ビクトル・エリセ『マルメロの陽光』をめぐって

マルメロの陽光 1992 ヴィクトル・エリセ
マルメロの陽光 1992 ヴィクトル・エリセ

十年刻みの美の秘密

17世紀を代表するスペイン宮廷画家ディエゴ・ベラスケスによる、
『ラス・メニーナス』という一枚の大作がある。
西洋絵画の傑作と誉れ高きこの作品は、
スペイン王フェリペ4世の宮廷内、記念写真ならぬ
集合絵画というか、家族全体の肖像画と言った趣きがある。
ところが、いったいこの絵は誰を描いているのか、
どういう意図があるのか?
鏡の中の人物はいったい誰なのか?
300年という年月を経ても、今尚謎に包まれた
神秘的な絵画の一つとして、
美術愛好家の関心をさらってきた名画なのである。

絵の神秘については、また別の機会に譲るとして、
そんな「ラス・メニーナス」に関する映画『ベラスケスの女官たち』は
1992年ハイメ・カミーノによって、すでに映画化されてはいる。
当時、その題材を同じくテーマに準備していた作家がもう一人いた。
それがビクトル・エリセである。
10年に一度しか撮れないのか、撮らないのか?
『みつばちのささやき』から10年後に『エル・スール』。
そのまた計ったように10年をかけ、
エリセが満をじして温めていた構想が
テーマがかぶるということで、企画を断念せざるを得なかったのは
呪われた作家ゆえなのか?
幸い、そんな思慮深い作家が
気持新たに手を伸ばしたもう一人の神秘があった。
スペイン美術を代表する画家アントニオ・ロペスである。

エリセと同様、実に佳作で寡黙なことで知られるこの画家が
自宅の庭に植えられたマルメロを描く過程を映画化した作品と言えるのだが、
この『マルメロの陽光』は、そんな画家についての
単なるアートドキュメンタリーというわけでもない。
一見、フィクションとドキュメンタリーの間にはあるが、
ドキュメンタリーというにはあまりに何も語られない映画であり
フィクションというには何も起きない映画である。
いや、何も語らず、何も起きないのではなく、
我々は「ラス・メニーナス」の神秘同様、
その奥に隠されたエリセ自身の思いを
この画家の眼差しを通して
想像力を駆使しながら紐解いてゆくべき映画なのだ。

ここにもまた『みつばちのささやき』や『エル・スール』という
映画の奇跡を丹念に描いてきた作家の、
変わらぬ語り口、確かな眼差しがある。
まさに十年周期のゆっくりとした時間のながれのなかで
エリセと同じく、寡黙にして寡作な姿勢への共感が豊かに捉えられている。
けれど、少し語弊を恐れずにいうと、
ロペスが描くマルメロの絵そのものが感動的かと言われると
よくわからない、というのが率直な思いである。
まるで禅問答のように、執拗に繰り返される対象への深い洞察は
絵そのものの魅力から画家そのものの精神性へと降りたって、
ひたすら、描く姿勢の根本へと移っていく。
それはエリセ自身の映画に携わる姿勢と
どこか共通しているのように思える。

まずはアトリエでカンバスづくりから始まり、
その庭で樹に糸を張り、重りを落とす。
そして、果実に線を引き、そして天気を睨む。
雨に悩まされればテントを張る。
こうして取り掛かった油絵は
度重なる天候不純によって中断を余儀なくされ
その後新しいキャンバスに今度は一から素描を描き始めるが、
マルメロの果実はすでに熟して地面に落ち、腐りかけている。
まさに、エリセとロペスが向き合う、
時間というものの過酷さが見事に詩的に表現されている。

それにしても、一本の樹と果実を描くことが、
こんなに大変なことなのか?
少なくとも、この画家にとっての工程は
絵を完成する、というよりも対象にじっくり寄り添い、
瞑想でもするかのような聖なる儀式にさえ思えてくる。
それは感動的というよりは、不可能への挑戦であり、
まさに芸術家の秘め事としての趣きが漂う。

