幾つになってもオペラの灯は消えず
芸術がゆるやかに移ろいゆく老境の季節。
いみじくも、敬老の日がとうにすぎた折り、なぜだか
ダニエル・シュミットのフィルモグラフィを貫く一本の糸をたぐりよせてしまう。
そこにあるのは、若さや力の絶頂を経て、
人生が“薄明”に差しかかったときにこそ映える瞬間の、
芸術家の本質がようやく透けて見えてくる生の裏舞台ともいうべく、
その理念をもっとも素直に結晶化させたドキュメンタリー映画。
その名も『トスカの接吻』の永遠の調べ。
ミラノに、この映画の舞台となったのは
ジュゼッペ・ヴェルディ自らが設計したカーサ・ヴェルディ。
“老人ホーム”の呼称を頑なに拒否して名づけられた
Casa di Riposo per Musicisti、すなわち音楽家たちの憩いの家。
引退した音楽家を100名収容できる三階建ての建物として
ヴェルディは最後の力をここに注ぎ込んだ。
“芸術家は老いても芸術家である”
そんな信念を、建築という形で残したかったのだろう。
その建物の内部へと、オペラ趣味のシュミットとスタッフが
そっとカメラを抱え込むようにして入っていく。
その場の気配に、まるで黒子のように寄り添いながら、
老いたる音楽家たちが若き日の声を呼び覚ます“歌劇”を捉える映画。
『トスカの接吻』の中心には、かつてスカラ座の花形ソプラノだった
サラ・スクデーリというひとりのオペラ歌手がいる。
いまや、杖なくては歩けない高齢のご婦人だ。
若き日のレコードに合わせ、かつての自分の声と曲の美しさに見惚れ
ついには鼻歌のように歌いだすシーンがなんとも印象的だ。
次にカード遊びに講じたかと思えば、乙女のように昔の写真に胸ときめかせる。
その表情を、シュミットはとくに説明なく、
水面に舟を浮かべるかのように、ただそっと画面に置いてみせる。
ここに彼の映画の魔法が“老いの芸術”に敏感な視線ぬ向け浮かび上がる。
それらは“自分という生涯の役との再会”であり、
彼女が自分の人生を捧げた全ての時間を
一点に集約される美しい瞬間として捉え直す素晴らしい刻印だ。
良き日を見せてくれてありがとう、そうつぶやきたくもなる。
もうひとつの中心人物は
サルデーニャ出身の作曲家ジョヴァンニ・プリゲドゥ。
只者ではない、いかにも芸術家風の佇まいと、
たえず一ヶ所にじっとしていられず、家を歩きまわっている男性。
彼は老境の品格を保ちながらも、その場で即興の音楽を奏で始め、
昔の余韻にひたって、過去の栄光に酔いしれながら、
そして、音楽家たちを従え、彼らの歌をとり仕切りってみせる。
あるいは恰幅のいいレオニーダ・ベロンがテノールを響かせ、
廊下で、サラとふたりで《トスカ》の歌劇を再演する場面は、
まさにハイライトといっていい。
往年の迫力を再現しながらも、息は絶え絶えだ。
人生という舞台を生き抜いた者だけが持つ“真実の音色”を醸し出すのだが、
シュミットはこの歌声を、決して“劣化した遺産”として扱ったりしない。
むしろ、技術がかつてのように行き届かずも
芸術家という尊厳そのものを損なわぬよう、
ワンシーンワンシーンに甘美な夢さえ託して見守っている。
だが、これはシュミットがとらえた独断の現実である。
とくに、計算されたものなどなにもない。
レナート・ベルタのカメラがその瞬間を捉えるとき、
日常は老人たちの園をふと“舞台の余韻”へと変化させる。
このヴェルディの遺産に、音楽が絶えることがないのはそのためだ。
カーサ・ヴェルディの廊下や階段、壁の肖像画や写真、廊下を歩く姿。
これらはただの老人施設の記録なんかではない。
そこには、今なお、かつての芸術の残り香が脈々と漂い続けている。
これは『カンヌ映画通り』にも『書かれた顔』にも通底する美学で、
シュミットは常に、現実の中の“フィクションの影”を見わけてきた作家なのだ。
そして、芸術家とは、日常の中に“役”を纏い続けうる者であることを証明する。
“失われゆく芸の行方”とは?
このドキュメンタリーは、文化保存や歴史的使命感とは少し違う。
シュミットが撮りたいのは、もうすぐ消えてしまうかもしれないが
永遠の美の火花であり、年老いても枯れることのない音楽への愛と
その場でしか再現できない国宝級の残り香だ。
老いた身体、揺れる眼差し、過去を語るときの活き活きとした表情。
ふと歌い出す瞬間や視線、楽器の一音一音にかつての栄華が蘇る。
これらは、たとえ老いがもたらす“最後の輝き”であっても
何ら損なわれる気配がない。
そしてシュミットはその輝きを、劇的ではなく、静けさのうちにそっと残すのだ。
その意味で『トスカの接吻』は、“老いを祝福する映画”として見ることが出来る。
では、これはダニエル・シュミットによる老いの芸術論だろうか?
いや、それは、こう定義できるのではないだろうか?
芸術とは、若さや技巧ではなく、時間とともに継承される精神性であり
芸術家は老いてなお芸術家であり続けるという情熱そのものであり
その生の姿こそが、最終的な作品たりうるのだと。
その瞬間瞬間には、芸術の純粋な形が露になる貴重な記録として、
日常と舞台の境界が、夢と現実を彷徨いながらも
老いの摂理によって、緩やかにほどけていくのだ。
そこにこそ、真の美の宿命を感じないわけにはいかない。
『トスカの接吻』はその哲学を最も穏やかで、最も優しい形で提示してみせる。
歌声はもう往年のように響かなくともかまわない。
だが、いったん、歌い始めると、時間は一瞬にしてその時へと戻る。
そうした情景が、決して亡霊やまやかしではなく、
まぎれもなく、彼らの衝動に後押ししされ、
自ずと歌いたいという新たな舞台を見せてくれるのだから。
こんな風に歳をとりたいものだと誰しもが思う。
まだまだ捨てたものじゃないと感じるかもしれない。
さりとて、それはやはり彼らだけの特権であり、
彼らがかつて輝いていた芸術家としての勲章だ。
そう、老いという現実に飲み込まれながらも、
決して従順にその老いに従わないという永遠の躍動をもった魂たち。
「悲惨であるはずのものが嘘のような容易さで幸福のイメージを喚起する映画」
そう書いた蓮實重彦の言葉に、素直にうなづくしかないだろう。
ラストシーンで、幕の袖で主要歌手たちが往年のように喝采を浴びる演出。
そこにシュミットの愛を見る。
歌うという存在の矜持は、老いによってむしろ濃くなっていくのだ。
その姿を、シュミットはただ敬意と慈しみをもって写しとる。
それは、声そのもの以上に美しい“存在の証”なのだ。
Sara Scuderi Sings “Vissi D’Arte” From Puccini’s Tosca
普段、オペラなんてほぼ聴かないんだけど、この映画を見てオペラもいいなって思うようになった。プッチーニのオペラ『トスカ』より、若きサラ・スクデーリが歌う「Vissi D’Arte」。好きなものをとことん愛するっていいなあ。歳はほんと関係ないね。













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