知らぬ存ぜぬじゃあとの祭りだ、さあ共に見よう!
監督という名の職業。
ことさら野球や映画というような華やかで注目度の高い環境下では、
一度味わうとやめられないなどと聞くが、どうなんだろうか?
こればかりは想像の域を出ない。
かっこよく言えば司令塔、現場の長であり、世界はひとまず彼の手の内にある。
思い通りにいったときにはさぞや気持ちが良いであろう。
イメージとは裏腹に、責任や使命という重圧だけがのしかかかり
身を削られるだけ、割が合わないという立場でもある。
ここでは、映画監督というある種の特権階級、聖域に座する人間を通じて、
その思いのたけを、幻想込みのフィクション仕立てで作り上げたメタ映画、
ベルイマン、アントニオーニ、スコセッシ、ポランスキー・・・
リンチにウッディ・アレンなど錚々たる同業者たちからも圧倒的支持を受けた、
映画史にその名を刻むフェリーニの傑作『8½』について考察してみよう。
その前に、我がフェリーニへの想いはといえば、青春時代に遡る。
かつて、その入口は『道』や『カビリアの夜』と言った
イタリアンリアリズモの、比較的情動的な作品から入った経緯がある。
わかりやすい映画というのは、まずは情動に訴えかけられるかどうかだが、
「映像の魔術師」というイメージばかりが必ずしもフェリーニじゃない。
実際、フェリー二の映画で涙腺を刺激されたことは一度や二度ではない。
ただし、この『8½』だけは、何故だか特別重要な作品という認識がある。
夢と現実、あらかじめ映画という虚構の世界が
リアルな置き換え、つまりは映画製作における苦悩に奔走する
フェリーニ自身が描き出されているかのように思えるからだ。
しかし、我々はその苦悩を苦悩として受け止めることができない。
それこそが映画=フィクションとしてのマジックなのだが、
映画で描かれるように、『8½』の構想中、
周りの関係者たちからの理解はなかなか得られない。
今、この頭の中にあるイメージや断片を、どうやれば映画として成立させられるか。
一度はプロデューサーに撮影を断念する手紙を書いたというが、
いっそう、それを率直に映画にしてみたらどうなるか?
それなら主人公が映画監督=自分でいいんじゃないか、
そういったプロセスがあったのだという。
人、状況、そして自らの創造性(芸術性)、
映画作りの現実を前に、困惑し、もがき苦悩しながら
にっちもさっちもいかない袋小路な状況下にまで追いやられ、死まで想像する。
結局は、ラストシーンで、出演者が手をつなぎ、
「人生は祭りだ、共に生きよう」と結ぶフェリーニ的映画の帰結の流れが
心の底からフェリーニ的映画人生のイメージに寄り添い、
われわれを陶酔へと誘い、
これみよがしに包み込んでくれるこの作品に、たとえ戸惑いがあるにせよ
感動以外の言葉は似つかわしくはない。
初めてこの作品を見たとき、自分はまだ十代の駆け出しだった。
正直、何もわかっていなかったんだな、
いや、わかるはずもないな、と今改めて感じるのは
人生のなんたるかを知らないものにはわからない世界だからである。
それをイメージの上でフェリーニ的世界だと思い込み、
主人公であるマルチェロ・マストロヤンニ演じるグイドに
フェリーニ自身の思いを重ね合わせることは可能だとしても、
映画作りという世界を虚構の世界に見立て
その内情を精一杯フィクショナルに描くしかなかったフェリーニの真の思いなど
これっぽっちも理解していなかった気がするからだ。
そこにある色とりどりのマジック(フィルムはモノクロだが)によって
視覚的に、感覚的に心をわしづかみにされたに過ぎない。
まずはどうしても避けることの出来ない現実から眺めよう。
それには享楽部分での豪華な女性陣の彩りを受け入れるのが手っ取り早い。
まずは実生活でも不倫の噂があった愛人役キュートなサンドラ・ミーロに始まり
こちらは理想の女として登場するイタリアのCCこと、クラウディア・カルディナーレ。
本作が映画界復帰第一作となった戦前のトップ女優カテリーナ・ボラット。
そうしたフェリーニの始末に負えない女好きぶりに
実生活でも翻弄され続けたジュリエッタ・マシーナの代わりに、
その冷め切った妻役で登場するのは「甘い生活」につづくアヌク・エーメ。
そしてこれぞフェリーニ趣味の極意たる大柄な乞食女サラギーナ。
こうした絢爛豪華な女たちが次々に顔見せする作品であり
フェリーニの夢=人生の中心に据えられた圧巻の幻想ハーレムシーン。
そこには「アマルコルド」でも描かれた少年時代からの思いまでが詰め込まれて、
なにやら不思議な映画空間が出来上がっている。
これぞフェリーニ!
