ジャック・ドワイヨン『少年たち』をめぐって

PETITS FRERES 1999 Jacques Doillon
PETITS FRERES 1999 Jacques Doillon

映画と言う名の感情発火装置、ここにあり。

日々、感情を爆発させず抑制したり
あるいは、逆に負のエネルギーとして
まともに食らってしまうことを回避しようとする意識が
どこかで無意識に働いているのだと思う。
それによって、気分の安定を保つことを理性という。
けれども、そうした意識はどこかでストレスと直結している気がする。
人間、誰しも我慢には限界があるのだ。
人間は本来、感情の動物であり、
時には怒りを投げつけたくなるし、
波風立てずにはいられないことだってあるのだ。

そんな感情に真正面切って向き合う映画作家がいる。
ジャック・ドワイヨンはまさにそうした
感情から逃れられないヒリヒリした情景を
媚びず、曲げずフィルムに収めてきた作家である。
現実に向き合うことに慣れていないものは
思わず、スクリーンを後にしてしまうかもしれない。
観る方もそれなりに覚悟は強いられるのだ。

とはいえ、世間の認知に比例して、
決して寡作というわけでもないにも関わらず、
商業映画のベースに乗らず、
独自の映画を追及する作家でなかなか陽の目を浴びない。

そのフィルモグラフィーをながめていても、
シネクラブ上映のみとか、映画祭上映だとか、
常にカッコつきの経歴が何かと気にかかる。
今や、娘ルーが監督としてデビューしているし、
ポストヌーヴェル・ヴァーグの作家として、
巨匠かいなかは別として、かなり熟練の域に達した名匠である。
そんなドワイヨンがいま、いったい、
どういうスタンスで映画と向き合っているのかすら、
よくわからないところが、
今から書こうとする映画『少年たち』は、
フランス映画祭横浜99のプログラムで公開され、
自分は、かつてそれをたった一日だけ上映されたテアトル銀座で観たものである。
よってその記憶を頼りに書いている。
ロードショー公開されなかったのは不思議だった。
というのも、その前作『ポネット』はいわゆる当たりだったから
いくらドワイヨンの映画が商業主義映画じゃないからといっても
この冷遇ぶりはなんなんだろう?
実際、フランス本国においても、
活動状況がさほど良好とも言えないなか、
実にその網をかいくぐって、独自に活動を続けてきた作家で、
ずっと気になっている。
言葉は古いが「呪われた作家」たる所以だろうか?

そんな冷遇にもかかわらず、他国に比べれば
この日本では根強い支持がある作家ではある。
近頃、ようやく、そうした作品がDVD化されつつあるおり、
個人的にドワイヨンを再評価してみたい衝動を常備している。
その真骨頂の一つ、子供の扱いである。
とりわけ思春期の成長過程における
少年少女たちの不安な生態を映画として描き出すことに
長けた監督なのである。

『ピストルと少年』あるいはこの『少年たち』もまた、
成熟に届かぬ十代の若者たちの周りで起きる、
リアルな憤り、もどかしさを巡って、
ドキュメンタリーのような雰囲気で、
常に逼迫し、何かに追い詰められているそんな臨場感で
ナイフの刃のように傷つけ合う激情が晒される。
実にドワイヨンらしい作品と呼べるもので
いつもながら、子供たちが実に生き生きしている。
何気ない傑作だと思う。

生々しい台詞やアクションには
このスタイルしかないという案配で
手持ちカメラが感情にリンクしながら動きを追う。
だからといって、これが凡百の即興演出というわけではない。
ドワイヨンは、きちんとリハを繰り返す監督で
その上で、演技としてのナチュラルを引き出すというスタイルの監督なのである。
『少年たち』の主人公たちは、
たぶんこの映画がデビューの素人たちであり、
それゆえ皆熟練した動き、計算された動きを知らない。
このリアルな所作こそは、ドワイヨンの卓越した演出術によって引き出されたものだ。
主役の少女タリアはその鋭い目つきゆえに「タイソン」とよばれ、
不幸な生い立ちの、複雑な家庭環境の子供を演じている。
そして、いつものドワイヨン映画のように、
感情をむき出しにぶつけてくる。

義理の父親とのあいだにある不協和音が
この少女に如何しようも無い暗い影をおとしている。
親友のみならず、妹にまで手を出そうという、
この不埒な男を許してはおけないのだ。
映画そのものは、フランスの社会問題上の
移民二世の「子供たちの世界」をあつかっている点では
だれもが共有しうる問題を扱っている。
けれども、社会に収まりきれない、個としての「感情のドラマ」に
より強くフォーカスすることで、
見事にドワイヨン色に染めることに成功している。

タリアの犬キムが悪童イリエスを中心とした「少年たち」によって盗まれ殺される。
その少年たちの世界にも大人顔負けの階級が存在し、
そこは「嘘」と「支配」がある。
子供たちは実にしたたかであると同時に
ある意味子供っぽさを兼ね備えていたりする。
そうして恋があり、残酷や無情とともに生々しい「リアル」が沿う。
しかし、子供達はやがて、心を通わせてゆく。
仲間は盗んだウエディングドレスで
タリアとイリエスを祝福するのだ。
最後は、なんだか小さな恋のメロディのような展開になるのだが、
といって、ハッピーエンドで終わるわけもない。
タリアは束の間の恋愛よりも現実を選択する。
父親を法に晒して、自らは施設へ向かう。
個としての自立の始まりで、映画は終わる。

話の筋が決してドラマティックなわけでもない。
でも、そこには、たえず登場人物の感情に忠実であることが描かれる。
その動きはどこまでもぎこちなく、どこまでも不安定であるが、
それゆえにリアルな情景が突き刺さってくるのである。
その視線は嘘のない、感情そのものが立ち上がる瞬間を
常にカメラで追っているのである。
そうした手法がドワイヨン映画の真骨頂なのである。

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