小津安二郎『小早川家の秋』をめぐって
定番のドンゴロスバックに、 白と赤のグラフィックなタイトルバックで始まる、 変わらぬ安定の小津調と思いきや この『小早川家の秋』はホーム松竹ではなく アウェイの東宝作品である。 東宝のプロデューサー藤本真澄ら、たっての希望により 招聘された客人映画として 通常の小津作品には見ることのない、 ちょっとだけ異質な空気感を孕んでいる。
定番のドンゴロスバックに、 白と赤のグラフィックなタイトルバックで始まる、 変わらぬ安定の小津調と思いきや この『小早川家の秋』はホーム松竹ではなく アウェイの東宝作品である。 東宝のプロデューサー藤本真澄ら、たっての希望により 招聘された客人映画として 通常の小津作品には見ることのない、 ちょっとだけ異質な空気感を孕んでいる。
あくまでイメージに過ぎなかった「バベルの塔」を しっかりこの眼で拝むことが出来たのは 実にファンタスティックな出来事だったと言える。 それにしても一枚の絵がこれほどまでに壮大なロマンを持ち得ることに 改めて感動を覚えずにはいられない。 とりわけこの東京芸大プロジェクトによる 300%の復元版の風格は凄まじいものだった。 (高さ340cm立体版「バベルの塔」もあるのだ!) ボイマンス美術館所有の原寸「ブリューゲル版」とでは 印象がまるで違うのだ。 ブリューゲル版は鑑賞用という前に、 板に描かれた油絵を何百年もの間後生大事に それこそ腫れ物に触るように、神経をとがらせて保管されてきた代物だろうし、 サイズもさほど大きくなく1mにも満たない、 いうなれば室内展示用のものだ。
武満さんの凄さは、その精神の自由さ、 であると同時に、僕にとっては 美術やとりわけ映画への造詣の深さが半端じゃない人 という側面が大きい。 それは若くして出会った運命の人 詩人瀧口修造直系の影響をもろにこうむっているところからくる。
ダニエル・シュミットのドキュメンタリー映画『トスカの接吻』について書いてみよう。 初めて見た時の感動は忘れないのだけれど、 年齢を重ねてみる感慨はまた違うものだ。 同時にいろんなものが見えてくる。 人間は歳をとっても本質的に変わらないものだっていう、そんな見本がここにある。 いいんだわ、老人たちの顔がね、素晴らしいの。
さては今宵の月を見て、すでに100年以上も前 20世紀初頭に撮られたファンタジー、 ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』 HGウェルズの『月世界旅行最初の人間』に触発された 古典SFの傑作メリエスの『月世界旅行』を 月見のお供に鑑賞することにいたしましょう。
アンディ・ゴールズワージーは、 自然界にあるマテリアルを使って一期一会の作品を作り、 その場をまるごと写真に記録するアーティストである。 それはまるで、鳥や虫たちの営みのように、 おごりなき所作で作られる。 自然との対話=行為を作品とする人。まさに神の遣いだ。
そうして、時代は流れた。時代のせいだろうか?カントリーミュージックが心に染みる年代になってきた。 もともと、フォークやルーツミュージックはカントリーの流れにあったわけで、カントリーに魅了されるのは時間の問題だったわけだ。こうして冷静に考えれば、アメリカンルーツミュージックにはいい音楽、つまりはお宝がいっぱい詰まっているのだ。今更ながらにそう思う。そんな中で、カントリーミュージックを再評価しようと思ったのである。素朴、純朴でありながらも、なぜか沁みてくるメロディ。その音に魅せられている今、ようやく音楽とは何なのかがわかり始めた気がする。そう、音楽はジャンルなんかどうでも良いのだ。カントリーもロックも、クラシックもジャズも、全てが魂を揺さぶる全ての音楽こそがここにあるのだ。
オータムコタム、山から小僧がやってきて・・・ 芸術の秋、食欲の秋。 深まる秋にちなんで、ロピュマガジンは とりあえず、第二弾「秋特集」を打ち出したいと考えまする。 私はこの秋という季節からが本番、 かき入れ時と申しまししょうか、収穫期と申しましょうか。 なんといいますか、いよいよ持って調子が出てまいります。
オレの話を聞けっ。じゃなくて、オレの定番を聞いてみて、とおねだりするまでもなく、元から名盤ばかりだから、なにもここで声を張ってもしょうがないか。
個人的に随分と親しんで来たこのさかなについて書く、 あるいは語るとなると、なんだかとりとめもなくなってしまうはなぜだろう? その長い活動履歴、豊富なディスコグラフィといった量的な絶対性よりも、そぎ落とされた音、想像性に飛んだことばや非凡なメロディへのこだわり、 それらに呼応するかのような慎ましい活動や動向といった存在の本質的な部分が、 何にもまして魅力的なさかなの前には、しばしことばを失うのである。