フィルムの分け目を巡る、ちょっとブルーなエロ事まるかじり
好きな原作をめぐっては、
好きな映画作家に映画化されるにこしたことはない、と思う。
仮にそれが失敗作だとしても、
自分が認める監督による失敗なら許せることもあるが、
そうでない監督の場合は、二重の悲劇がまちかまえている。
原作を台無しにされた想いと、
つまらぬものを見せられたという想い。
そりゃあ、たまらんのである。
できれば、それだけは回避したい、というのが本音であるが、
映画となると、個人の感情だけでどうなるでもない
商業的な駆け引きのもとに成立するのだから、
そこは冷静に出来を見極めるしかない。
今村昌平による、1966年公開の映画『エロ事師たちより 人類学入門』は、
原作が野坂昭如で、野坂文学の愛読者としては、
この作品の映画化には、大変興味が湧いた。
なにしろ、ズブやんはじめ、享楽と猥雑の手管を生業とする、
その名も「エロ事師たち」をとりまく人間ドラマを、
いかにして映画化するものぞと気になっていた作品だからである。
もちろん、小説も映画も、もう随分前の話だから、今更何をいっても、
‘どないもならん’わけではあるが、そこは割り切ってクールに考えてみよう。
今村昌平といえば、カンヌでグランプリをすでに2度受賞するなど、
泣く子もだまる巨匠なのはわかっているが、どうも自分とは相性が悪い。
カンヌ映画祭パルムドールを受賞した『うなぎ』などは、
どうにも受けつなかった、ダメな作品だった。
もちろん、それは一個人の見解であって、説得力は薄いが、
おかげで、パルムドールなどという冠に、
さほど価値を見いだせなくなっているほどである。
実際、そんなにじっくり作品を観ていないのだが、
観るといつもきまって後味がよろしくないのが今村昌平作品である。
作家としての力量はみとめるも、
どうも個人的な好みとはズレが在ることは否めない。
ちなみにフィリップ・ガレルはこのイマムラをとても買っているし、
フランス人にはすこぶる受けがいいのは意外なのである。
はて、なにがズレているのか、とつらつら書き連ね糾弾するほどに、
別段嫌悪しているというわけでもないのだが、
ひとことでいうと“くどい”のである。
“仰々しい”のである。
とりわけ、男と女の絡む話を、スクリーンで見せられるときには、
感性や品性が否が応でも暴露されてしまうものだ。
ゆえに目を覆ってしまいたくなる事が多い監督である。
が、人によれば、それこそは今村作品の骨子であり、
すなわち魅力だともいえるわけで、
そこのところは、皮膚感覚の差なので、いたしかたないと思う。
いうなれば、大好きな恋人の身内を紹介されたあとに
その感想を求められるときのような、気まずさ、
決まりの悪さを感じながらでも、最適な言葉を選ぶような感覚である。
ただこの『エロ事師たちより 人類学入門』は
ある程度面白い部分もあったので、カッコ付きの◯としておこう。
まず、原作に忠実なのは前半だけで、
後半はイマムラによる脚本に書き換えられており、
そのことはいいとして、やっぱり“くどさ”からは逃れようなき演出である。
イマムラのフィルモグラフィーをながめても、やはり二時間越えはザラで、
もちろん、二時間を越えた傑作は世に五万とあるから、
長さが問題ということではないが、ただ闇雲にダラダラ長いのである。
これが溝口健二ならば、徹底物語を追い込んでゆくし、
反対に、B級として軽く端折ってくれれば、多少メリハリがついたに違いない。
こと『エロ事師たち』に関しては、日活ポルノ並みに
一時間強でも撮れた気がしている。
実際、日活ロマンポルノでは、曽根中生による『実録エロ事師たち』という作品がある。
これは野坂文学に、直接関係はないが、ブルーフィルムを生業にする作品は
それ以外にも何本も撮られている。
無論、これは僕の好みの感想だから、
ま、受け流してもらっていい。
とはいうものの、やはり腐っても世界のイマムラだけあって、
映画そのものには力があることは認めよう。
映像センスも悪くなかった。
そこはあの鬼才川島雄三の弟子だけのことはある。
なにぶん、エロ事師ことスブやんを演じた小沢昭一と
愛人お春役の坂本スミ子は各々素晴らしかった。
伴的役に、あの名バイプレイヤー田中春男を
キャスティングしたことも、文句がないところだ。
が、お春の娘恵子役は、ちょっとなあ、全然可愛くないのである。
あれでは、なかば近親相姦的なまぐわいも、
どことなく空々しく萎えるではないか。
原作のどこをとっても“佳人”などとは描写されてはいないし、
可愛くない娘であるのはしょうがないが、
せめてほんのり15歳の娘の色香ぐらい立ち上らせうる女優であってほしかった。
今時の15歳なら、色気のひとつぐらい常備しているかもしれないが、
