ゲームの落とし前はちゃぶ台返しで
いまでこそ「ゆとり教育」だ、「ゆとり世代」だと
もっともらしい風潮たなびくいい時代にはなっているけれども、
かつては学歴偏重主義というものが大々的に掲げられ、
やれ受験戦争だ、出世競争だといった物騒な気運にあおられての青色吐息、
親たちが敷くレールの上を、ひたすら懐疑もせず、
あらがいもせず、悶々たる思いで
ただ宿命のごとく従順に歩まねばらならぬ、
という時代が確実にあったと記憶する。
それゆえ、ときおりトチ狂った事件が起きてしまう。
メディアの格好のエサである。
親、学校、社会への反抗は、ときに深刻で、
生々しい社会現象として注目され、
かえって箔がつく、ということはあったのかもしれない。
自分自身のことでいえば、確かにそうした時代背景の影響下にいて、
日々まさにヒリヒリ肌で感じながら、
少なからず窮屈で、ぎこちない思春期を送ってきたことを否定しない。
幸い、なんとか自分自身の声に耳を澄まし、
どこかで軌道修正を施しながらやってこられた、
いうなれば、幸運な部類に属する人間ではなかったか、
そう納得することはある。
それゆえに、恨みつらみ、嫉みといった負の感情をかかえてきたわけではない。
実のところ、それが真に幸せへの軌道だったのか、
不幸なことだったのか、なんともいえないが
結果として、現実を受け入れてきたことだけは間違いなく、
自我に埋もれずとも、自我を指針に生きてこられたことだけは
今更であるが、誇っていいことなのかもしれない。
まして、ひと様の事情について
とやかくいうつもりはないし、いえる立場でもないのだ。
せいぜい、それをめぐるドラマを想像するぐらいが関の山だ。
そんなことを考えるに、行き着く先が
八十年代を代表する一本の映画、
森田芳光の出世作にして問題作『家族ゲーム』ではないかと思う。
上記にしめした学歴偏重主義、教育重視の社会の鑑、
病理としての家族の形態を、
ブラックコメディとして多分におかしみをもって
シニカルに、また実験的に描かれたこの映画を
何十年ぶりかで再見したのだが、
不思議なことに「ゆとり教育」だの「ゆとり世代」だのとにわかに叫ばれる今よりも
あきらかに豊かななにものかに心ときめく思いがするのである。
思わず、ほおが弛緩する思いがするのだ。
もちろん、それは映画の出来、作品のもつ魔力であるのはいうまでもない。
とはいえ、この映画が醸しだす気配は単なる懐かしさ、
あるいは時代の空気感だけではもちろんない。
作り手の悪意ある意図、野心的試みが随所に展開され、
映画として、エンターテイメントとして、
十分に成功しているのだと改めて思う。
今日なお、評価の高い作品として、
色褪せずに語りつがれているのが何よりその証だろう。
なかでも、三流大学七年生の家庭教師吉本を演じた
あの松田優作の存在感が、
その評価に大いに貢献していることはいうまでもない。
七十年代に主にハードボイルドタッチの作風で
世間に認知されていたこの俳優が、
テレビドラマ『探偵物語』あたりをきっかけにして、
あらたなる境地、キャラクター像を模索していた時期にあたり、
いっそう特異なキャラクターをここで確立している。
どこか飄々していながらも、確実に狂気をはらんだ家庭教師が
まさに、受験戦争だの、出世競争だのといった物騒な気運のさなかにいて、
ゲームさながら、一喜一憂する家族にまぎれこみ、
相当な異分子感を発揮しながら迎える最後の不穏な空気には、
学歴偏重主義に踊らされながらも、
結局は個々のエゴそのものの主張甚だしく
事態の主役であることを嫌がおうにも露呈してしまっているのがみてとれる。
その引き金として、この吉本のキャラクターが登場し
みごとなまでにブラックコメディを誘導してゆく。
それは、次男茂之の高校合格を祝う晩餐の席で
一気に堰をきるかのように
徐々に増大させてゆくこの欺瞞家族への憎しみが
その造反行為によってすべてを破壊、清算するかのように
ふざけたふるまいに出たあの狂気に集約されている。
森田芳光流のアンチテーゼをあくまでクールに謳い上げているのだ。
そして、それこそが松田優作という俳優の個性に依存した
決定的なクライマックスシーンと呼んでいい瞬間なのである。
そのあとの鎮静したムードにおいて、
家族総出で事態を何事もなかったかのように片付けるシーンには
思わず、唖然とし、くすりとしてしまうのである。
