田中登『真夜中の妖精』をめぐって
田中登の『真夜中の妖精』を見終わった後に襲われる このなんともいえぬ余韻をどう説明していくべきか。 ロマンポルノという形態のなかに哀しく咲く 、 そして恐ろしくも、無垢なる狂気をはらんだ 大人のファンタジー、といっていいのだろうか。 不思議な感動を覚えているのだ。
田中登の『真夜中の妖精』を見終わった後に襲われる このなんともいえぬ余韻をどう説明していくべきか。 ロマンポルノという形態のなかに哀しく咲く 、 そして恐ろしくも、無垢なる狂気をはらんだ 大人のファンタジー、といっていいのだろうか。 不思議な感動を覚えているのだ。
こうしてみると『白い指の戯れ』での荒木一郎が、不思議と 『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドや 『俺たちに明日はない』ウォーレン・ベイティあたりの ちょいワル感がかい間見えてくるのだ。 普通に、ちょっと背を伸ばせば届くような加減がいい。 それにハマってゆく伊佐山ひろ子との絡みもバッチリだ。
“少女地獄”という響きが現代でも心を捉えるのか 度々アニメやドラマの題材になっていてびっくりするが 夢野久作〜小沼勝のラインに受けたような どうもそんな関心までは起きない。 やはり、随分と解釈の差を感じるのだ。 とはいうものの、今、夢野久作〜小沼勝を話題にしたところで 一体どの層がどんな風に食いつくのかなんて 全く想像ができないのだが。
曽根中生によるロマンポルノ 『わたしのSEX白書 絶頂度』について語る前に、 その充実した自伝書籍『曽根中生自伝 人は名のみの罪の深さよ』を手に、 読んでみるとこれがなかなか面白い。 曽根作品の解説が本人の口から聴けるのだ。
これがあの神代辰巳の世界であり、 たまたま日活ロマンポルノというだけのことで、 仮にポルノという称号のみで遠ざけられているとしたら それはあまりに哀しい現実だ。 切なすぎるではないか。 映画という名の情熱。 男と女の情熱。 かつてそれら思いを互いに求めあった結晶の産物。 映画好きなら見て損はない、赫の他人の睦みあい。 うーん、豊かな時代があったものだ。
アイスランドの三人の少女の映像から始まる冒頭。 それを「幸福の映像」と呼んでみるわけだが、 どうも他の映像にうまく馴染めそうもないと悟って、 マルケルはそこに黒い画面を挿入する。 そして、こう続ける。 「幸福がかいまみれなかったとしても、黒だけは見えるだろう」 この冒頭のカットをみて、僕は確信する、 少なくとも(表層にはびこる)嘘や欺瞞に出くわすことはないのだと。 まさに僕はこの詩的な感受性に胸踊らされてきたのである。
しかし、この『1000年刻みの日時計』の特筆すべき素晴らしさは、 隠された真実(歴史)を丹念に、そして誠実に 時間をかけてあぶり出したその熱意にあるのだと思う。 方法論が、ドキュメンタリーであるか、フィクションであるかは この映画の本質ではないのだ。
ただ、かつて、我々日本人には、世界に誇れる映画作家がいた。 小津安二郎が描いた東京、ならびに美しい成果様式を持った 日本人の眼差しの意味を、この遠い異国の人間に教えられるのだ。 それはある意味、正しい自国への認識へのヒントであり、 貴重な眼差しなのである。
10年に一度しか撮れないのか、撮らないのか? 『みつばちのささやき』から10年後に『エル・スール』。 そのまた計ったように10年をかけ、 エリセが満をじして温めていた構想が テーマがかぶるということで、企画を断念せざるを得なかったのは 呪われた作家ゆえなのか? 幸い、そんな思慮深い作家が 気持あたらに手を伸ばしたもう一人の神秘があった。 スペイン美術を代表する画家アントニオ・ロペスである。
サンドリーヌが11人兄弟の7番目で、 しかも、精神を患う妹を抱えているという事実を、 この映画を機に、初めて知ることになるのだが、 やはり、この女優に、常々何か一本芯のある強さを感じてきたものとして その理由の一つに、なるほど、たどり着くことになる。 早熟にならざるを得なかった環境があり、 改めて思わずにいられないのだと。