とは言え、その画家の持つ不思議な魅力、
描くプロセスの神秘が
そのスーパーリアリズムの絵画、マドリードリアリズム、
あるいは神秘的リアリズムと呼ばれる世界の入り口として
見るものを不思議な次元へと連れ出してくれる。
マルメロの陽光とは、一旦収束した夏の強い日差しが
秋になってもう一度戻ってくる際のことをいうらしい。
その際、子供は隠したほうがいい、などといわれるほどに強い陽射しで
そんなまばゆい光の錬金術によって、輝くばかりの黄金の果実を前に、
日々一刻一刻変わってゆく光の加減を繊細に読み取りながら、
ひたすらその完成を夢見て、静かに筆を持ち、
深い眼差しを傾注する画家の所作はどこまでも神々しく、
その次元はベラスケスをはじめとする絵画史における匠の眼差しと
なんらヒケを取るものではないだろう。

しかし、この映画が、単にアートドキュメンタリーと一線を画すのは
この映画に出てくる三人の画家の関係性である。
一人は、そのロペス自身であり、もう一人は
妻であるマリア・モレノ、そして友人のエンリケである。
妻であるマリアはロペスと同様、リアリズムの画家でもあり、
この映画の中でロペスの肖像画を披露し、静かに支えている。
そして、ロペスが絵に没頭する間も、
気心の知れたおしゃべりに花が咲くのは、
美術学校時代からの盟友エンリケ・グランである。
ちなみに、エンリケはロペスとは正反対の抽象画家である。
一見接点なきその作風だが、どこかでロペスの方法論そのものに近い
不思議な糸で結ばれている気がするほどだ。

さて、実際の黄色と陽光のまばゆさで
錬金術的な色彩、つまりは黄金色に輝くマルメロ。
マルメロとはなんなのか?
そこで、マルメロとカリンについて、
知っていることを総動員させて考えてみよう。
どちらもあまり馴染みではないのも手伝って、
その区別がいまだについてはいないのだが、
表面がつるつるしているのがカリンで
洋梨系のゴツゴツしたほうがマルメロ、らしい。
そのどちらもがバラ科の植物である。

これは邪推かもしれないが、
仮に、対象がカリンだったら、この画家はその食指を伸ばしたかどうか、
つまりは、表面が平坦であるカリンとゴツゴツしたマルメロでは
陽光の影響の受け方からして違いが出るだろう。
あれほどまでに、光に敏感な画家が、
その変化の差に無関心なはずもない。
ちなみに、生食には向かないカリンは、果実酒で出回っている。
たまたまこの間、贔屓のとある居酒屋のマスターが漬けた
カリン酒をいただいたが、極上だった。
そんなとき、ふと、この映画のことが頭をよぎったのである。
一つの果実が時とともに成熟してゆくように、
そのフィルムでさえ、時間と人間たちの振る舞いが
時間とともに自らの眼差しの成熟に合わせて変化しているのがわかるのだ。

マルメロの陽光:WORLD STANDARD

鈴木惣一朗率いるWORLD STANDARDの、通算10枚目、自身のレーベルstellaの第3弾『みんなおやすみ』に収録された1曲。その名も「マルメロの陽光」。おそらくは、エリセのこの映画からタイトルがつけられているのだと思う。こ難しい解釈はさておき、曲調は至って優しいアコースティックな楽器編成のインスト。鈴木惣一朗WORLD STANDARDというと、ペンギンカフェあたりの空気感を感じるのだが、このアルバムもまた同質の心地よさを宿している聴いているとうとうとしてくる室内音楽だ。ちなみに映画「マルメロの陽光」は、スペイン・バスクの作曲家パスカル・ゲイニュを起用したサントラ盤もリリースされているが、そちらもまた優雅な室内音楽が中心だが、映画に寄ったニュアンスを持ちながらも「印象派」絵画のような雰囲気を漂わせた地味な名盤だ。

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