むかしむかしあるところに…。愛という名のおばけ語り
先日『愛のコリーダ』を久しぶりに見て
定と吉の、度外れた阿呆のような会話(むろん褒め言葉である)を
思い出したようにニヤニヤドキドキしている自分が
実にまた可笑しいのだ。
この一生のうち、あんな恋、いや、愛にたどり着けるものだろうか?
いったいどこの誰と誰が?
ははは、馬鹿め。愚か者め。
お主は何を勝手にトチ狂った妄想を抱いておるのか?
そう自分で自分を賤しめても、
映画を超えるほどの歓待へはたどり着けないであろうことぐらい
重々承知しているのであった。
しかし、何を恥じようか?
たかが映画、されど映画による夢想ぐらいで。
いや、改めて、大島渚の凄さ、偉大さに
触れてみればこれ、ほんに感慨深く、
その世界に浸っていたいだけのことなのだ。
確かに、一人の女として滲み出す阿部定の生き様もすごいが
既成観念を打ち破り、社会的抑圧にも屈しないで
それを映画化して、あれほどの力作として撮り上げてしまう大島にも
やはり、日本映画としての誇り、情熱を感じぬ訳にはいかぬ。
されど、その大島はもうこの世の人ではない。
才能は無論のこと、大島ほどの熱量を持つ日本人映画作家が
今、この業界にいるだろうか?
大島よ、一度幽霊となって、この閉塞気味の日本映画界を
存分にぶった切ってくれ。
そう思わないではいられない。
かつてはテレビというメディアで、
ちょっとばかし、面倒でおっかない役回りで、
あたかも口角泡を飛ばす論客として
特異な視線を浴び扱われていた日々がふと懐かしげに思い出される。
たしかに、あれはあれで大島の一側面には違いないが、
本当の姿に、人はあまりにも無関心、無知すぎると
いたくそう思ったものだった。
そんなこんなで、今だからこそ、大島の作品を見続けようと、
決意新たに、覚悟し直したまでである。
そう、何はともあれ、覚悟を強いられることは間違い無いのだ。
『愛のコリーダ』の次に撮られた『愛の亡霊』もまた
一筋縄では通り過ぎようもない。
「官能の帝国」から、「情熱の帝国」へ。
引き続きアナトール・ドーモン出資アルゴスフィルム社による、日仏合作映画だ。
海外では、むしろ『愛の亡霊』の方が評価が高いという声さえ上がっているという。
それに同調するにやぶさかではない。
なるほど、スタッフは重複するが、トーンにはずいぶん開きがある。
単に姉妹作品、“二匹目のドジョウ”などでは断じてないのだ。
『愛のコリーダ』が愛と言うものをストレートに扱った問題作だっただけに
そこから引き続き大島渚の官能作品に抜擢された
藤竜也の一挙手一投足が当然気になるわけだが、
あれから二年、仕事が全くなかったのだと、
つまりは事実上干されていたのだと、
主演の藤竜也がどこかで語っていたのを覚えている。
要するに、大島は『愛の亡霊』でもこの藤にこだわったのも、
『愛のコリーダ』ショックからの救済の意味合いもあったのだろう。
何しろ、禁断の愛にどっぷりとハマってゆく男女、
豊次とせきは二十六もの年の差があると言う設定だから、
いくら当時の四十を超えた吉行和子が
乙女のごとく若く見えるからって、
それはないよなあ、なんて思ったからである。
けれども、そうした事実関係を度返ししても
この『愛の亡霊』は実に素晴らしい。
それまで、どちらかといえば、
寡黙でニヒルないい男を演じることの多かった藤竜也は
ここでも最大限その魅力を発揮している。
子持ちの車屋女房を野性味たっぷりに我が物にする様は
まさに動物だ。
一方で北関東訛りが抒情をそそり
色気と哀愁が混じり合った人妻を演じた吉行和子も忘れがたい。
阿部定にはない、爛漫な官能の魔力。
欲望の磁力に抗えずにどんどん深みはまってゆく女を見事に演じている。
反対に、最初は少し存在感が薄いのかなと
車屋儀三郎演じる田村高廣を訝ってみたが、
いやいやどうして、二人によって計画的に葬られてしまった後、
白塗り幽霊で現れる怪演ぶりが目を引く。
とりわけ幽霊として車を引く儀三郎、
あるいは井戸の上から二人を見下ろす儀三郎に目が釘付けになる。
これは父稲垣浩『無法松の一生』で三船演じる松五郎のシルエットを彷彿させるではないか。
まさにニヤリとしてしまう。
ところで、これは愛の映画なのか、はたまた幽霊譚なのか?
