『デヴィッド・リンチ:アートライフ』をめぐって

ジョン・グエン デヴィッド・リンチ:アートライフ
ジョン・グエン デヴィッド・リンチ:アートライフ

搔く、擦る、貼る、擲る。デヴィッド・リンチを偲ぶ

カルトの帝王こと、デヴィッド・リンチが亡くなって、
日に日にその喪失感が募るばかり。
同じデヴィッド同士、大の喫煙家ホックニーが未だ健在なだけに
それより9歳も若いリンチが愛し続けた紫煙には
少々悪夢が強く効きすぎたのかもしれない。
改めて、作品を通して、いろいろリンチに思いをはせてみるのだが、
その作品の持つ奥行きの沼にはまってしまった人間なら
だれもが、その頭の中の一度は覗いてみたくなる、
そんな魅力的なこのアーティストの死に際しては言葉が見つからない。
この一つの時代の終わりをもって、ここに、静かにみつめてみようと思う。

正直に告白すると、リンチには特別の感情を抱いてはいるものの
リンチの映画に関しては、ずばり肌にあう、というほどに、
強い思い入れがあるわけでもない。
なにかが少しだけ、ずれている感覚さえもっている。
そもそも、どこまで理解が及んでいるのかさえわからないぐらいだ。
なにしろ、一番好きな作品はと聞かれれば
一番ノーマルでヒューマンな『ストレイト・ストーリー』だったりするし
無論、『イレーザーヘッド』も『マルホランド・ドライブ』も『ツインピークス』も
あるいは『ワイルド・アット・ハート』も『ロスト・ハイウェイ』も
どれも、こうして今なお、頭から離れずにいるし、
それについて話出せば、つい饒舌になってしまうのは目に見えている。
ただ、映画という括りを度外しすれば
むしろ、絵の方が遥に馴染みやすいのだ。
そもそも、リンチほど、自分の作品の解釈に慎重、
というか、ミスティフィカシオンな態度をつらぬき、
作品を語らないという印象の強いクリエーターもいまい。

映画は、かねがね意味や物語に収斂されてしまうメディアだ。
ひとたびその謎を考えあぐねてしまうと、ひたすら迷宮に誘われ
出口がなくなってしまうところがある。
それは映画の醍醐味でもあるが、
まさに、デヴィッド・リンチの才能は、アート界の大いなる謎だ。
リンチにすれば、そんなことは知ったこっちゃないだろうが
そこがまた、リンチの魅力だというのは皮肉だ。
その分、考察すればするほどに
自己解釈ゆえの快楽をともなうというのはあるかもしれない。
ただ闇雲にミーハー的に解釈するには、あまりに謎が多い。

その点、絵画はもっと自由な存在であり、
正直、意味などわからなくても成り立つ、という意味では
我が隣人画家リンチに、並々ならぬ親近感をいだいている。
まずはその絵の前に立ってみよう。眺めてみよう。
問答無用だ。
リンチの絵の特徴は、その奇妙な対象と絵の質感だと思う。
絵を描くというよりは、絵を作り込み、そこで世界を創造する
いうなれば、映画のミニチュア版、そんな感覚が見受けられるのだ。
そもそも、リンチと言う人は、
絵画に自分へ評価の対象を求めていたとは思わない。
人によっては、美術的価値すらも否定する場合があるぐらいだ。
リンチの絵画は、まさにリンチの生活の一部として機能しているのだから
美術的価値など、所詮幻想でいいのかもしれない。

ところで、そのシュールで独特の絵をみたとき、
ぼくは真っ先に、フランシス・ベイコンのいくつかの絵を思い浮かべた。
たんに、風変わりな趣向というだけでなく、
どこか、屈折した内省的感性を読み取ったからである。
そこは欲望がむりくりに押し込められ滲んだ世界であり、
深層心理レベルに、相当傷を負っているというか、
おそろしくも深い地続きの闇を感じたものだ。
それがはたしてどこから来るのか、気になってしょうがなかった。
映画同様、そこに情感をともなって、その世界に惹きこまれていった。
逆に、リンチの映画ファンの中には、リンチの絵の方がわかりにくい
映画以上に、距離を感じるものもいるかもしれない。

リンチという名は、いうまでもなく、映画界で異彩を放つ存在であり、
その名前が指し示すものは、ただの映画監督の域にとどまらないほど
自由で、そしてジャンルも多岐にわたる。
映画だけでなく、映像、絵画、音楽はもちろん、
さらには哲学的な領域にもその影響を広げてきた、
いわば多面的なマルチアーティストである。
特にその絵画には、彼の内面と向き合わせる
ひずんだ「人間性」が物理的に反映されており、
映画と同じく、彼の心の深層を知るための
重要な鍵を握っているようなものばかりだ。
リンチの芸術は、純粋な表現の形というよりは、
彼自身の精神的探求と、絶え間ない不安感との対話だと捉えることができる。

