映画・俳優

やさしい女 1969 ロベール・ブレッソン文学・作家・本

ドミニク・サンダスタイル『やさしい女』の場合

それにしてもドミニクの目ヂカラが半端なく凄い。 まるで、相手を射抜いて石にでもしかねないかのように強く鋭い。 バスタブでおとした石鹸を夫から手渡されるシーンをみよ。 それがどこかで悲劇に直結していると思うと、胸が締め付けられる。 だが、夫との視線で癒やされることは一度もない。 心の距離もまた、縮まることがない。 表情が緊張から解かれることがないのだ。 まるで手を離れた凧のように、離れてゆくばかりである。

白夜 1957 ルキーノ・ヴィスコンティ文学・作家・本

マルチェロ・マストロヤンニスタイル『白夜』の場合

そんなヴィスコンティ版 「白夜」においてのマストロヤンニは 別にちょいワルでも色男でもない。 夢想家というか、恋というものに ただ幻想をいだく純情な男を熱演している。 そこには、いささかも外連味もなく、 人としての魅力を最大限にスクリーンに滲ませるのである。 何よりも初々しいのだ。

ベルトルッチの分身 1968 ベルナルド・ベルトルッチ映画・俳優

ピエール・クレマンティスタイル『ベルトルッチの分身』の場合

思い返せば、『暗殺の森』では、主人公の少年時代に、 撃ち殺したと言う思い込みでトラウマを与えることになる 元牧師で男色家リーノを、 ブニュエルの『昼顔』では、見金歯の変態男マルセルといった、 その強烈な役どころが頭から離れない人物を演じている。 兎にも角にも一癖ある俳優である。

『À bout de souffle』1959 ジャン=リュック・ゴダール映画・俳優

ジーン・セバーグスタイル『勝手にしやがれ』の場合

一番最初に映画を見だしたころ 不意にもゴダールの『勝手にしやがれ』に出会ってしまい、 いきなりガツンとやられてしまったのだった。 まだ映画のイロハも、人生のなんたるかも理解していない、 青二才、孤独で生意気な高校生のときだっただけに なおのこと、心に深く刺さったのものである。

『欲望の翼』1992 王家衛映画・俳優

レスリー・チャンスタイル『欲望の翼』の場合

そんな白のランニング姿がお似合いの 香港スターレスリー演じるヨディが たった1分でいいから時計を見ろと マギー・チャン演じるスーを口説くシーンから始まる。 なんとも小粋な始まり方である。 キャッチコピーにも使用された 「1960年4月16日3時1分前、君は僕といた。 この1分を忘れない。君とは“1分の友達”だ」 そうして二人の恋が始まってゆく。 これが王家衛ロマンティッシズムなのだ。

L'Avventura (1960) Michelangelo Antonioni映画・俳優

モニカ・ヴィッティスタイル『情事』の場合

主演のモニカ・ヴィッティも想像以上に素晴らしい。 我が目に狂い無し。 さすがはアントニオーニのミューズだっただけのことはある。 レネの『二十四時間の情事』の雰囲気を漂わせながら 同じスタッフを兼ねているのが、 サシャ・ヴィエルニーのカメラワーク、 ジョバンニ・フスコのスコア。 どちらも職人気質ゆえの見事さ。 いわゆる傑作と言われるだけの作品に仕上がっている。

暗殺の森 1970 ベルナルド・ベルトルッチ映画・俳優

ジャン=ルイ・トランティニャンスタイル『暗殺の森』の場合

原作はモラヴィアの『孤独な青年』だが、 映画も小説も、原題からすれば『順応主義者』と訳されるべきところを ニュアンスに誤差が生じている。 冷静にとらえ直した際には、明らかになるわけだが 本編は『順応主義者たる孤独な青年が、森の中の暗殺に立ち会う』話であり、 ファシズムの終焉とともに、少年期のトラウマによって苦しみ行き着いた、 ファシスト足らんとするその人生の幻想が、無化されてしまうのだ。 つまりは心理的ファシズムからの解放を意味する幕切れである。

NINOTCHIKA 1939 ERNST LUBICH映画・俳優

グレタ・ガルボスタイル『ニノチカ』の場合

元祖ツンデレ女優?と言うべきか、 伝説のハリウッド女優であるあのグレタ・ガルボが笑ったのである。 「私は一人でいたい。ただ一人でいたいだけ」という 『グランド・ホテル』での名台詞に要約されるように 生涯人間嫌いで通ったこの伝説の女優が、 労働階級者たちが集うレストランで、 メルヴィン・ダグラス演じる色男、 ダルグー伯爵の涙ぐましいまでに気を惹こうとくりひろげる小噺を前に それまでまったく冷淡だったガルボが、 いわば相手の思わぬずっこけぶりに、労働者たちにまざって 堰を切ったかのように大いに笑い転げるシーンが なんととも感動的で大好きなシーンだ。