そこのところが実に曖昧なところなのだが、
殺された儀三郎の亡霊に、決して恨み辛みといった怨讐のかけらもなく、
なんとはなしに、どこか浮遊霊然として、
ふうっとふたりの前にたち現れるその不気味さがなまめかしい。
フィクションにおいて、これほどおとなしい幽霊を
大胆なまでに登場させる例はあまり記憶がない。
阿部定事件ほどのインパクトこそないものの、
しかし、そこは大人のおとぎ話と称されるがごとく、
これはこれでなにかと示唆に富んでいる。
落語の世界をアート調に再構築したかのような世界感といっていいのかもしれない。
このどこか寓話的な、中村糸子の原作『車屋儀三郎事件』を元に映画化された訳だが
これが単なる幽霊譚ではないのは明らかで
といって男女関係のもつれのみにあらず、
人間の業につきまとう亡霊の存在に
あたふたする描写が鬼気迫っていて、
それにグイグイと引っ張られてゆくに抗えない、
まさに官能から情熱への波に飲まれてしまう。
ラストシーン、木に吊るされて姦通、殺しの代償に甘んじる二人へ、
村社会の仕打ちはいかにも残酷なサディズムとして表出する。
「叩き殺す」あるいは「なぶり殺す」といった表現そのものの拷問がつづき
苦悶に喘ぐ二人には死に至るエロティシズムとしての究極の審美が宿っているかのようである。
何よりも落ちぶれた村落、そして移ろいゆく四季の抒情が眩しいほどに美しい。
まるで水木しげるの漫画が彩色され
映像化となって具現化されたかのような景観が飛び込んでくる。
いみじくも小林正樹『怪談』のスタッフがここに集結した成果がここにある。
それを支えるのは、怪談もののスペシャリストのごとく
画面に幽玄的な美を讃える宮島義勇のカメラワーク。
そして、溝口組の流れを組む戸田重昌の重厚なセット。
廃村をそのままあてがった村落そのものが、
実に映画的空間の磁力に満ち溢れているのをひしひしと受け止めながら
そして、何よりも武満徹のサウンドトラックが
この上なく臨場感を盛り上げてゆく。
仮に、国外向けのアピールに推された画づくりはあったにせよ、
実に豪華かつ品格ある映画に仕上げられてゆく。
そうして、古井戸という一つの装置、キーワードは、
のちの中田秀夫によるホラー映画『リング』にも
影響を与えたのは間違いあるまい。
何れにせよ、『愛のコリーダ』で描こうと挑んだのが
男と女の究極の愛のテーマだとすれば、
今度は幽霊という非実存を挿入することで
より内省的に、人間そのもののリアルを根底からあぶり出す。
まさに内在するもの、目に見えぬものがそこにあるのだ。
そうして、閉ざされた村落の陰湿さが露わになり、
男と女の欲望の果てが重ね合わされる時、
まさに日本という風土のもつ呪詛的な因習伴う寓話として
新たに昇華された愛の形を成就させる。
語り手、すなわちこの一つの円熟期に到達した
大島渚のワールドワイドな傑作『愛の亡霊』は
こうして、むかし話や説話のように
まさに人から人へと伝承され、語り継がれるようにして
深く広がる霧模様のように、深く胸に刻まれてゆくだろう。
Bauhaus : The Passion Of Lovers
1979年、イギリスに現れたオルタナティブなポストパンクバンドとしてのバウハウスだったが、その黒く、重い音の暴力性は、バンド名からすると、むしろパンク以上のエネルギーをもっていたように思える。そのゴチックノワールなロックの中に咲く妖しい花4人組。そんなバウハウスを代表するアルバム『MASK』から「The Passion Of Lovers」。「the passion of lovers is for dead(恋人たちの情熱は死を伴う)」というリフレインが耳に残る。
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