そこで、『デヴィッド・リンチ:アートライフ』というドキュメンタリーを見た。
彼の絵画と共に、彼の人間としての側面に迫る貴重な記録となっている。
このドキュメンタリーを一つの手がかりに、リンチがどのような人間として育ち、
どのようにして、自身の内面と向き合ってきたのかに触れてみよう。

リンチの作品において最も顕著なテーマのひとつは、
脅迫観念に近い情緒的不安である。
映画における人物たちは、しばしばその不安感が高じ、
社会との断絶を感じる存在であり、
その感覚というのが彼自身の人生経験から来ている様な気がするが
実を言うと、『デヴィッド・リンチ:アートライフ』では、
リンチ自身の声による回想には基づいているとはいえ、
諸々の秘密を紐解くほどのヒントはさしてみあたらない。
悪く言えばあたりさわりのない映画である。

たとえば、リンチにとってのアートが
ロバート・ヘンライの『アート・スピリット』が
リンチゲイジュツの始まりとして、一つの指南となっているのは窺い知れる。
アートの哲学と自己表現に対する深い影響を与え、
リンチの映画や絵画における直感的なアプローチ、感情的な真実の追求に
影響を及ぼしたとされる書籍、この『アート・スピリット』の中で、
ヘンライはアートを社会との深い関わりを持つものであると捉えており、
そうした意識は少なからず、思春期を迎えたリンチの中にも芽生えていく。
だが、リンチは子供時代から恵まれた家庭に育ち、
大いなる愛情を受けて、幸福な青春を過ごしてきたかのように見える。
家庭内の不安定さや社会との疎外感が、
彼の心に深い影響を与えたとは、あまり思えない。
彼が絵画や映画を通じて、その不安部分を表現してきたことは、
同時にリンチワールドが、どれほど個人的なものであるかを
物語っているにすぎない。

リンチは、絵を描くことを「自分の内面を探る手段」として捉えており、
その作品が彼をいかに自分と向き合わせ、
表出するすべてが、不安の先にある何かを反映しているように思える。
彼はそこで幸福な芸術家のスタイルを宿しながら、
相反する世界感を日々創造してゆく。
その絵は、しばしば夢と現実が交錯する空間を描き出し、
そこに潜む負の感情を視覚的に表現しているのだとしても、
その中で彼が描きだしてきた不気味な創造物は、
単なる絵画の中のキャラクターではなく、彼自身の心象を具現化した存在であり、
彼の内面的な葛藤を見つめる鏡である以上のこと以外、何ももわからない。

リンチの家庭環境は、確かに彼の芸術に大きな影響を与えた要素であろう。
母親からの愛情は、まさしくリンチにとって居心地の良いものであり、
父親との関係にも、特別な軋轢もなく、彼は自分の思い描く人生へと進んでいる。
その影響が彼の人間性や芸術にどのように反映されたかを語る場面がある。
ドキュメンタリーの最後の方で、その父親から映画を諦めるように促され
その不理解を嘆き悲しんだという告白があったが、
それとて、別段特筆すべきエピソードというものでもあるまい。
『アートライフ』の中で、彼は自分の家族に対する感情や、
ある側面では、リンチの深層心理までをたとどれば
なにか、創造の源泉に出くわすのかも知れない。

そういえば、映画には父性というテーマがしばしば登場する。
『イレーザーヘッド』は、まさに父親になる男の不安感が描き出され、
『ツイン・ピークス』におけるドナと父親との関係や、
『ブルーベルベット』での父親像など、
父親像の不安定さや崩壊を描き出している作品もある。
絵画でも、リンチは父親という存在を超えた
「父性」の象徴的な表現に挑戦している。
彼の絵画における人物や風景は、時に父性の欠如を表し、
無意識的にその空白を埋めようとする試みとして現れることがある。
はたして、この「父親不在の空間」が、リンチの作品全体における
根底的なテーマのひとつになりうるのだろうか?
残念ながら、そういうテーマで掘り下げてみても、
何かしらのリンチの謎の解決に導く自信はない。

彼の絵画における不安定で歪んだ空間は、
単なる装飾的なものではなく、
精神的な苦悩や内面的な葛藤を具現化したものだと見るのは自然である。
とはいえ、リンチの映画における暗い映像や不安定な人物像が、
彼の絵画でも再現されているのは、自身の内面に何があるのかという問題と
直接に結びついてはいない。
それを芸術に昇華することで解放しようとした痕跡はあるが、
絵を通じて感情の浄化を求め、無意識の世界に向き合い続けたリンチの姿勢は、
非常に人間的であり、また彼の芸術の深い部分を理解するための鍵にすぎない。

