鈴木清順『夢二』をめぐって

鈴木清順「夢二」1991

夢の宴のオフビートロマン

著名な画家の生涯をドラマ化した映画で
ドキュメンタリーは別として、
あまり面白いとは思ったためしがない。
むしろ興ざめで、なにかとがっかりさせられることの方が大半だ。
最近なら小栗康平の「FOUJITA」しかり
「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」しかり・・・
ゴッホに関しても沢山の映画が作られてはいるものの、
いまひとつ心に響くものに出会ったことがない。
むろん、個人の感じ方、思いはそれぞれあっていいと思うし、
映画としての評価や別の価値もあるだろう。
ただ、画家に対する思いがすでに出来あがっているものを
なぞるような作品に、さほど興味を感じないのだ。

鈴木清順による『夢二』はその画家を題材にした映画ではあるが
これは上記のような意味での、
アーティストのパブリックイメージに寄り添いすぎるものとは違い
ある意味、夢二の名を借りた清順ワールドの担い手として
描かれている点に、関心の全てがある。

夢二を演じるのがジュリーである。
華と色気を併せ持つ伊達男の役はこの人しかいない、
とまではいわないが、このキャスティングには妙味がある。
少なくとも、『カポネ大いに泣く』のギャングよりはこちらの方がずっといい。
けして演技を求めてはいけない存在なのだ。
とはいえ、置物ではない。
よくよく思うに、これで夢二の何がわかるだろうか?
見方によれば、これはジュリーのための映画でさえあるともいえる。
随時女に囲まれ、雰囲気そのもののオーラで進んでゆく。
夢二像を極端に捏造しているわけでもないとはいえ、
そういった表面的なことは映画をみなくてもわかっていることだ。
もちろん、これは夢二の伝記映画でなければ
女遍歴にスポットをあてた愛憎劇でもない。
つまりは、これは清順による独自の夢二像であり、
あくまでも清順美学による大正ロマンの世界観を
ジュリーという代替の個性を混ぜ合わせた夢二なのだいうことで納得する。

大正ロマン三部作、最後を飾るこの『夢二』は
清順愛好家からも、全2作からすると、
少し物足りないという声も聞こえてくるが
これはこれ、清順節は相変わらず随所に色濃く反映されている。
その絢爛豪華な美術にはうっとりするばかりだ。
女性陣の着物姿はもとより、装飾へのこだわりは随所にみられる。
なかでも、柱から手を離すと夢二の絵が現れるモンタージュ、
廃墟での傾きベットでのいびつな情事、
黄色いボートがいきなり立ったり、それこそ十八番の色とりどりの襖だったり、
あるいは夢二の分身に絵を描かせたりと、妖しさ満載のトリックに微笑む。

くれぐれも、真に受けないでいただきたいと思う。
これが清順なのであるからして、
だから、というわけではないが、これは別段傑作でもない。
誰彼なくオススメしようとも思わない。
まして、夢二を冒涜しているわけでもなく清順流オマージュとして
夢二は素材に過ぎない。
これは「夢二ではない」というのは、一向にかまわない評だが
それでは鈴木清順の凄さ、面白さが意味をなさない。
だからといって、これはマニアック向けな作品で
所詮ディレッタントな戯れに過ぎぬ、ということでもないのだが
好みがはっきりするのはもはやしょうがない。

退屈に思うひともあるだろう。
訳がわからないというのもあるだろう。
いみじくも、夢二にしても独学で絵をはじめ、
正当な評価を受けるには少々時間が有した画家であった。
この映画もまた、すぐに理解されるようなものではないかもしれない。
せいぜいジュリーの魅力、
あるいは、清順組の個性派俳優たちの魅力、
そうしたものと、大正ロマン風情との相性の良さを
古都金沢の趣きとあいまって
適度にミクスチャさせながら、けして物語に収斂されず
主題にも帰結しないところで、あくまでもはかなくも脆く、
そんな夢物語としての「夢二」を堪能する映画としてみればそれでいい。

竹下夢二といえば大正ロマンを代表する画家として知られ
なかでも美人画がその代名詞となっている。
そんな夢二には強調すべき側面が2つあって
ひとつは、独学で詩人でも有り、また画家の範疇を超え
グラフィックデザイナー(商業美術)としての草分け的存在でもあること。

もうひとつは、女性遍歴の華やかさである。
とりわけ「夢二をめぐる3人の女性」はつとに有名だ。
ひとりは最初の妻となったファムファタールたまき、
次はたまきと別れたあとに同棲し、25歳で夭逝した最愛の彦乃、
三人目は川端康成に「夢二氏の絵から抜け出した」と言わしめたお葉。
彼女は彦乃が病死したあとに出会うモデルだ。
これらをめぐる評伝は多く残されている。
その遍歴ぶりはこの映画からもなんとなく漂っては来るが
そのだれかにスポットを当てた映画でもない。
ゆえに、夢二の絵のイメージと相まって
それぞれがまさに幻想的、夢物語としての偶像として描き出されている。

さて、オフビートのトリを飾る映画として書き連ねたものが
はたしてこの『夢二』で結論づけられるのだろうか、
ということなのだが、それはそれで定かではないところ。
清順にならいて煙に巻くしかない。
そもそもが、オフビート性というのは
はっきり明確に定義されているわけでもないし
ジャームッシュやカウリスマキをもちだして、
なんとなくおかしな微妙な笑いをもたらすものを
世の傾向から、オフビート作品として一応は念頭にあるのだが、
そこから自分なりに映画におけるオフビートなるものを探ってはみたものの、
やはり明確に定義できるものはなかった、というのが結論だ。

その意味でいえば、鈴木清順を
まぎれもないオフビート感をもっているかどうかはわからない。
そこはあくまでも独自の思い込みだが、
とぼけた感性のなかに、夢やまやかし、幻想が入り交じり
かといって、不思議な品性が漂いつつ
ある種のロマンティシズムを醸し出す。
それが大正ロマン三部作の共通したムードだが、
そんな映画をわざわざ定義すること自体がどだい野暮な話である。
清順もおそらく、そう考えるだろう。
だからこそ、作り手と鑑賞者との間に微妙なズレが生じることを
あらかじめ計算された、これは小粋な映画遊び、
ということもできるのかもしれないが、
いずれにせよ、そんなことはあんまり考えない方がよろしい、
そういわれるのがオチである。
オフビートは、なんとなく地に足が着いていないような
そんな空気のなかで勝手に形作られているようで
実はしたたかなのである。

エンドロールで流れてくるのが淡谷のり子が歌う「宵待草」

待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな

これを聞いていると、やっぱりロマンを感じる。
人知れず「オフビートロマン」に酔いしれるのもわるくはない。

宵待草 四家文子 歌/竹久夢二 作詞/多 忠亮 作曲

夢二が書いた詩を歌に乗せて一世風靡した「宵待草」。一夏の実らぬ恋を思って書いたといわれる詩に感動して、作曲家多忠亮が曲にし声楽家四家文子がそれを吹き込んだ。夢二は一度は別れたたまきとよりを戻し、旅行に出かけた先で出会った一人の女がいた。夢二は焦がれ逢瀬を重ねるも結ばれることなく、やがて夢二はやぶれた恋にひとり沈む。そんな詩が「宵待草」に歌われている。

待てど 暮らせど  来ぬ人を 
宵待草の  やるせなさ
今宵は 月も  出ぬそうな 
今宵は 月も  出ぬそうな

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