曽根中生『わたしのSEX白書 絶頂度』をめぐって
曽根中生によるロマンポルノ 『わたしのSEX白書 絶頂度』について語る前に、 その充実した自伝書籍『曽根中生自伝 人は名のみの罪の深さよ』を手に、 読んでみるとこれがなかなか面白い。 曽根作品の解説が本人の口から聴けるのだ。
曽根中生によるロマンポルノ 『わたしのSEX白書 絶頂度』について語る前に、 その充実した自伝書籍『曽根中生自伝 人は名のみの罪の深さよ』を手に、 読んでみるとこれがなかなか面白い。 曽根作品の解説が本人の口から聴けるのだ。
これがあの神代辰巳の世界であり、 たまたま日活ロマンポルノというだけのことで、 仮にポルノという称号のみで遠ざけられているとしたら それはあまりに哀しい現実だ。 切なすぎるではないか。 映画という名の情熱。 男と女の情熱。 かつてそれら思いを互いに求めあった結晶の産物。 映画好きなら見て損はない、赫の他人の睦みあい。 うーん、豊かな時代があったものだ。
アイスランドの三人の少女の映像から始まる冒頭。 それを「幸福の映像」と呼んでみるわけだが、 どうも他の映像にうまく馴染めそうもないと悟って、 マルケルはそこに黒い画面を挿入する。 そして、こう続ける。 「幸福がかいまみれなかったとしても、黒だけは見えるだろう」 この冒頭のカットをみて、僕は確信する、 少なくとも(表層にはびこる)嘘や欺瞞に出くわすことはないのだと。 まさに僕はこの詩的な感受性に胸踊らされてきたのである。
しかし、この『1000年刻みの日時計』の特筆すべき素晴らしさは、 隠された真実(歴史)を丹念に、そして誠実に 時間をかけてあぶり出したその熱意にあるのだと思う。 方法論が、ドキュメンタリーであるか、フィクションであるかは この映画の本質ではないのだ。
ただ、かつて、我々日本人には、世界に誇れる映画作家がいた。 小津安二郎が描いた東京、ならびに美しい成果様式を持った 日本人の眼差しの意味を、この遠い異国の人間に教えられるのだ。 それはある意味、正しい自国への認識へのヒントであり、 貴重な眼差しなのである。
10年に一度しか撮れないのか、撮らないのか? 『みつばちのささやき』から10年後に『エル・スール』。 そのまた計ったように10年をかけ、 エリセが満をじして温めていた構想が テーマがかぶるということで、企画を断念せざるを得なかったのは 呪われた作家ゆえなのか? 幸い、そんな思慮深い作家が 気持あたらに手を伸ばしたもう一人の神秘があった。 スペイン美術を代表する画家アントニオ・ロペスである。
サンドリーヌが11人兄弟の7番目で、 しかも、精神を患う妹を抱えているという事実を、 この映画を機に、初めて知ることになるのだが、 やはり、この女優に、常々何か一本芯のある強さを感じてきたものとして その理由の一つに、なるほど、たどり着くことになる。 早熟にならざるを得なかった環境があり、 改めて思わずにいられないのだと。
この世でもっとも神聖、かつ記念すべきドキュメントが 出産劇であることに誰も文句などないところだろう。 最初にして最後、この一度限りの出来事がなければ そもそも生そのものがありえず、よって死もへったくれもない。 だが、そんな重大なセレモニーを記憶しづけることは 男がもっとも介入できない困難な領域にあるといっていい。 なぜなら、出産において、男は絶えず傍観者であり、 究極の他者であるからだ。
この映画は、この無邪気な精霊のように歩き回った老婆 小見山久美子さんに捧げられている。 この映画が完成したあと、あたかも使命を果たし終わったかのように 2015年に魂の故郷へと帰っていったのだという。 この映画を実際にみて、彼女の目には、どう映ったのだろうか? きっと案内しきれなかった場所をあれやこれやと思い浮かべて 次なる案内を楽しみにしていたのだろうか・・・ 本意ではない形で、切り離されてしまった我が息子への愛情の代価を この映画の中で、充足できたであろうか? 静かに寄せて返す波の音が、そんな彼女への鎮魂歌のようにも聞こえてくるのだった。
映画館の闇に座ってワープする異空間。 まるで17世紀スペイン黄金時代の絵画を彷彿とさせる佇まい。 網膜、鼓膜それぞれを刺激してくるザラザラとした質感。 画質、画面から伝わってくる何か。 物理的、あるいは精神的なノイズを感じる。 さりとてそれは美しく、詩的だ。 にしてもだ、久しぶりだ、この感覚。 この感性は只者じゃないのは直ぐにわかった。 ペドロ・コスタの問題作『ヴァンダの部屋』である。