ジャン=ピエール・レオーをめぐって
それぞれの映画のなかで、彼、レオーをして、 たとえおいさらばえた老人になりはててしまったとしても、 その個性は、愛さずにはいられない、 永遠のヌ-ヴェル・ヴァーガ-としての いまだ、惜しみなき賛辞はやむことをしらない。
それぞれの映画のなかで、彼、レオーをして、 たとえおいさらばえた老人になりはててしまったとしても、 その個性は、愛さずにはいられない、 永遠のヌ-ヴェル・ヴァーガ-としての いまだ、惜しみなき賛辞はやむことをしらない。
なんといっても二十作品をも数える 増村作品での彼女の強度を持った眼差しの数々が、 とりもなおさず観たいのだ。 それら増村作品における若尾文子演じる代表的な「女」たち、 なかでも『妻を告白する』『夫はみた』『清作の妻』『刺青』『赤い天使』における、 彼女の生きざまには、ちょっと凄いまでの感動がある。 いやほんとうに、物凄く、凄い。
はじめてリュミエール兄弟の“動く画面”をみて、すなわちスクリーンの汽車を前に逃げまどった人々は圧倒的にただしかったとのだと、今なら堂々そう言える。というのも、だれもが作りごとには思えない映画というものがあるし、われわれは...
人であれ、ペットであれ、物であれ、ひとはなぜゆえにあれほどまでにその対象を偏愛してしまうのだろう? 通常の眼差しをわけもなく凌駕し、その対象へとのめり込むことの情熱。対象を語るということで滲み出してしまう偏愛への序章は、そのまま主体側の個としての資質、いわば重要な側面をすでに表出させているように思える。