿命を伸ばしてくれたなら、
真の絵が描けるようになるのだがなあ。
兎にも角にも絵に対する思い入れには
凄まじいばかりの情熱を持っていたのだろう。
好きこそ物の上手なれ、とはよくいうが
これほどまでにその言葉に相応しい画家がいるだろうか?
我々日本人の至宝である。

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