感傷か鑑賞か、悲喜こもごもの人類小咄
マットペイントというものをご存じだろうか?
実写と背景画を合成するやりかたで、
街並みや周囲の建物等を含んだ背景画そのもののことをいう。
よく見れば、あれって絵だね、写真だね、ということは
昔の映画やドラマのバックにおいて、しばしみられたところだが、
リアル感を効率よく手っ取り早く出すために、
当たり前のように使われていたものである。
当然、ここは美術部の出番である。
CGやAiが全盛のこの時代なら、そういうことが
朝飯前にできてしまうのだろうが
そこを、わざわざ手の込んだ作業を通して
巨大な自前のスタジオに丹念にセットをつくりこんで
映画を撮影するスタイルをとるのがロイ・アンダーソン流のやり方だ。
もともとCMを手がけていたこともあって、工程はお手の物だが、
ちなみにアンダーソン組は総勢10人程度、
ハリウッド映画からすれば少数気鋭のスタッフだという。
こうして撮影された全33カットをワンシーンのまるで絵画のような、
かならずしも断続しない短編映像をもって、ひとつの映画として人々を魅了する。
これがヴェネチア国際映画祭の金獅子賞(グランプリ)に輝いた
前作「さよなら、人類」以来5年ぶりに発表された
本作「ホモ・サピエンスの涙」(原題は「無限について」)であり、
監督自身が「私の映画のメインテーマは、人間の脆さです」というように、
描き出された世界観は、悲喜こもごもの人類の物語。
そうした人間のもろさを、露骨に、あるいはドラマチックに描くようなスタイルではなく
まるで、一枚の絵画のように静謐で、
それでいてどこか優しさやユーモア、
ロマンティシズムあふれた映像美で構築する監督である。
物語を持続させようという欲望も意志もなく、
俳優たちは、匿名性を保ちながら、固定カメラによって見つめられ
演じるという行為からはどこか遠く隔たって、
その映像のなかの静物のように、一事物としてそこに存在している。
見方によれば、映像における「ショートショート」であるともいえる。
何処から見てもいいし、何処をどう切り取ってもかまわない。
あるいは、どこで寝て落ちしても、仮にひとつふたつの章を忘れたとて問題ない。
そんなシーンのなかで、各々が好きに想像を膨らませ、
お気に入りシーンやショットを幸せな体験として記憶にとどめておけばいい映画。
筋こそないが、終わってみれば、なんとなく一連の流れがある気がしてくる。
それでは、他の映画ではさほど意味のない、それぞれの話を簡易的に羅列してみよう。
高台の公園のベンチから、9月に入った街全体を見下ろす中年夫婦。
食料買い出しからもどる男が、先日久々にあった友達に無視されたという話をする話、
レストランで、客にワインを注ぎっばなしでテーブルに溢れさせる給仕。
恥じることがどういうことかわからないと、
オフィスの外を見つめる背を見せる女子社員。
銀行を信用できないと、ベッドの下に金を隠す男とその寝室。
磔にしろと周りからののしられ、鞭うたれながらも路上で大きな十字架を引きずる男、
その声を聞いて、手に釘を打たれる悪夢を見る、寝室での男とその妻。
店の前で、観葉植物に水をやる店員、その光景をみて初めて恋を経験する青年。
神への信仰を失ったと、医師のカウンセリングを受けにきた牧師。
地雷を踏んで足を失った男がビル地下で、ミニギターを弾くシーン。
教会前で赤ちゃん連れの若いカップルと、それを写真にとる祖母らしき光景。
その教会内、神に祈る信者の目を盗みアルコールを飲み絶望する神父。
戦死した息子の墓碑に詣で水と花を添える老夫婦。
荘厳な音楽と共に、廃墟と化したのケルンの街中の上空を漂う恋人たち。
(ちなみにこれはジャガールの絵をモティーフにしている)
プラットフォームで、久々の再会を喜ぶ家族に対し
誰も迎えてくれるものがいない若い女、と思いきや
男がひとり遅れて迎えにくるハッピーエンド。
(ちなみにこれはポール・デルヴォーの絵をモティーフにしている)
ビリー・ホリデーの「オール・オブ・ミー」が流れるバーで
シャンパン好きな女が男に注がれてシャンパンを飲んでいるシーン。