リンチは、絵画や映画において、
直感を最も重要視しているアーティストだというのはよくわかる。
『アートライフ』では、彼がどのように直感に従い、
自分の内面と向き合わせるかがおぼろげに語られている。
彼は「計画を立てて創作するのではなく、ただ手を動かすことが重要だ」と語り、
その直感的なアプローチによって、
彼の作品における即興性や実験性を生み出していることが理解できる。
彼が絵描きになりたかったのは、
たまたま友人の父親が絵描きで、アトリエをもっていたという偶然なのだ。
あるいは、若き日に読んだヘンライの『アート・スピリット』からの影響だろうか?
リンチの絵画における抽象的な要素や、
映画の中で繰り返される悪夢のようなシーンは、
すべて彼の直感的な発想から生まれたものばかりである。

直感を信じることで、リンチは自分自身と向き合い、
無意識的な世界との対話を続けてきたアーティストだ。
そのことは、彼の作品における「無意識」や「夢」というテーマに反映されているし
この直感的なアプローチこそは、
リンチにとって、生涯くずさなかった芸術のカタチであり。
その対話を通じて自らを解放し、理解しようとしたのは間違いない。

リンチの本質は、彼の作品を通じて
彼の人間性を感じ取ることからしから始まらないが、
その芸術を偲び、彼がどれほど自己の感情や無意識に
真摯に向き合わせてきたかを理解することとは別なのだ。
リンチというアーティストは、決して孤独で終わることなく、
その芸術を通じて深い自己探求を続け、
今なお終わりにない問いを投げかけてくる永遠の謎なのだ。

リンチをめぐるいくつかの楽曲について

リンチと言う人は、映画や絵と平行し、常に音楽にも深い愛情を持ち、
みずからアンテナを掲げ、音響を手がけ、
さらにはギターを持って歌うミュージシャンであった。
彼の音楽へのアプローチは、映画の映像やテーマと同じく非常にユニークで、
しばしば実験的で感覚的な要素が強い。
リンチ自身が手がけた音楽やPVは、
その芸術的な個性が色濃く反映されており、映画と同じように、
視覚と音の融合を目指した作品を多数残している。

以下に、リンチに関わる代表的な10曲を、
彼の音楽的なアプローチや映画的な視点も交えながら
オマージュとして考察してみたい。
これらの曲は、リンチがどのように音楽と映画を融合させ、
どのように彼自身の視覚的・感覚的な世界を、
音楽を通じて表現したのかを知る手がかりにもなるはずだ。

1. “In heaven” – Eraserhead: (1976)

「イレーザーヘッド」における、リンチがこだわりを見せた、終始切れ間のないインダストリアルな音響には、最初からおどろかされたのだが、それ以上に、インパクトがあったのは、この不気味で癖になるようなキャラクターの出現と、ラジエーターガールの歌うこの曲だ。優しくも不穏なメロディ、そして「天国」という理想と現実との不一致が、映画全体の暗く不安な雰囲気を反映し、我々に強い感情的な印象を与えている。映画のテーマにおける「不安」の感情を、音楽と映像でどのように強化するかを示す一つの例だが、ここに何かの意味を見いだすのは難しい。

2. “Twin Peaks Theme” – Angelo Badalamenti(1992)

リンチといえば、まずは『ツイン・ピークス』。社会現象にまでになったというから、そのテーマ曲はもはや説明不要だろう。映画の中で描かれる壮大な世界観にもぴったりと合致している。アンジェロ・バダラメンティとは、『ブルー・ヴェルヴェット』以来のコンビで、リンチ自身の音楽趣味にはない、いわゆる普遍性や大衆性を兼ね備えたこの曲は、『ツイン・ピークス』ファンにとっては忘れがたい記憶を刻印していることだろう。

3. “Wicked Game” – Chris Isaak(1989)

リンチが監督した最も有名なミュージックビデオの一つが、クリス・アイザックのこの「Wicked Game」だろう。まだ、PVがPVらしく音楽に寄り添っていた時代の懐かしさが漂う。リンチの映画的なスタイルが色濃く反映された作品であり、視覚的に非常に印象的なビデオだ。映像は、エロティックで夢幻的な雰囲気を漂わせ、荒野での恋愛の葛藤や感情の揺れを描いた楽曲である。リンチらしい抽象的で感情的な表現が、楽曲のメロディと見事にシンクロしている。

4.Nine Inch Nails – Came Back Haunted(2011)