それにしても、なかなかの芸達者ぞろいの家族である。
沼田家父親役伊丹十三は、この手のブラックコメディを演じさせたら絶品である。
半熟の目玉焼きを吸って食べる、そんな数奇な嗜好をもつ父親。
長年連れ添った伴侶に、そんなことも知らなかったのかと嘆いてみせる。
ひたすら理念ばかりを先行させて、実働は母親任せで、
結局この父親は、子供の学歴の勝利を
世間体と自らのエゴに染めようとしているにすぎないのだが、
まさに密閉された心の闇の唯一の開放とばかり
ことあるごとに自家用車内の空間を利用し、
エゴの吐露でしかないもっともらしい会話を繰り広げる。
また、一見すると能面のようなのっぺりした顔立ちの、
母親千賀子演じる由紀さおりが随所にみせる豊かな表情の数々。
つかみどころなき声のトーンを駆使し、
天然風のとぼけた役を最後まで演じきったところもまた素晴らしい。
クラフトを趣味としながら、自らの享楽に自由に手を伸ばせないもどかしさを
教育という隠れ蓑の犠牲者然としてふるまう偽善にすり替える巧みさ。
いずれも過度に逸脱することなく、適度な抑制を保ちながら、
せいぜい、ちょっとしたおとぼけぶりを挟む程度のゲーム感覚で、
子供の教育に熱心な親を演じ続けるおかしみ。
こうした中で、吉本の格好の標的となる宮川一朗太扮する茂之もまた、
とぼけた家族の一員として、したたかにゲームに興じる貴重なピースを演じ続ける。
度重なる暴力やいじめを受けながらも、
決してひるむことなく、実はすきあらば反撃の機を伺いつつ
吉本の指導によって、着実に成績を上げてゆくといった
真のしたたかさを合わせ持っている。
「先生の趣味はなんですか?」と自ら問うて
「勉強を教えること」ととぼける吉本に対して
「じゃあ、お前は?」と聞かれ
即座に「勉強を教えてもらうこと」と二つ返事で返すあたりに
この一家の問題児がすでに単なるボンクラではないことを明確に示唆している。
秀才の兄慎一は、あくまでもそんな弟の引き立て役を演じながらも、
こちらも親の傀儡を演じるのにそろそろしびれを切らし、
思春期の危うさをかかえながら、こうした家族ゲームに参加している。
決して向き合わない家族間の人間像へのあてこすりのように、
そうしたゲームのプレイヤーたちが横一列に並ぶ食卓の構図そのものに、
実に80年代的な野心が見え隠れする。
それはかつて川島雄三が『しとやかな獣』で
構図として団地の室内空間を斬新に解体して見せた
あの巧みなセットを彷彿とさせるカメラワークに似ており
こうしたブラックユーモアに拍車をかける舞台装置の役割をはたしている。
こうしてみると、八十年代初頭、
日本にもまだまだみどころのある映画が
実に豊富にそろっていたように思う。
相米慎二『台風クラブ』、石井聰亙『逆噴射家族』
そしてこの森田芳光『家族ゲーム』など。
いずれも十代の悶々たる若者たちの内在する不穏な心理を利用しながら
社会のみえざるなにものか、不穏なものに立ち向かうというモティーフとばかり、
漫画のようなばかばかしさを前面に押し出したスタイルで、
普遍的名作というにはあまりに個性的な作風で
カルト的人気を誇る映画として、
いずれも時代を代表する作品である。
正直なところ、森田芳光作品には
昔からまず好んで食指は動かないタイプなのだが
『家族ゲーム』の斬新な演出、そしてムードには
初めてみたときから刺激的で、
記憶から離れがたい確かな映画的感動をもらっている。
まさに、時代の空気と共に生きてきた人間を感心させるだけの説得力と
奇妙な共犯関係があり、
いわずとしれた共感が随所に盛り込まれている気がして
今尚実に刺激的であり、森田芳光自身を評価するに
十分な一本なのである。
Sly & The Family Stone – Family Affair
スライ&ザ・ファミリー・ストーンの名盤「暴動」に収録の一曲、そのものずばりな「 Family Affair」。家庭にはそれぞれの事情というものがある。「勉強が好きな人間に育つものもいれば、人を殺すのが好きな人間に育つものもいる、すべては家族の問題」歌詞の内容はつまりそんなことだ。皮肉の効いた歌だが、その通り、他人がとやかく言う問題でもない。それをみごとにエンターテイメントとして映画化したのが「家族ゲーム」というわけだ。
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