ハラハラドキドキ、世にも優雅な大女優のくたびれ感
永遠の処女、あるいは、
日本映画界伝説の美女といえば原節子。
その名は不動であろう。
原節子といえば小津安二郎である。
風の噂では、小津監督は原さんを秘かに慕っていながら、
告白などという男と女のメロドラマには無縁の、
プラトニックな大人の恋心を、
最後まで胸にしまい込んで、
独身で通したということになっている。
この伝説の女優もまた、恋などという幻想に背を向けて、
いわゆる世俗の喧騒からもはなれて、
会田昌江その人として、
鎌倉の地に百歳近くまで隠居し、
謎に包まれたまま生を全うしたことだけが知られている。
結局この二人が交わしたのは、
映画という亜空間での、
疑似恋愛の空気だけだったのかもしれない。
奇しくも、小津監督の没日(同時に誕生日)を機に、
表舞台から身を引いたとされているが
ふたりの内情など、誰にもわからないし、
まして、半世紀以上も前の映画監督と、
当代きっての大女優の関係など今更知るよしもない。
謎は謎であって、映画は映画である。
それでいいのだ。
くだらない芸能ニュースが跋扈する現代からは
考えもできない美談として、
そこは永遠に語り継がれて行けばいい。
では、ここから本題へ移ろう。
小津vs原節子でいうと、
主に父と娘、母と娘、といった関係を演じたが、
その最たる『東京物語』の戦争未亡人紀子さんを
思い起こさないわけにはいかないところだが、
映画として簡単に語りつくせないほどの、
日本映画史上における代表作ではあるにもかかわらず、
少なくとも、女優原節子にだけスポットを当て
わざわざ語る気になどなれない。
おそれ多いというべきか、
言葉にするのが少々野暮のように感じられる、
そんな女優であるからだ。
あれほどまでのスターが、
まだまだ余力を持て余しながら、
惜しまれつつ銀幕を離れたとはいえ、
この伝説女優をそうした好奇な目でみることに、
さほど意味を見いだせないからである。
とはいえ、この女優をどうにか語りたい。
黒澤明の『白痴』における亀田が、
原節子演じる那須妙子のポスターにうっとり魅入られたごとく、
やはり、語らずはいられないオーラがあるのだ。
だから、ここで語るのは、
映画館の闇に乗じて交わされる、
あの眼差しにひめられた、
映画的な磁力に向かうしかない絶対的服従とは別の、
一種の世迷いごとを唱えるしかないかもしれない。
その中でも、もっとも特異な女といえば、
先に少し触れた『白痴』での那須妙子ではないかと思うのだが、
あれは数あるフィルモグラフィの中でも異質な役柄であった。
ここではこれ以上言及するに及ばない。
肩入れしたいのは、むしろ、
成瀬巳喜男作品での原節子である。
『めし』『山の音』『驟雨』『娘・妻・母』の4本が、
そのフィルモグラフィに残されているが、
『娘・妻・母』を除けば、
いずれも、倦怠期の夫婦関係における
平凡な主婦の内情を、小津映画ではみられない、
哀愁を帯びた生活臭を漂わせながら、
演じてみせた原節子が、どうにもいじらしいのだ。
なかでも林芙美子原作の『めし』における、
美男美女夫婦にすこぶる食指が動く。
上原謙に原節子、当代きっての美男美女カップルに、
現実味などどこにもないくせに、
我々庶民の傍で愛想笑いを浮かべている。
林芙美子の描く情感から察すると、
そのキャンスティングに疑問を感じなくもないが、
(プロデューサー藤本真澄の算段が伺い知れるわけだが)
そこはさておき、
天下の原節子が、東京から出てきた姪との間に、
ちょっとした嫉妬まで抱き、
日頃の不満がつもりつもって実家に帰ってしまうという、
そんな困った妻を演じているのである。
この微妙な女の心理の綾を、
成瀬の演出の妙だったにせよ、
