大島渚『絞死刑』をめぐって

絞死刑 1968 大島渚 ATG
絞死刑 1968 大島渚 ATG

今も昔も、国家牧歌の殺人狂時代であ〜る

死刑廃止反対の皆さん
死刑場を見たことがありますか?
死刑執行を見たことがありますか?

大島渚『絞死刑』より

大島渚の『絞死刑』はこんな風に始まる。
ほとんど誰もみたことのない風景が前の前にある。
(死刑をめぐる)問題作なのは言うまでもないが、
この先いったいどんな深刻なストーリー、
どんな恐ろしい結末が待ち構えているのか?
出だしからして緊張を強いられる映画である。
しかし、これは果たして死刑制度の是非をめぐる映画なのか?
という疑問が次第にあらわになってくる。

2名の婦女子に対して
強姦及び殺人罪に問われた在日朝鮮人Rの死刑執行が
こともあろうに失敗してしまうことから
これが予想を裏切るような展開へと発展するのだ。

「罪を自覚して、悔いている状態でなければ執行できない」
つまり規則上、心身喪失状態の人間を死刑に処すことはできないのだ。

足元の踏み板を外され宙吊りになった死刑囚は
通常ならほぼ即死のはずだが、これがなかなか死なない。
そこでにわかにざわめき立つのが裁く側、
つまりは官僚組織の人たちである。
ここから周りを取り囲み、
所長、教育部長、刑務官、教誨師、医師、検察官たちの狂想曲が始まり
映画が一気にもりあがりをみせてゆく。

渡辺文雄を筆頭に、佐藤慶、小松方正、戸浦六宏といった
大島組の常連たちによる
刑場でのドタバタ劇が意外のほどに、
いや馬鹿馬鹿しいまでに面白い。
これは明らかに、ジョークであろうことがわかってくる。
官僚に対する痛烈な皮肉なのだ。

死刑に対して、賛成か、反対か?
と問われれば人は口ではなんとでもいえる。
しかし当事者には当事者としての立場、心情がある。
人は各々その状況に置かれてどう思うのか?
犯行の動機や犯人の心情を無視して、
機械的に人間を葬る死刑制度などあってはならない
というのが法治国家のお約束ごとであるとすれば
映画で描かれるRへの執行は
それこそ法の名の下の殺人システムという理屈になろう。

そういうことを考えていけば
おのずと賛成だの、反対だの
そう軽率には公言できなくなってくる。
だが、公的立場であれば、
当然、命令に従うほかないのだから
役人たちのあたふたかげんも
あながち笑うことができないのかもしれない。
つまるところ、概ねこれが人間の縮図であり
無意識における倫理観、価値観を前に
一つの疑問が突きつけられれている、
そう解釈するしかないのである。

しかし、これはあくまで映画である。
しかもあの、大島渚、血気盛んな頃の映画である。
問題はRという人物が在日朝鮮人であった、
ということに尽きるのである。
あたかも、人間の尊厳について
深く考えさせられるテーマが語られるにも関わらず、
笑いを禁じ得ないのは、
死刑制度そのものが、あまりにも独断的で
あいまいな倫理観に基づいているからに他ならない。

そもそも、死刑を宣告されて刑が執行されるのは
Rという人間がそれ相応の罪を犯したという大義があるからであるが、
RはRであることを認識できない、
ということが起きてしまうこと自体が問題なのだ。

刑の不履行によって、この盲点が暴かれてゆく。
大島はこの死刑制度を通して
日本人が抱える民族差別意識を根底からあぶり出し
社会に提起した。
渡辺文雄を狂言回しとする寸劇を見ていれば
概ね、日本人の朝鮮民族への侮蔑的思いが
如実に理解できる寸法である。
それは今日にまで通底する、根本的な差別意識に繋がっている。

死刑制度という重いテーマを持ち出してはいるが
官僚たちのドタバタ劇をひどく滑稽なものに描くことで
実はこの民族差別への大いなるアンチテーゼとして
笑っているのだ。
これを法務省関連の人間がこの茶番劇を目の当たりにしたら
どう感じるだろうか?
この時の大島のキレは実に革新的なまでに痛快である。

