赫の他人の睦みあい
その昔、関西圏で、西郷輝彦主演の『どてらい男(やつ)』という
コテコテの浪花商人のテレビドラマをやっていた。
花登筺原作、もーやんことひとりの商人が
いじめや不条理な扱いを受けながらも
たくましく立身出世してゆく話だった。
別に欠かさずに見ていたわけではないのだが、
なんだかんだ面白かったという記憶だけが
今尚どこかで脳裏に焼き付いている。
なかでも藤岡重慶という俳優が面白かった。
悪意はあるがどこか憎めない軍曹役が猛烈に残っている。
どてらい奴もーやんを引き立たせるためのヒール役だ。
“どてらい”とは紀州言葉で「凄い」という意味で
大阪弁でいう「ごっつい」いうなれば「どえらい」ってな事になるのだろうが、
その言葉の響きがこちらの映画の冒頭で蘇ってきた・・・
神代辰巳の代表作、日活ロマンポルノの傑作『赫い髪の女』のことだ。
海沿いの路上で、冒頭トンネルを抜けてひとりの紅毛の女が歩いてくる。
そこへ“どてらい”を冠した憂歌団の哀愁漂う歌
「どてらい女」が流れてくる。
なんともいい感じなのだ。
すれ違うダンプに振り返る女のスローモーション。
そこで静止してタイトル『赫い髪の女』が入る。
これがあのロマンポルノというものか?
こりゃあまるでブルースみたいじゃないか、
などと呟いてしまう。
情熱の赤、官能の赤、生命の赤。
だが単なる赤ではない、
ここでは「赫」として記憶されねばならぬのだ。
赤が二つ並ぶ特別の赤なのだ。
激しく燃え盛る赤をして、赫と書く。
原作はあの中上健次の短編『赫髪』というわけだった。
なるほど、紀州弁「どてらい」がにわかにリアルに響いてくる。
一見、昭和その時代にレイドバックした空気のなかにも
なにやら落とし込まれた、けだるく妖しい陰影。
肉体労働者と訳あり女の情事はそこから始まる。
以後、この作品はとにかく赤ばっかしが目に飛び込んでくる。
赤いセーターに赤い下着、赤い唇。
赤いこたつ台に赤いカーテン。
こたつの赤外線の赤い灯に照らされて顔まで真っ赤だ。
何より生々しい女の血が幾度となく流れる。
全編、激しくも妖しい色彩が赤々と目に飛び込んでくるが、
それは小津安二郎の映画なんかの上品な赤などではない。
官能を呼び覚ます色でありながら、同時に哀愁が広がる色。
日活ロマンポルノの傑作と呼び声高き作品のなかの
生々しい生活の中の赤である。
こうして赤く脈打つ女はどうやら人妻である。
やくざな夫の暴力から逃れるために家を出たあと
肉体労働者光造と出会う。
男のしなびた四畳半アパートに転がり込み
ほとんどやることといえば、肉体と肉体を絡ませながら
そこから二人のグダグダの関係はどこまでも続いてゆく。
それは決してポルノだからではない。
そこに男と女がいるからだ。
男は眠りから目覚めて、女を探す。
布団をめくると、猫のように男の股間にくるまっている女が実にいとおしい。
蛇の目傘をさして二人で橋を渡るシーンの
絵になること絵になること。
女にはほおって置けない色香がある。
そして無邪気さ、切なさ、愛おしさを振りまいている。
ロマンポルノを代表する宮下順子である。
子犬のように男から離れられないのだ。
「一日中ずっとしよう」といって泣きながら男にしがみつく。
ラーメンの話、スーパーの話、そして“アレ”のことばかりだ。
男は石橋蓮司。
やさぐれてはいるが、どこか不器用で、
愛というものにストレートに飛び込んではいけない。
ただやりたいだけの、知性も教養もない男にみえるが
それでもときどきみせるはにかみや激情っぷりで
底なしの人間味を醸し出して女にむしゃぶりつく。
次第に女に情が移って離れられなくなって、
四畳半の安アパートでひたすら性愛にしけこんでゆく。
これの、何がよろしいのか?
どこにでも転がっている男と女の
このむき出しの弄り合いのどこが?
かつて、テレビ版『座頭市』で、
脚本など不要だとばかり、
海、少女、市、その三つがあれば
物語は自ずとできあがると豪語したのは勝新だった。
ここでは、女、労働者(男)、
そしてセックスさえあれば物語は自ずと出来上がってゆくだけだ。
簡単だ、それだけでいいのである。
ブルースを聴いているように、映画に見入ればいい。
構えることはない。
だが、この生活臭はなんなのか?
この人間臭さはなんなのか?
汗と体臭と、人間の情動が、実にたくましく綴られる二人の関係が
わずか、一時間強、無性にいとおしくなってくるではないか。
壁に向かって路上で股間を弄り
女の不在時に部屋で一人手淫に耽る男。
畳に落ちている女のシモの毛を愛おしげに口に含んで
鏡面に貼り付ける・・・
そんな男に惚れてしまった人妻は
しみったれたアパートの四畳半で
外はこれぞ官能、たっぷりの湿り気を帯びた雨模様を受け
窓から飛び込んでくるその雨と一体になるように
これでもかこれでもかと艶かしい雄叫びをあげながら
抱き合うことをやめない。
なぜだか、いやらしさなど無縁であるかのように
本能を貪り合うラストシーン。
ストーリーを追う必要などどこにあろう?
それにしても、妙な関西弁トーンだ。
内容次第じゃ黙っちゃおけない。
石橋蓮司も宮下順子も生粋の東京人である。
ネイティブが聞いたら、絶対にその違和感を感じずにはいられないと思う。
けれども、それがたまらなくいい。
その感じがたまらなくいいのだから、どうしょうもないじゃないのさ。
これでいいのだろう。
これがいいのだ。
何しろ、これは映画なのだから。
ロマンを感じずにはいられない映画なのである。
これがあの神代辰巳の世界であり、
たまたま日活ロマンポルノというだけのことで、
仮にポルノという称号のみで遠ざけられているとしたら
それはあまりに哀しい現実だ。
切なすぎるではないか。
映画という名の情熱。
男と女の情熱。
かつてそれら思いを互いに求めあった結晶の産物。
映画好きなら見て損はない、赫の他人の睦みあい。
うーん、豊かな時代があったものだ。
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