待ってましたのNINとの絡み。リンチ監督の大ファンを公言しているトレント・レズナーは、「ロスト・ハイウェイ」(1997)に楽曲を提供していたが、ここでは、リンチワールド全開のPVに、これまたリンチ好みのインダストリアルでダークでタイトなエレクトリックな楽曲が見事に呼応し合っている。

5. “Pink Western Range” – from 『BlueBOB 』(2001)

リンチの音楽的な旅の始まりを示すデビュー・アルバム『BlueBOB』は、ジョン・ネヴィルとのコラボレーションで、ブルースインダストリアル、そしてゴスの影響が色濃く感じられる。歪んだギター、インダストリアルノイズ、機械のようなリズム。最初から最後まで、まさにリンチ好みのインディーロックが展開されている。この抜け出せない不安感。そして内省的な底なしのメランコリア。十分一本の映画に匹敵する世界観が漂っている。

6. I’m Waiting Here” – David Lynch & Lykke Li

これまた『BlueBOB』に、ボーナストラックとして収録された一曲「I’m Waiting Here」は、リンチも絶賛するスウェーデンのシンガーソングライター、リッキ・リーをフィーチャーした曲で、その空気感は他と一線を引く。どこまでも続くハイウェイに吸い込まれるような映像とともに、トリップしてしまいそうになる夢見るような甘美な曲だ。

7. “The Big Dream” – The Big Dream (2013)

3rdアルバム『The Big Dream』は、ボブ・ディランのフォーク名曲『The Ballad of Hollis Brown』以外はすべて、リンチとエンジニアのディーン・ハーレイによる共同作業によるもの。リンチ自身、「モダン・ブルース」として位置づける原点回帰のような音楽が展開されている。その一曲目を飾るタイトル曲。どこか、ブリストルサウンドにも通じる、どこかダークでメロウなリンチ独特の奇怪さと深い感情が流れ込んだ曲だ。このアルバムには、リズムとギターが主導するシンプルな構成の中に、リンチのいつもの不安定な感覚を、より音楽的に洗練させ昇華している。なお、ミュージック・ビデオはモービーによるリミックス&監督だ。

8. “Llorando” –Rebekah Del Rio from「Mulholland Drive」(2001)

『マルホランド・ドライブ』の中で、ロイ・オービソンの「Crying」をスペイン語版「Llorando」として、レベッカ・デル・リオがアカペラで歌うシーン。リンチの映画音楽における、最も印象的なシーンの一つといっていい。この曲は、物語の中での二つの主要なキャラクター、ダイアン(ナオミ・ワッツ)とベティ(ナオミ・ワッツ)が交わる場面における、深い感情的な要素をリンチが映画の中で補完しているシーンとして記憶されている。

9. “Crazy Clown Time” – Crazy Clown Time (2011)

アルバム『クレイジー・クラウン・タイム』のタイトル曲であるこの曲は、スローなビートと、リンチが紡ぐ奇妙で夢幻的な歌詞が交わり、『ツイン・ピークス』の悪夢を再現するかのような、映画的なビジュアルの中に引き込まれる。このリンチ自身が手がけたこの曲のPVは、彼の映画作品にしばしば見られる奇怪で悪魔的キャラクターと不安定で狂気あふれる空間が特徴的に扱われている。

10. The Answers to the Questions” – Chrystabell

1999年、エージェントの紹介で知り合ったリンチとクリスタベル。以後、2011年のデビュー・アルバム『This Train』と2017年のEP『Somewhere in the Nowhere』でのコラボレーションをはじめ、2017年に『ツイン・ピークス The Return』には、FBI捜査官タミー・プレストン捜査官役で出演しているクリスタベル。そんな二人のコラボアルバム『Cellophane Memories』では、秋のある夜、リンチが高い木が生い茂る森を散歩していたとき、木の上に輝く明るい光を見たときに抱いたビジョンからインスピレーションを得たのだという。リンチお得意の「無意識」「夢」「精神的な崩壊」「現実と幻想の曖昧さ」、これらがごちゃまぜになった、妖しい世界を形成している。

11. ‘Shot In The Back Of The Head’  – Moby(2017)

モービーとリンチとの関係性は、1991年の『ツイン・ピークス』のテーマをサンプリングし、そのキャリアを決定づけたシングル 「Go」にはじまる。この「Shot In The Back Of The Head」でのビデオでは、リンチワールド満載のイラストによるインディタッチのアニメーションが悪夢を助長する。

12. Donovan – I Am The Shaman

フラワームーヴメントを愛するヒッピー的精神のミュージシャンとしてしられるドノヴァン。Meditation(超越瞑想)の信奉者同士、シャーマンの音楽家とシャーマンの映像作家による魂のコラボというわけだ。ドノヴァンの75歳の誕生日を記念して、作られたこの楽曲は、全てが即興で生まれたのだという。