この話はもともと小松川事件という
実話をモデルに作られている。
朝鮮人への差別問題を意欲的に取り上げてきた大島が
飛びつくのも無理はない格好の題材である。

李珍宇なる在日朝鮮人が、二人の女子高生を殺害
および姦淫の罪で逮捕される。
そしていよいよ死刑の運びとなる。
しかし、犯人は当時未成年ということもあり、
日本人の側からも助命嘆願運動が起きたほどであるが
そんなことは御構い無しに国家は事件に寛容ではなかった。
精神鑑定も、未成年保護の観点もない中で
犯人は当時、状況証拠だけで
絞死刑へのレールが敷かれたわけである。
そして、22歳にして、李珍宇は国家の名の下に命を奪われる。
その人物がRである。

当時の事件に関する資料を読むと、
李珍宇は朝鮮人部落で生まれ
酒に溺れ窃盗の前科がある父親、半聾唖である母親と
前科8犯のスリの叔父も同居する、親子八人で暮らす
赤貧の家庭環境に育ったが
成績は優秀、無類の読書好き、文学を志向する青年であったという。
貧困生活から窃盗のような悪事を繰り返してはいたものの、
それがこの青年のアイデンティとどう結びつくかまでは
真剣に議論された形跡はない。

そうした家庭環境のくだりは
映画の中で渡辺文雄以下の執行部によって再三強調され
どうにかRの記憶を呼び覚まそうとするが
Rの意識とはなかなか直結しない。
実際のR、つまり刑の執行を余儀なくされた李珍宇は
自ら罪を自白してはいる。
しかし、個のアイデンティは
その背後にある社会からの撲殺を受け
“朝鮮人だからだ”という暗黙の理由で
結局のところスルーされてしまうのだ。

映画ではアイデンティをとりもどしたものの、
罪を後悔して亡きものたちへの弔いの気持ちさえ示すことのないまま
Rは22歳で刑の執行を受けることになる。
のちに永山基準として死刑の基準が明確にはなったものの
これが一般の日本人なら、
審議の対象になっていて然るべき状況であったはずである。
そして、大島が突きつけるのは
朝鮮人という侮蔑への対象に対する
日本人意識そのものへのアンチテーゼであり、
死刑そのものを国家によるもう一つの殺人として捉えているのである。
それはRの口を通じて明確に語られる。

人を殺すのは悪ですか?
では死刑で僕を殺すのも悪ですね?

そうして、役人たちは再び混乱に頭をかきむしる。
所詮、国家が人を裁く以上、それに従うだけの人間たちと
確かに人間を殺しはしたものの、
それに関して罪の意識を感じない、という人間の間には
永遠に交わること深い溝が横たわっているのだ。
そこで、「君が無罪だと思っている以上死刑は執行できない、出てゆき給え」
という検事の声に一旦は出てゆこうと開けたドアの向こうに
眩しい光が充溢している。
すなわち、国家(現実)そのものを前にした時、
Rは出てゆくことをやめる。
そして戻ってきて、素直に刑を受け入れる。

最後まで「無罪」だということを疑わぬRは
ついに国家という正義の元に死を受け入れるしかない。
国家に絶望したのだ。
もはや生きる意味を失ってしまったのだ。
いかにも大島渚らしい、切り口である。

しかし、個人として考えてみれば
死刑制度に対しては、慎重にならざるを得ない。
冤罪の問題はさることながら、
神ではない法がさらに殺人を繰り返しているという矛盾に
抗うすべを知らないからである。

が、問題なのは、
では、あなたの最愛の家族が同じ目にあったとしたら
あなたはそれを許せるのか?
という感情論的問いである。
確かに、第三者の事件においては、
死刑というものは、その罪への報いとして
背負わなければならない十字架である。
が、果たして、死をもってして、贖罪になりうるのか?
となると話は別である。
あくまでも、死刑制度は抑止力ではなく
遺族の気持ちに対しての救済処置でしかないように思える。

この日本では、世論に耳を傾けても
死刑そのものはやむなしの声の方が多数を占めるが、
あえて言うならば、
死刑によって、人間の倫理や尊厳が保たれる訳ではないということである。
実に難しい問題として横たわっている。

一つ付け加えるとすれば
我々はその現実の前からは決して逃げられはしない
ということのみである。
人が人を裁くということに限界がある以上、
常にナイーブで敏感であらねばならないのだということを
この『絞死刑』を通じて改めて感じざるを得ないのである。

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