ロピュマガジン【ろぐでなし】VOL9

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol9

昨年にわかに湧いて出た、あの「GO TO TRAVEL」キャンペーンは、
毎年冬に猛威を振るうウイルスたちの思惑通り、
どうやら皮肉にも「GO TO TROUBLE」として追いやられてしまった。
まだ、恩恵にあずかれていない自分からすると、
残念であるが、事態の深刻さはそこにはない。

さすれば、素直に籠城を決め込むか、と言われても
そう簡単に首を縦に振れぬのは、
根っからの旅好き、旅をなり割りとしている人たちはもちろん、
それをもてなす人々の希望さえ打ち砕く、
まさに死刑宣告のようなものなのかもしれないと思うからだ。
要するに、人間の行動や生活が、一方通行的に
管理され、束縛されることに合点がいかぬのである。

しかし、人間の人生そのものが、大きな旅だと考えれば
ここで、立ち止まって、もう一度自分自身の旅程を見つめる契機、
というのは、ありかもしれない。
こんな折だからこそ、である。
それは決して妥協でもなければ、手持ち無沙汰の戯言でもない。
立派な魂の洗濯、浄化となろう。

まあ、そんなことは言われなくとも昔からやってるさ、
と、まるでスナフキンのごとく、クールな賢人もいるだろう。
わかっているが、そんなことを考える時間がないんだよ、
と言う声もどこからともなく聞こえてくる。
が、多くの場合は、時間と社会のモラルの間に立って
どんどん自分を失ってゆく。
言うなれば、無自覚、無意識な自己虐待のままに
人生を終えてゆくのだ。
それを人は惰性と呼び、僕個人はそれに争い生きているのだ。

自覚ある者は、幸いだ。
まあ、せいぜい自分の王国の暴君となって、
快楽を満喫するがよい、などとまでは言わないが、
他人の目ばかりを気にして自己を顧みないよろはいい。
仮に、この宇宙の仕組みの反対勢力なのだと自覚するものならば、
まずは、自分というものありき、
そこからしか始まらない、という意味を咀嚼した上で、
瑣末なことで憎しみ合うよりは、
少々の暴君なら、許容しようではないか。

さすれば、自分とは何なのか?
WHO AM I?
それを尋ねられて即答できるものがどのぐらいいるのだろうか?
こんなことを書き進めている自分自身でさえ
時々自ら作った迷路の中で、右往左往するほどだ。
仮に、理路整然とことば巧みに説明したところで、
所詮他人には響かない。

だから、自分とは?
という答えそのものに惑わされてはいけないのだ。
自分はそう考える。
自分が自分らしくいられるという帰結そのもの以上のものはない。
それがあればいいのである。
つまりは、まずは、自分の存在価値に目を向けなけばならない。

しかし、時間という限りあるものの中で
何かを見いだし、常にそれを問い直して
自分自身に折り合いをつけていくことは
そう簡単なテーマでもなく、
死ぬまで続く日課のようなものである。

その意味で、自分探し、
自分というものが何なのか?
何をしたいのか、すべきなのか、
という原理原点の問いを
決して他者を巻き込まず、まずは自分事の最優先事項として
必然的に考えることに意味があるのだ。

そんなテーマを自然体で臨めるところまでいく為に
様々な角度から、自分とは何者かをめぐる考察に耽ってみよう。

内的マトリョーシカ、インナーヴィジョンの旅をめぐる考察

  1. 内的マトリョーシカ、インナーヴィジョンの誘惑〜ロピュ家の定番インナーヴィジョン、道連れセレクション
  2. カルトの正体ここにあり。郁馥たる詩人の血に献杯しよう・・・ホドロフスキー『エンドレス・ポエトリー』をめぐって
  3. アングラ教祖による自分探しの修司学・・・寺山修司『田園に死す』をめぐって
  4. さすらい道入門・・・ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』をめぐって
  5. 汚れた果てたアフロディテ、荒野に果てる・・・アニエス・ヴァルダ『冬の旅』をめぐって
  6. 荒野の狼はやがて夢見るアウトサイダーの泡となる・・・フレッド・ヘインズ『荒野の狼』をめぐって
  7. 音楽界の隠遁カラス、スコット・ウォーカーの歩みを振り返って見よう・・・スコット・ウォーカーを偲んで
  8. 地図をめぐる覚書〜素MAP、世界に一つだけのぼくをめぐって・・・中上健次『十九歳の地図』をめぐって
  9. 価値観反転モデルにハローと応えよう・・・ウィニー・ハーロウについて
  10. 生涯一保守、今こそこの人を見よ・・・西部邁を偲んで

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です