待ち合い室のようなカフェで人違いをする男とされる女。
海辺の殺風景な砂地で兵士たちに縛られ、命乞いをする男。
ザ・デルタ・リズム・ボーイズの曲が漏れるテラスにやってきて踊る三人の若い女たち。
駅構内で、靴の不具合があってそれを脱ぎ、そのままベビーカーを引いて立ち去る女。
部屋で自殺したと思わしき娘に嘆き悲しむ男とその家族。
魚を捌く魚屋と買い物客の前で、つかみあいの愛憎劇を演じる夫婦。
理科系の書物を読み、エネルギー力学について熱弁をふるう男の子、聞き役の女の子。
求心力を失ったヒットラーらしき人物がジークハイルを掲げも、
敗北感に打ちひしがれた3人の将校と落ちぶれた部屋。
市バスのなかで自分の望みがわからなあと啜り泣く男、とそれを受け止める乗客。
娘をつれ誕生会へ向かう途中、雨に降られた父と娘。
信仰を失った例の神父、再度診察を乞い医師のもとへやってくるが、
医師および受付においかえされてしまうだけのシーン。
歯医者で注射が怖い痛がりの患者が医師に愛想を尽かされるシーン。
その歯医者が雪の舞う外の景観に背を向けワインを飲んでいるクリスマスシーン。
シベリアの雪原野を敗北感一杯の兵士たちが捕虜収容所に向かってゆくシーン。
友人に無視された男が、家で再び話の続きで無視されたことを家で妻に嘆くシーン。
ラストは長く続く一本道でエンストする緑の車を自分で整備しようとする男。
話は以上である。
タイトルにある「無限」をもち出せば
それこそ、どこまでも終わらない映画が出来上がるだろう。
ざっと話を33話分を一応言葉で追ったものの
それで面白さが伝わるとは到底思えないところである。
さらに丁寧に情景を描写できなくもないが、
そこは映像を見てそれぞれが感じ取ればいい。
そこは主観が入るので簡易的に並べてみたにすぎない。
もっとも、映像でそれをみたとて退屈を感じる人もいるだろうし
これがなに? 何が言いたいの? と思う見方もあるだろう。
ロイ・アンダーソンのスタイルは、
概ね「散歩する惑星」からほとんど何も変わってはいない。
映画としてはかなり特殊な形態であり、
斬新でありながらも、見る人を選ぶ映画でもあるんだと思う。
日頃美術鑑賞が好きな人なら、その延長上に楽しめるということもあるだろう。
実際、シャガールやデルヴォーの絵を読み取ってニヤリとすることが出来るわけだ。
ちなみに、ロイ・アンダーソン自身は、現代ならエドワード・ホッパー
ルネッサンス期のブリューゲルやロシア自然主義の画家
イリヤー・レーピン等の影響について言及しているが、
彼らの絵画をひもとけば、なんらかの影響を見て取れるのだ。
映画のノリでいえば、タチ作品を彷彿とさせる空気感をみてとれるし
多くの映画で美術を担当している職人たちにとっては
実際、興味深い映画になるのかもしれない。
また、同じスウェーデン人の巨匠であるベルイマンなどとは
180度違うスタイルではあるものの、それぞれの宗教観を読み取って
比較することもできるのかもしれない。
あくまでは空想的、妄想の世界としては楽しむ余地がいくらでもでてくるだろう。
あえていうとすれば、複数回鑑賞すればするほど
それなりに見えてくる風景もあるということだ。
映像はすべて現実からの切り取り、どこにでもある風景の再現だとしても、
その背後に広がる世界にはもっと奥行きがあるはずだと、そう思いたくなる。
すくなくとそう思えるのは、これが新即物絵画に似て
主観を離れ世界そのもの匿名性の現象として再構築された映像だからかもしれない。
たま:さよなら人類
映画の趣旨、イメージとはまったく何の関係もないのだが、「人類」というキーワードを考えていたら、ひさしぶりのたまのことを考え、そしてこの曲「さよなら人類」を聴いた。当時はイロモノ的な目でみられがちだったバンドだったけど、確かに、不思議な牧歌性と大衆を惹きつけるものがある。まわりまわってロイ・アンダーソンの映画に行き着いたとて、不思議じゃない気がした。
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