佐藤真『阿賀に生きる』をめぐって
佐藤さんの映画というのは そうした映画作りの本質を鋭く暴き出していた。 『阿賀に生きる』という映画をみたときの衝撃は計り知れない。 それは決してアバンギャルドなものでもなく 何かしら、時代を意識させるような華々しいイコンに満ちているとか そうした娯楽性を重視したものではなく ただ、その地域に生きる人間の生の生活を丁寧に追い続けた 長年の記録が映し出されていたのである。
佐藤さんの映画というのは そうした映画作りの本質を鋭く暴き出していた。 『阿賀に生きる』という映画をみたときの衝撃は計り知れない。 それは決してアバンギャルドなものでもなく 何かしら、時代を意識させるような華々しいイコンに満ちているとか そうした娯楽性を重視したものではなく ただ、その地域に生きる人間の生の生活を丁寧に追い続けた 長年の記録が映し出されていたのである。
牛腸茂雄という、ちょっと変わった名前の写真家がいました。 「ごちょう」と読む珍しい名字ですね。 新潟に多いと聞きますが、当人は新潟県加茂市出身、 高校卒業後に上京し、桑沢デザイン研究所で、 あの武満徹なども在籍した実験工房のメンバーの一人だった 大辻清司に写真を学びます。 3歳から胸椎カリエスという奇病を患っていたがゆえに、 若くして他界されているのですが、 ありがたいことに、残された写真は 写真集『SELF & OTHERS』を通して 彼の人となりを朧げながらに見ることが出来ます。
それでも、これはビュル・オジエのデビュー作として、 その麗しきコケティシュな魅力に彩られた作品として 記憶されるべき映画である。 見ているうちに、その後のリヴェット作品の核にもつながる、 過剰なまでの演劇性、舞台志向の予兆が十分に垣間見れるのは貴重だ。 アイドル遊びに夢中になっている若き日のミューズの姿にひとまず乾杯しよう。 この馬鹿馬鹿しい虚像を演じつつも、 一足先のことを見据えているのが、したたかなアイドル達の眼差しなのだ。
『狼の時刻』という映画は これまで日本ではながらく未公開だった作品で、 (いちどテレビで放映されたらしいが) ある意味、ベルイマンらしい代表作の一本に 数えてもいいぐらいの傑作だというのに 不遇に眠っていたのはあまりにもったいない。
それにしてもドミニクの目ヂカラが半端なく凄い。 まるで、相手を射抜いて石にでもしかねないかのように強く鋭い。 バスタブでおとした石鹸を夫から手渡されるシーンをみよ。 それがどこかで悲劇に直結していると思うと、胸が締め付けられる。 だが、夫との視線で癒やされることは一度もない。 心の距離もまた、縮まることがない。 表情が緊張から解かれることがないのだ。 まるで手を離れた凧のように、離れてゆくばかりである。
そんなヴィスコンティ版 「白夜」においてのマストロヤンニは 別にちょいワルでも色男でもない。 夢想家というか、恋というものに ただ幻想をいだく純情な男を熱演している。 そこには、いささかも外連味もなく、 人としての魅力を最大限にスクリーンに滲ませるのである。 何よりも初々しいのだ。
思い返せば、『暗殺の森』では、主人公の少年時代に、 撃ち殺したと言う思い込みでトラウマを与えることになる 元牧師で男色家リーノを、 ブニュエルの『昼顔』では、見金歯の変態男マルセルといった、 その強烈な役どころが頭から離れない人物を演じている。 兎にも角にも一癖ある俳優である。
一番最初に映画を見だしたころ 不意にもゴダールの『勝手にしやがれ』に出会ってしまい、 いきなりガツンとやられてしまったのだった。 まだ映画のイロハも、人生のなんたるかも理解していない、 青二才、孤独で生意気な高校生のときだっただけに なおのこと、心に深く刺さったのものである。
そんな白のランニング姿がお似合いの 香港スターレスリー演じるヨディが たった1分でいいから時計を見ろと マギー・チャン演じるスーを口説くシーンから始まる。 なんとも小粋な始まり方である。 キャッチコピーにも使用された 「1960年4月16日3時1分前、君は僕といた。 この1分を忘れない。君とは“1分の友達”だ」 そうして二人の恋が始まってゆく。 これが王家衛ロマンティッシズムなのだ。
ヌーヴェル・ヴァーグのミューズ、といえば 颯爽と脳裏をかすめる一陣の風のような人。 その名はアンナ・カリーナ。 アンナ・カリーナはいわゆる大女優というほどの存在感を 一度だって醸し出しはしなかった。 それでもいつ思い返しても 麗しく、可憐で、愛おしさが募る。