何しろ、コテコテの昭和であり、ブルーフィルムの横行する時代なら、
まさにベタなエロの方が受けがいいのかもしれない。
おまけに、原作にない、近藤正臣演ずるマザコンの兄を登場させている。
これもなあ、なんか違う。
どうせならエロ事師たちの方を、
もっと充実させてほしかったというのが本音だ。
映画版には、スブやん、伴的、そしてカボーの三人しか登場しない。
原作にはブツの運び屋たる「ゴキ」、そしてエロ本書きの「カキヤ」、
コールガール斡旋の助手「ポール」というキャラが存在するし、
ゆえに小説はモツ煮込みのように、
ぐつぐつと溢れる笑いに事欠かず面白かったのだが・・・。
まあ、所詮、小説と映画は違うのだということは理解している。
スブやんとその家族にスポットを当てた映画版では、
小説から独立して、あらたなエロ事師たちを形成したのに、
せっかくの“たち”という複数形の魅力がいかされず、
どちらかとえば、小沢昭一のひとりエロ事師であった。
おまけに、原作では、主人公スブやんは交通事故死するが、
映画版は、ダッチワイフを製作する舟のバラックが、
そのまま海に漂流するエンディングと思わせての、
ブルーフィルムの上映会の幕にかぶせて終わる、そんな幕引きで、
これってどうなの? と後味はさほどよくはない。
唐突な交通事故死という結末で、
しかも打ち所が悪く勃起したまま白いハンカチをかけられた、
インポが治らないエロ事師の運命の悲哀ぶりを、
巧みな噺家として見事に結んだ野坂氏の文才を支持するものとしては、
どうにも納得するわけにはいかなかったのである。
いずれしても、原作のイメージが強烈なので、
それに引きずられるだけでは、映画の観方としていかがなものかとは思うが、
物足りないところをあげるとキリはなくなってしまう。
やはり、あの野坂文体と相俟って、文学で味わう情的エロティシズムは
映像になりえなかったと結論づけてよさそうである。
やはり相当灰汁の強い作風をシナリオとして、
成立させるには、それ相応の才能と覚悟がいるのだ。
このギャップこそが、逆説的に、この原作を傑作たらしめるのだろう。
それゆえに、イマムラが削った部分そのものが、
すべて失敗とは思わないが、それに代わるような、
決定的な描写がなされていたとも思えず、あまりにもったいなかったのである。
ただ、文学にも映画にも共通しうるのは、
決してその世界が猥雑なエロではないということであり、
人間の欲望としての素材にすぎないということだけは、
暗黙の了承のようで、そこは遵守されていた。
よって、ここには、わざわざエロティシズムの大義を担ぎ出して
うんちくを語るような作品ではない、ということだけは判然としている。
そうなると、むしろ、映画でしか表現出来ない、
もう少し大胆にエロに特化し扱っても良かった気がしてくる。
かといって、『うなぎ』で見せられたような
執拗で粘着的エロを見せられると興ざめしたに違いない。
どうせなら、石井輝男か中島貞夫あたりで
B級娯楽作品に仕上げてもらった方が良かったという気がしないでもない。
いずれにしても、人間の欲望をユーモラスに描くのが
今村昌平の十八番であるならば、
『エロ事師たちより 人類学入門』はかならずしも駄作というほどひどい作品ではない。
そのことは、いっておかねばならぬが、
ただそれは、野坂文学の映画化がうまくいった前例にはめられてしまうのもまた
悲しい出来事なのである。
ちなみに主人公スブやんとは酢豚の略で、
原作では「豚のように肥ってはいても、
どこやらははかなく悲しげな風情に由来するあだ名であった」
と記されているから、とすれば、小沢昭一ではなく、
当時なら、フランキー堺あたりが適任だったのでは、とは思うけれど、
このすすけたような小沢昭一の哀愁は、どことなくはかなくも十分に熱演であった。
ちょっとした性的倒錯を抱えた喜劇的中年エロ男を演じさせると、
この俳優は天下一品であると思う。
そこはさすが巨匠イマムラの顔を立てたと胸をなでおろしている。
エロ事師たち:野坂昭如
やはり、原作の面白さを味わうには、原作を読むしかないのである。
原作を読んでから、この映画を見て、くれべて見ると、
ちょっと敏感な人間なら、なにか違和感を覚えるかもしれない。
あくまで、個人的な思い入れにすぎないが、原作は野坂文学の真骨頂である、
エロ事をめぐっての、人間の憐れみ、ばかばかしさが
独特の文体でぬらりくらりつづられれていて、実に面白い作品である。
何より、「エロ事師」という響きだけで、十二分にセンスが感じ取れる
昭和臭満載に一編である。
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