生涯誰の元にも嫁ぐことなど無縁であった原さんが
みごとに演じきった女優の貫禄ぶりを、
受け止めないわけにはいられないのである。
どこか凛としたなかに、女の業を漂わせても
けして品性を失わない女優など、そうはいないと思う。
いや、原節子を除いて、誰一人そんな資格を持ち合わせてはいまい。
『めし』の舞台は大阪、天下茶屋である。
ただでさえ、ざわざわした生活臭が立ち上る場所を、
スタジオにあの見事な長屋セットとして再現した、
美術監督中古智氏の技量もさることながら、
この映画には、成瀬巳喜男ならではのエッセンスが、
随所にしたためられているように思う。
物売りの声、生活の匂い、
大阪の風景描写もふんだんに取り入れ、
まさに、林芙美子の世界観が凝縮されているのだ。
成瀬巳喜男はそうした林芙美子の世界に、
よほど親しみを寄せたとみえ
主に脚本家水木洋子とのコンビで、
かなりの作品を映画化している。
(残念ながら『めし』は水木洋子ではないが)
それらはおおむね、生活というものに疲れ、
日常の喧騒のなかに生じる男と女のすれ違い、
人間と人間の醸すあわれみのようなものを
さりげない演出と情感で描くことに徹し
概ね成功している。
そんな世界観に、堂々あの原節子がいて、
あの上原謙と共に、あたかもどこにでもいるような夫婦の倦怠を覗かせて、
犬も食わぬ夫婦喧嘩のまねごとを演じてみせることの怪しさ。
この映画としての亜空間に、
思わず惹き寄せられずにはいられないのだ。
それはけして小津映画のような、
品行方正な知性などではなく、
手あかにまみれた人間の哀愁が
偽りの品性として、かくも優雅に横たわっているのだ。
この作品は大きな興行的成功を収めたこともあり
おそらく二匹目のどじょうを狙ったのか、
二年後の53年には同じような題材で
『夫婦』『妻』が制作されている。
『夫婦』では高峰美枝子が
『妻』では杉洋子がそれぞれ妻役を演じているが、
やはり原節子のような風格は見る影が無い。
むろん、それもそれでまた見所のある作品であり、
どちらも捨てがたい佳作には違いないが
『めし』の前の原節子と比べればどこか物足りなさは否めない。
未完で終わった原作に対し、
映画版では、原節子自身のナレーションで
次にように〆て終わる。
私のそばに夫がいる。目をつぶっている平凡なその横顔。生活の川に泳ぎ疲れて、漂って、しかもなお戦って、泳ぎ続けている一人の男。その男のそばに寄り添って、その男と一緒に幸福を求めながら生きてゆくことが、そのことは、私の本当の幸福かもしれない。幸福とは、女の幸福とは、そんなものではないのだろうか?
『めし』脚本田中澄江 より
二人の間に生じた溝をめぐって
東京の実家に舞い戻った原節子を訪ねてくる上原謙と
ふとしたきっかけで仲直りをし、
再び大阪へ帰阪する車中のシーンだ。
三千代は初之輔に書いた手紙を結局、窓から破り捨てる。
その横で、夫はまた以前のような姿で疲れ惚けて眠っているが、
妻はその時すでに、覚悟を決めて、
生活そのものを受け入れるだけの境地に至ってIる。
不本意ではあるが、それはそれで、女の幸せとは
所詮そんなものだという諦めの境地が、
この大女優のくたびれ顔に
一筋の光を照らすなんとも感慨深いシーンなのである。
文学では味わえない、なんとも贅沢な瞬間をもつ
この映画版『めし』がいまだに大好きなのである。
Carla Bley – Dining Alone
近頃ではボッチめしなどといって、ひとりご飯にもそれなりのステイタスがあるのだが、ひとりの食事はなにかと寂しいものである。まして、結婚していて、食事が別々となるともっと深刻である。
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