小沼勝『花芯の刺青 熟れた壺』をめぐって
そこで、名匠小沼勝の傑作と誉れ高き『花芯の刺青 熟れた壺』。 「壷」と書くだけで、何だか手が股間あたりでうろちょろするような、 そんな淫美な気配がしてくるのは、気のせいではありませぬ。 他にも『熟れた壺』いうんもあって、この小沼という人は、 実に男のツボ、というかエロのツボを押さえた作家なのである。 日活ロマンポルノのなかで、ひときわ道を極める匠である。
そこで、名匠小沼勝の傑作と誉れ高き『花芯の刺青 熟れた壺』。 「壷」と書くだけで、何だか手が股間あたりでうろちょろするような、 そんな淫美な気配がしてくるのは、気のせいではありませぬ。 他にも『熟れた壺』いうんもあって、この小沼という人は、 実に男のツボ、というかエロのツボを押さえた作家なのである。 日活ロマンポルノのなかで、ひときわ道を極める匠である。
ポルノだと思って見る人、みようとする人には 全くもって退屈極まりないに映画に違いない。 何も起きやしない。 いや、虚無のようなものが、無防備に突きつけられる。 それもそのはずで、70年代の空気を溶かし込んだ わけのわからない焦燥感に突き動かされる主人公たちの吐息が 官能よりも抒情的に網膜を突き抜ける。 そうしたフィルムのざらつきが今でも色褪せず この網膜越しに感じ取れるからだ。
田中登の『真夜中の妖精』を見終わった後に襲われる このなんともいえぬ余韻をどう説明していくべきか。 ロマンポルノという形態のなかに哀しく咲く 、 そして恐ろしくも、無垢なる狂気をはらんだ 大人のファンタジー、といっていいのだろうか。 不思議な感動を覚えているのだ。
こうしてみると『白い指の戯れ』での荒木一郎が、不思議と 『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドや 『俺たちに明日はない』ウォーレン・ベイティあたりの ちょいワル感がかい間見えてくるのだ。 普通に、ちょっと背を伸ばせば届くような加減がいい。 それにハマってゆく伊佐山ひろ子との絡みもバッチリだ。
“少女地獄”という響きが現代でも心を捉えるのか 度々アニメやドラマの題材になっていてびっくりするが 夢野久作〜小沼勝のラインに受けたような どうもそんな関心までは起きない。 やはり、随分と解釈の差を感じるのだ。 とはいうものの、今、夢野久作〜小沼勝を話題にしたところで 一体どの層がどんな風に食いつくのかなんて 全く想像ができないのだが。
曽根中生によるロマンポルノ 『わたしのSEX白書 絶頂度』について語る前に、 その充実した自伝書籍『曽根中生自伝 人は名のみの罪の深さよ』を手に、 読んでみるとこれがなかなか面白い。 曽根作品の解説が本人の口から聴けるのだ。
そんな小難しいことはさておき、日活ロマンポルノは わずか70分程度の尺の中に、一定のお色気を含むと言う規定以外は 実に自由で、奔放な映画作りの情熱に突き動かされた、 真の映画狂たちが集う実験の場でもあったのである。 その熱気は男と女の睦みごと以上に熱く、狂わしいものだ。
これがあの神代辰巳の世界であり、 たまたま日活ロマンポルノというだけのことで、 仮にポルノという称号のみで遠ざけられているとしたら それはあまりに哀しい現実だ。 切なすぎるではないか。 映画という名の情熱。 男と女の情熱。 かつてそれら思いを互いに求めあった結晶の産物。 映画好きなら見て損はない、赫の他人の睦みあい。 うーん、豊かな時代があったものだ。
春本番が来たら、改めて、春コレを書きたいのですが、 これは三月限定の、プレ春コレ盤セレクションであります。 自分としては、もう少し、冬を楽しみたいところがあります。 冬なんて大嫌いだって? まあまあ、その気持ちはわかりますが、 何事も、辛抱が肝心です。 その向こうに、素晴らしき開放感があるのですから。
アイスランドの三人の少女の映像から始まる冒頭。 それを「幸福の映像」と呼んでみるわけだが、 どうも他の映像にうまく馴染めそうもないと悟って、 マルケルはそこに黒い画面を挿入する。 そして、こう続ける。 「幸福がかいまみれなかったとしても、黒だけは見えるだろう」 この冒頭のカットをみて、僕は確信する、 少なくとも(表層にはびこる)嘘や欺瞞に出くわすことはないのだと。 まさに僕はこの詩的な感受性に胸踊らされてきたのである。