ジャン・コクトー『オルフェの遺言』をめぐって
コクトーは、かつて、映画を「詩人による最大の武器だ」と公言し サイレント『詩人の血』で映画作りに目覚めて以来 生涯に、6本の映画を手掛けているが、 最初から最後まで、自ら主演し裸の魂をさらしてみせたのは、 この『オルフェの遺言』のみだけである。
コクトーは、かつて、映画を「詩人による最大の武器だ」と公言し サイレント『詩人の血』で映画作りに目覚めて以来 生涯に、6本の映画を手掛けているが、 最初から最後まで、自ら主演し裸の魂をさらしてみせたのは、 この『オルフェの遺言』のみだけである。
そういう世界の愛おしさを、映画として創造したタチの偉大さを この『プレイタイム』は伝えてくる。 映画を見る幸福のあり方に、未来的な視座を持ち込んだ作家。 まさに、それは遊びの時間をともなって、優雅に、そして微笑ましく、 時空を超え、われわれを非日常に連れ出してくれるのだ。
ちなみに、エルトポとは、モグラのことである。 「モグラは穴を掘って太陽を探し、 時に地上へたどり着くが、 太陽を見たとたん目は光を失う」という冒頭の詩句で始まるが モグラとは、いうなれば愚かさの象徴の意味をもつが、 エル・トポは様々な体験を通じ、 ここではその愚かさを乗り越えてゆく神そのものなのである。
これは傑作だとか幻のムービーだとかいった 安直な言葉で片付けられない映画として記憶されるべきだ。 映画というものに、ひいては文明や資本主義社会への挑戦でもある。 その意味で、『ラストムービー』は 『イージー★ライダー』以上に重要な作品であり 以後デニスの運命を、よくもわるくも狂わせた作品として はっきり刻印しなければならない。 デニス・ホッパーにしか撮れない映画として。
冒頭、映画史を紐解いても、これ以上ないというほどの 実に蠱惑的なロングショットで幕を開ける、 オーソン・ウエルズの『黒い罠』は、掛け値無しで傑作だと思う。 だが、単なる傑作として終わらないのがオーソン・ウエルズの オーソン・ウエルズたる所以である。
かくして、ブコウスキー文学の不思議な清々しさ、 胸のすくような猥雑なざわめきが、 この『つめたく冷えた月』にも程よく溶け出しており、 どこか憎みきれない二人の中年男の哀愁の サイテーながらも、サイコーの幻影とともに酔いしれ そんな弛緩した瞬間に、ふと心地よさを覚えたりするのを 自覚するのである。
それにしても、いくら実際の体験から生まれているとはいえ、 ポランスキーのこうした強迫観念めいた演出は 実に恐ろしく、見事に引き込まれてしまう。 それは『反撥』『ローズマリーの赤ちゃん』にも十二分に発揮されていたが 『テナント』ではそれを見事に当人が演じることで よりリアルで逼迫した空気が張り詰めている。
最近とんと噂のないヴィンセント・ギャロのことを 朴訥に考えていた。 処女作『バファロー66』は三度観た。 はじめて観たとき、そのオフビートな笑いのセンスに ぼくは思わずニタニタしてしまった。 ギャロという男のなんともいえない哀愁と茶目っ気に 心を掴まれたからだった。
けれども、この映画のテーマは 実を言うと正義などと言う安っぽい、 と言うと語弊があるけれど、 そんな大義名分はさておき、 孤高に生きていてきた退役軍人としての心の傷、 人生の痛みや重みが 人種も年代も違う人間への真の友情として描かれ 奮い立って自身の天寿を全うしたこの老アメリカンの生き様に、 心打たれるのであった。
そこで、今回は、映画作りにおいて 監督兼俳優、ひとりでとりしきる孤高の映画作家を特集してみようと思う。 ひとよんで二刀流映画術。 むろん、映画など、とうていひとりでできるものではないし、 監督と俳優を兼ねるから、出来のいい映画が出来るわけでもない。 それがウリになるほど甘いものではないのだが、 うまくいけば、すべてその二刀流作家の勲章になり こければ、すべての責任が覆い被さってくる。 まさに自己責任である。