顔を隠して心隠さず
人は自分の正体、つまり素性をあらわにすることに
なんらかの抵抗があるものである。
それを大義名分のもとに隠しつつも、
自分というものを最低限に主張するという高度な術を
いつのまにだか習得してしまっていたりする。
それによって保たれうるものがあるからこそ、成立するのだろう。
社会学、心理学としてどうのこうのと、そこまで分析するつもりはないが、
安部公房の小説『他人の顔』が、
今ほど直接的リアルに訴えかけてくる時代もない気がしている。
化粧、整形、あるいは匿名でのSNS、コロナ渦以降のマスク生活。
必ずしも意図的ではないにせよ、
顔を隠すことは現代ではある種の保守になりつつある。
つまり、顔とは他人に向けられた一つの記号にほかならない。
戸籍、免許証、マイナンバーなどより、最も直接的な証明書、それが顔だ。
顔が揃う 、顔を立てる、顔を貸す、顔がない、顔を利かせる・・・
日本語には顔を使った慣用句がいろいろと浮かんでくるが、
それだけ、顔というものは、対人間に対して
いろんな意味での影響力を持っていることの証ということにもなろう。
『他人の顔』は、事故によって大火傷を負い、
自分の顔をいわば喪失した男が精巧な仮面をかぶることで、
アイデンティの復権を試みる話だ。
その工程において、まずは矛先を妻への愛に向け、
他人になりすまして、妻の気持ちを験すという手段に訴えるわけだが、
普通に考えてみれば、ある程度連れ添ってきた夫婦関係であれば、
顔云々よりも、声や雰囲気、体のフォルムなどから
自分が夫であることぐらいは容易に見抜かれてしかるべきことである。
顔の喪失という大きなテーマの割に、
男が考える復讐劇はどこか幼稚で滑稽にさえ見える。
妻はそんなことはとっくにお見通しなのだから。
男は顔を消失したが、本当に失ったものは、はたして顔だったのか?
自己喪失そのものではないのか?
しかも、事故以前にすでに起きていたことが
あぶり出されただけなのかもしれないわけだ。
男はそのことに気付いていなかっただけで、
顔の喪失を盾に、あれやこれやへ理屈をこねくりまわしているだけにも思える。
アイデンティを取り戻そうとして逆に失ってしまうなんて、
まさにミイラ取りがミイラになってしまうではないか。
ここがこの文学の奥深いところで、
よって本作をブラックジョーク、
ある種の喜劇のように受け止める者がいたとて別段問題はないと思う。
いやはや、安部公房の文体にともなって、
ことが大きく顕然化されすぎてしまうような印象をうける。
安部文学の面白さは、言葉というものでいろいろ小難しいことをこねくり回し、
そこにあたかも意味や価値付けしていくことに酔うようなところがある。
わかっていても引き込まれてしまうレトリックなのだが
文学と違って、映画はさらに、実存に迫ってくる臨場感がある。
仲代達矢の饒舌でたっぷり含みのあるしゃべり方が全くもってクセになってくる。
「顔のない人間が自由になれるのは闇が世界を支配したときだけだ。
だから深海魚はあんなにグロテスクな顔になれたんじゃないか」とか
「顔….。頸の上の200平方糎。その上に張った饅頭の皮…」とか
「朽ちはてたバケモノの幌」とか・・・
安部公房の言い回しは、実にくせなる快楽性(中毒性)があるように思う。
顔を喪失したという言い訳の化けの皮がどんどんはがされてゆく快楽だ。
いくら言葉をついやしても、想像や妄想が現実を超えることなんてないわけだが、
顔がなくなったからといっても、自分が消えるわけではないにもかかわらず、
最高に滑稽な意識過剰とでもいうのか
自家撞着の輪をグルグル回っているのが面白い。
それよりも生身に裸体を晒した妻の言葉がよっぽどリアルに心に刺さってくる。
「愛というものは、お互いに仮面を剥がしっこすることで、だから常々仮面をかぶる努力をしなきゃならいものだと思い込んだりして」
そう、京マチ子が夫にだまされたふりのあとにたまりかねて吐くわけだが
これこそは夫婦間における婚姻形態の普遍性を言い当てている。
所詮、社会も夫婦関係も仮面をかぶった騙し合いなのだと。
つまり、妻は夫の仮面をひとつの愛の形、気遣いの形態だと思いたかったのである。
夫はそれを相手の気持ちを試す口実に使ってしまったのだ。
みごとなすれ違いであるが、同時に計算違いの致命的なすれ違いであった。
一般に、男というものは社会的な体裁ばかりが気になる社会性動物であり、
そんな側面がどんな男にも多かれ少なかれ確かにあるとして、
女はむしろ、本質を嗅ぎ分け、
現実的な個の欲望にただ忠実な生き物のように思えてくる。
このすれ違いこそは、もはや避けられそうもない男と女の溝だ。
問題は、それを理解しているかどうかだけにすぎない。
「他人の顔」はあまりに主人公が雄弁すぎて、
最後はその論理が破綻するところが面白いのだが、
時にくどく、空回りしているようにも思えてきて
人間の哀しみさえも滲じむ。
その意味で、妻は夫より何倍も賢い。
そんなのいわれなくてもわかることよ。
じゃあ、顔があったらどうだっていうの?
まったく、そういってやりたくもなるってものだ。
仲代達矢は包帯ぐるぐる巻きのピエロとして散々騒ぎ立て
そこでひらめいた仮面なる幼稚な武器で妻を誘惑したが
京マチ子はおしげもなく単に夫の前に裸体をさらした。
その絵が実に新鮮だった。
小説では味わえない醍醐味だった。
冒頭の粟津潔のタイトルバックは相変わらず素晴らしいし、
全編に流れる武満徹のミュージックコンクレートの不気味なリリシズム。
あるいはビアホール「ミュンヘン」で前田美波里が歌う武満編曲のワルツの優雅さ。
そこにいる顔ぶれに、安部公房、武満徹、美術の磯崎新などがいるという、
なかなか貴重なショットに思わずニヤリとするのだ。
文学と映画というのは、基本、似て非なるものであるが
映像化されても、その中身が害われず
むしろ、視覚的な魅力が加味されて新たなる傑作然として
今なお記憶に刻み付けられているのが『砂の女』であったが、
その作品を映画化した勅使河原宏によって
またしてもこの『他人の顔』も原作の妙味を残しつつも、
映像言語としての面白さを引き出し、
新たな発見を見せてくれた作品として、忘れがたい記憶を刻んでいる。
いずれも安部公房の小説があらかじめ映像を意識して書かれたように思えるし、そこを加味し脚本をアレンジしているのもミソだ。
大雑把な紹介として、日本のカフカ、映像のシュルレアリズム。
なんと陳腐な言い回しだろう。
いや、それが当たっているかいなかなど、どうでもいいことだ。
安部公房と勅使河原宏の強力なタッグが生んだ
半世紀以上も前のスリリングな映画に、またしても刺激を受けた。
Face of Another 他人の顔:mama!milk
映画では武満徹編曲の「WALTZ」を前田美波里が歌っていたのだが、石川セリの歌うバージョンもあって、そっちもいい。とはいえ、そこはちょっとひねって、生駒祐子のアコーディオンと清水恒輔のコントラバスによるユニットmama!milkのナンバーをおとどけしよう。京都ベースに活躍するmama!milkは演劇や映画、美術という舞台で長く活動歴を持った人たちで、ここでも「他人の顔」の意匠を汲んだ実に妖しげなムードを醸し出しており、その音にはきっと武満さんが聴いてもニンマリすることだろう。
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