花芯の刺青 熟れた壺 1976 小沼勝映画・俳優

小沼勝『花芯の刺青 熟れた壺』をめぐって

そこで、名匠小沼勝の傑作と誉れ高き『花芯の刺青 熟れた壺』。 「壷」と書くだけで、何だか手が股間あたりでうろちょろするような、 そんな淫美な気配がしてくるのは、気のせいではありませぬ。 他にも『熟れた壺』いうんもあって、この小沼という人は、 実に男のツボ、というかエロのツボを押さえた作家なのである。 日活ロマンポルノのなかで、ひときわ道を極める匠である。

恋人たちは濡れた 1972 神代辰巳映画・俳優

神代辰巳『恋人たちは濡れた』をめぐって

ポルノだと思って見る人、みようとする人には 全くもって退屈極まりないに映画に違いない。 何も起きやしない。 いや、虚無のようなものが、無防備に突きつけられる。 それもそのはずで、70年代の空気を溶かし込んだ わけのわからない焦燥感に突き動かされる主人公たちの吐息が 官能よりも抒情的に網膜を突き抜ける。 そうしたフィルムのざらつきが今でも色褪せず この網膜越しに感じ取れるからだ。

白い指の戯れ 1972 村川透映画・俳優

村川透『白い指の戯れ』をめぐって

こうしてみると『白い指の戯れ』での荒木一郎が、不思議と 『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドや 『俺たちに明日はない』ウォーレン・ベイティあたりの ちょいワル感がかい間見えてくるのだ。 普通に、ちょっと背を伸ばせば届くような加減がいい。 それにハマってゆく伊佐山ひろ子との絡みもバッチリだ。

少女地獄 1977 日活 小沼勝文学・作家・本

小沼勝『少女地獄』をめぐって

“少女地獄”という響きが現代でも心を捉えるのか 度々アニメやドラマの題材になっていてびっくりするが 夢野久作〜小沼勝のラインに受けたような どうもそんな関心までは起きない。 やはり、随分と解釈の差を感じるのだ。 とはいうものの、今、夢野久作〜小沼勝を話題にしたところで 一体どの層がどんな風に食いつくのかなんて 全く想像ができないのだが。

赫い髪の女 1979 神代辰巳映画・俳優

神代辰巳『赫い髪の女』をめぐって 

これがあの神代辰巳の世界であり、 たまたま日活ロマンポルノというだけのことで、 仮にポルノという称号のみで遠ざけられているとしたら それはあまりに哀しい現実だ。 切なすぎるではないか。 映画という名の情熱。 男と女の情熱。 かつてそれら思いを互いに求めあった結晶の産物。 映画好きなら見て損はない、赫の他人の睦みあい。 うーん、豊かな時代があったものだ。

Sans Soreil 1983 Chris Maker映画・俳優

クリス・マルケル『サン・ソレイユ』をめぐって

アイスランドの三人の少女の映像から始まる冒頭。 それを「幸福の映像」と呼んでみるわけだが、 どうも他の映像にうまく馴染めそうもないと悟って、 マルケルはそこに黒い画面を挿入する。 そして、こう続ける。 「幸福がかいまみれなかったとしても、黒だけは見えるだろう」 この冒頭のカットをみて、僕は確信する、 少なくとも(表層にはびこる)嘘や欺瞞に出くわすことはないのだと。 まさに僕はこの詩的な感受性に胸踊らされてきたのである。