アンディ・ゴールズワージーをめぐって

移ろいの秋に思う、神業バードマンの錬金術

ものを並べる事。並べ替える事、あるいは積み上げること。
子供の頃から親しんできた他愛のない、
そうした遊戯性を帯びた行為が
アートと呼びうる現象にまで高められてゆく。
スコットランド在住のイギリス人アーティスト
アンディ・ゴールズワージーは、
自然界にあるマテリアルを使って一期一会の作品を作り、
その場をまるごと写真に記録するアーティストである。
それはまるで、鳥や虫たちの営みのように、
おごりなき所作で作られる。
自然との対話=行為を作品とする人。まさに神の遣いだ。

落ち葉、枯れ木、それら緑(息吹)が失われ
季節は再生の時期へと突入することを知るが、
アートとして再生される事実には
人は無頓着である。
そんなおり、詩季織々にまつわる作品を発表して、
それぞれに色を抱えてその魅力を放ってきたゴールズワージー、
その作品のことをふと思い浮かべてみよう。

「日本の紅葉ほど深く心をかき乱す赤を、わたしはみたことがない」といい、
彼は雨に濡れた紅葉で丸い石を
まるで赤いおむすびのように覆ってしまったりする。
かと思えば、木々の枝を使って
鳥も真っ青な巣のような造形彫刻を編んだりもする。
葉っぱ、枝、氷、石、土この大地が育むマテリアル全てが
ゴールズワージーの道具なのだ。

日本の紅葉を初めて観たとき、
ゴールズワージーは実際に遠目で観たときの美しさが、
近くで観たときに消え失せてしまっている現実を知っておどろき、
そして、色あせた紅葉を水で濡らしたときに、
色が蘇ることを発見し、まるで魔法のようだといったのである。

かれこれ三十年近く前(94年)の話だ、
世田谷美術館で大々的な展覧会「ふたつの秋」が行われた際に
その作人に触れたのだが、最近はこの日本では見かけない。
どうしているのだろうか? 
大学などの組織で教鞭でもとっているのだろうか?
秋から冬にかけて、その時に受けた感銘が
周期的に思い起こされてしょうがないのである。
それは自然という現象、
移ろいを眺めている視点の延長上に
必ずクロスしてくるからなのだと思う。

つまり、ゴールズワージーの作品は、
あくまで人為的でありながら、決して人為的な嫌らしさや、
虚飾性から隔たっているところに、崇高でありながら、
なにやら懐かしい童心のような歓びさえも感じさせてくれるのだ。
それは音と音による倍音のように律動を導き出す。

そんなわけで、ぼくは、ゴールズワージーの作品と出会って以来、
以前にも増してずっと雨に打たれた紅葉や銀杏並木の美しさに
心奪われるようになった。
だが、同時にこの秋から冬への移ろいに
一抹の淋しさを禁じえないようにもなった。
一雨ごとに深まる秋の叙情。
雨に濡れた舗道の浸食ほど、美しいものはない、
確かにそんな風に思えてくるのである。
こうした光景に佇むだけでしばし見とれてしまうのだ。
それは無味乾燥な唇をなめたあとに、
どこか官能性が増すような感覚に似ているかもしれない。

それにしても、こうしたアーティストの所業を見せられたら、
鳥をはじめとする動物たちでさえ
その現象の前に、思わず驚くのではないだろうか? 
そうした自然の中のエコアートは、人にも動物にも、
ひいては地球にも優しい眼差しを保っている。
少なくともコンクリートジャングルでの当惑は一切ない。

これを見ると、興味だけは掻き立てられるミステリーサークルなどには、
幾分邪な欲望が見え隠れするようにも思え、
それ以上想像を馳せることはできないが、そ
れはそれとして、人間の手の届かない、
いわば人類への挑戦なのかもしれないとも思えてくる。

例えば、ゴールズワージーに富士の雪と土を紙の上に置いて、
それが溶ける経過を記録した「スノーボール・ドローイング」
という作品がある。
ただ単に自然のマテリアルを並べ替えるだけではなく、
その完成を文字通り自然に委ねる行為、作品である。
火山灰を含む富士の黄色い土が
雪解けした水と混じり合い蛇行する記録は、
何にも増して雄弁で美しい書、あるいは一編の詩となる。
これはまさに、あの瀧口修造が試み愛した
デカルコマニーやバーントドローイングといった技法に
通じる詩情を感じずにはいられないではないか。

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