ちなみに、若き母に抱きかかえられ連れて行かれたベッドで、
子供のグイドが少女から金持ちになれるという呪文が囁かれる。
「アサニシマサ」を吹き込まれるシーンだ。
この「アサニシマサ」はどういういわれなのかよくわからないのだが、
言葉の語尾に「SI」「SA」をつける言葉遊びではないかという指摘もある。
つまり、魂を意味する「ANIMA」から「ASA NISI MASA」となる、
というのだが、真相はよくわからない。
この映画の冒頭にもどろう。
交通渋滞で身動きの出来ない監督業スランプのグイドが
足をひっぱられながらも昇天する。とにかく逃げたいのだ。
だが、それがままならなず、落下するという状況を
フェリーニ流の幻想イメージでひとまず冒頭で表現したわけだ。
以下の映画もまた、夢や幻想といったキーワードが随所にちりばめられているが、
ひとつひとつのシーンにいったいどんな意味を見いだせるか、
はたして、それらショットになんの意味があるのか、
それを求める観客にあらかじめ、楔を打つオープニングだといえよう。
おのおの、自分なりに解釈し、楽しめばそれで良いのだと。
とはいえ、だれもが一度は考えるであろう疑問、
8½がいったい何を言い表しているのか、であるが、
フェリーニ自身、自分が手がけた作品がそれまで7本あり、
処女作『寄席の脚光 』だけがアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督ゆえ、
それを半分とみなしての8½目の映画が本作というオチ。
なあんだ、そんなことだったのか、と思わず座席からずっこけたくなるわけだが
フェリーニがそんな適当なことで満足するわけもない・・・
同時に、この映画が出来上がるまでの大いなる紆余曲折を思えば、
タイトルひとつにガタガタいうこともないというのは
何となくわかる気もするのだ。
表層に惑わされてはダメなんだよ、といわんばかりの
フェリーニ流の大いなるジョークだと捉えておこう。
ちなみに、カバラ数秘術による数字「9」には全てを受け入れる、
受容の意味があるといわれている。
理想、そして完成というキーワードがかぶってくるのだが、
8½とは、自分がすべて納得し、受け入れる先の理想郷、
つまり、完成形までにはあと半歩足りない、というような境地なのかもしれない。
とまあ、無理やりこじつければいえなくもない。
実際に、映画の中でのフェリーニの分身たるグイドが抱える境地そのもの、
それこそが、現実と理想の板挟み、といっていいわけだ。
映画の神は開き直った映画の申し子に愛の手をさしのべたのだろうか。
終わってみれば『8½』は、まさに神格化されるようなフィクション空間を形成する映画だ。
真面目にタイトルをつけるなら「袋小路」だの「迷路」だの
あるいは「イリュージョン」でも「夢」でもなんでも良かったに違いない。
劇中のグイド監督が予定していた映画の
あの壮大なSF映画のロケット発射台の装置ひとつとっても、
フェリーニがただの道楽感覚で映画を作ったとも思えないし、
フィナーレを飾る大同円でのサーカスオチにしたところで、
今みればフェリーニ映画の神髄から、別段外れるような要素はひとつたりともない。
すべてが大まじめのようにもみえてくる。
ひたすらマジック仕立てにまとめるのはさすがに無理があるが、
現実感に幻想譚を含ませて、
結果的に、映画=人生を楽しむという境地にたどり着く、
そんなフェリーニ最高の道楽(開き直り)がここにはあるのだ。
ちなみに、当初のラストシーンにおいて、
登場人物たちが全員で白い服を着て登場し、列車に乗客として詰め込んで
さてどこかへ向かうか、というような場面をすでに撮影していたという。
おそらく、これはグイドが映画作りの果てに自殺してしまうという
流れに対する「葬儀」的な帰結だったようなのだが、
それがお蔵入りとなった。
フェリーニ版銀河鉄道となる道は消えたのだ。
ないことについて、あれやこれやいってもはじまらない。
まさに映画の中のグイドそのものの境地である。
まずは、現実を受け入れよう。
解釈はいくらだってある。
そもそも映画とは自由な夢の空間だ。
なによりも雄弁なラストシーンに乾杯だ。
グイド=フェリーニの最後の開き直りの告白を素直に受け止めてペンを置こう。
さて、ジュリエッタ・マッシーナはこの『8½』をどう受け止めたんだろうか?
そこだけが気になるところだ。
突然 幸福を感じ力が湧いてきた
『8½』より
女性達よ、許しておくれ やっと分かったのだ
君たちを受け入れ愛するのは自然なことだ。
ルイザ、自由になった気がする
全てが善良で有意義で真実だ
説明したいができない
全てが元に戻り 全てが混乱する
この混乱が僕なのだ
夢ではなく現実だ
もう真実をいうのは怖くない
何を求めているかも言える
生きてる気がする
恥を感じずに君の目を見られる
人生は祭りだ!一緒に過ごそう!
言えるのはこれだけだ
理解しあうために今の僕を受け入れてほしい
The Carla Bley Band – 8½
フェリーニトリビュート版「AMARCORD」より、カーラ・ブレイバンドによる「8½」。
もちろん、映画本体で流れているのは、ニーノ・ロータ版だが、こちらもなかなか素晴らしい演奏である。アドリブはない。ほぼ忠実に再現されたクオリティにケチのつけるとこはない。改めてこの曲を聴くと、曲の構成、展開がドラマチックで、フェリーニ映画に欠かせない要素だと改めて感じる曲である。トリビュート版「AMARCORD」は全編素晴らしい演奏で、その他の楽曲にも注目すべきものはあるが、今回はこの一曲に止めておこう。アルバムとしても最高のフェリーニオマージュ(同時にロータオマージュでもある!)で、長年の愛聴盤になっている。残念ながら、2023年10月にカーラが他界してしまった折なので、その追悼の意味を込めてこの曲を捧げよう。
8½ – 8½
もう一枚、この映画にちなんだ音楽を紹介しておこう。その名も8½ 、映画からそのままバンド名が拝借されているが、これはあのゲルニカで一世風靡した上野耕治や、後にハルメンズを結成する泉水敏朗らが中心になって結成された80年代(リリースは79年)ニューウェイブバンドのファーストである。後に戸川純のバックメンバーになる人達と言ったほうがいいのかもしれない。なので戸川純ファンには馴染みのバンドで、サブカル〜ニューウェイブを愛した人間たちにとっては、まさに伝説のバンドになっている。
コメントを残す