圧巻五百体もの若冲羅漢たちは、あっけらかんと光臨を仰ぐ
いっときあんなにも世を賑わせていた、
若冲ブームとやらは、時の流れの前に過ぎ去ってしまったのか?
いやいや、江戸の鬼才伊藤若冲画伯が、
そう簡単に飽きられるはずはないし、
飽きられるような価値の低い世界を、
この後世に残したわけでもなかろう、と思う。
アメリカ人ジョー・プライスのコレクションに収集されたことにより、
世界的な注目を浴びたことがそれを証明している。
飽きたというなら、
ただ単にニワカ若冲ファンの波がさっと引いただけのこと。
筆さばき、精巧さ、あのイキイキとした色や形。
何よりもあの多産な作品群。
そして、時代を超えたイマジネーション若冲ワールド。
何度見てもウットリする。
なにしろ、描くことが大好きで、
短命だった当時の平均寿命からすると、
八十五歳まで生きのびて、
その証を残した、というのも驚きだけど、
好きな絵にしか関心を示さなかった、
根っからの絵描きマニア、というのだから、
これぞ天分という他あるまい。
好きこそものの上手なれ、とはよく言ったもので、
それこそ、家業の青果商にはほとんど関心を示さず弟に譲り、
自らは芸事や酒に溺れることもなく、生涯独身で通したという。
そんな画伯の晩年は、天明の大火で家を焼け出され、
生活の為に石像の下書きなどをしながら
(絵一枚を米一斗(銀六匁)として糊口をしのいだ若冲は
その後「斗米菴」という名を用いている)
義妹と立て籠もって細々暮らしたのが、
京都の伏見神社近くにある石峰寺という古刹である。
唐風の山門からして、どこか垢抜けた風采を誇り、
確かにこの画伯に纏わる寺であることを、
何気に訴えてくる気品を漂わせる。
奥に進むと、その若冲の描画から生まれ出づった石仏羅漢たちが、
竹林に混ざって何と五百体近くも立ち並ぶのである。
まるで、タケノコのごとく、
土よりニョッキと生え出た羅漢たちの顔は、
長年の風雨に晒されて、
浄土から伝え聞くかのような温和な表情を携えて、
拝観者たちを優しく出迎えてくれる。 鶏や象、動植物といった天然素材を
愛おしげに描きだした江戸の風来坊画伯の、
石による意思もまた、
若冲ファンならずとも愛おしく感じることだろう。
敷地内には「斗米菴若沖居士墓」
近世第一の能書家貫名海屋による碑文の若冲土葬の墓がある。
若冲の墓はもうひとつ、相国時にもあるのだが
あちらは、いわゆる生前墓で、
住持大典和尚梅荘顕常との交友関係により
「動植綵絵」や「釈迦三尊図」を喜捨している相国寺に
寿蔵を建てたのが縁である。
ちなみに、梅荘顕常命名『若冲』というのは、
中国の書物『老子』に記された
「大盈若冲。其用不窮。」からとられており、
「本当に満ちて充実しているものは何もないように見えるが、
いくら使っても窮めることはない」
ということで、絵を描く事のみに邁進した、
この不世出の画家にふさわしい命名となっている。
若冲ファンのみならず、なんども足を運びたくなる場所である。
さて、この絵描きマニアがもし現代に生きていたらなら、
はたしてどんな題材を選んだだろうか?
これだけ、モノにあふれた現代社会において、
さぞや、そのアンテナはめまぐるしく反応したに違いないが、
案外、絵というものにはさして関心を示さなかったかもしれない。
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