ムリーリョに洗われて

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作 「蚤をとる少年」
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作 「蚤をとる少年」1645-50/パリ・ルーヴル美術館

汚れなき審美眼の発露に感ムリリョ

占星術に詳しい人間に
あなたはピュアなものに惹かれる傾向がありますね、
星にもそれが出ていますよ、
なんてことをいわれたことがある。
そんなことをわざわざ鵜呑みにはしていないのだが
たしかにピュアなもの、 穢れなきものに
昔から惹かれてしまう傾向があるのは
自覚するところである。

一部のものを除き、ここに取り上げる嗜好、傾向は、
どちらかというと前衛的なもの、
発想の自由なもの、感覚的なものが主体ではあるが、
同時に純粋なもの、あるいは古き良き時代ものも好きだったりする。

スペイン最高の画家のひとりと称される
ムリーリョという画家をご存知だろうか?
絵が好きな人なら、美術史に明るい人なら
そんな野暮なことを聞くなといわれてしまいそうだが
その代表作「蚤をとる少年」を
ここの流れでいきなり好きだといっても、
唐突だと思われるかもしれない。

では、なぜ唐突にムリーリョなのかといってしまえば
小さい頃にたまたま家にあった百科事典の名画集のなかに
この「蚤をとる少年」が監修されており、
子供ながらにその一枚がいたく心に響いており
その思いが未だずっと色あせることなく、
生きながらえてきたといえるからだ。

その当時はゲイジュツを理解する感性も資質も
ほぼゼロの幼気な学童だったのだから
ムリーリョの「蚤をとる少年」に惹かれたことさえ
奇跡だったというべきかもしれない。

仮に当然、ピカソやダリをみてもチンプンカンプンで
意味も価値もなんにもわからない子供の目にも
ムリーリョの絵画に映る静謐で、神聖な感じに
不思議に心奪われていたのである。
その意味では、ゲイジュツを解さなかったというより
あまりに感性的に未開だったのだと
今だからいえるのかもしれない。

個人史における途中の変遷はさておいて
今、現在この「蚤をとる少年」を改めて眺めても
感動が醒めずに継続している。
この作品はその内容の通り、
当初は『乞食の少年』と題名されていたというが
そうしたリアリズムがまだ純粋だった子供の心を打ったのは
決してまやかしではなかったのだ。

テネブリズムと呼ばれる明暗対比のコントラストの美しさ。
まぶしいまでの光。
そしてこの少年の内面性を映し出す絵のオーラに
絵画への目が養われていないときだったからこそ
無意識に捉えられてしまったのかもしれない。
とはいえ、正直に告白すれば、ムリーリョ自身の絵が好きなのか、
この少年の絵が好きなのかと言われると
未だよくわからないのである。

バルトロメ・エステバン・ペレス・ムリーリョは
(小さい頃はムリリョだと認識していたが)
フランスの劇作家ボーマルシェの
有名な『セビリアの理髪師』の舞台セビリア生まれで
スペインのバロック絵画の代表者の一人であり
数多くの宗教画のみならず、社会を風刺する、
言うなればピカレスクな様式を携えており、
現実を慈愛的眼差しで包み込んだ絵をいくつも残している。
この「蚤をとる少年」に込められたこの画家の眼差しにこそ、
そして当時の風俗画としてのリアリズムが
見事な調和と品性を宿っていることを真しやかに証明しており、
見るたびに心が洗われる、そんな叙情が立ち上る絵画なのである。

今時、不意にムリーリョの名前を出したところで、
なんの目新しさ、絵画としての驚きは薄いかもしれないが、
そうしたこととは無関係に、
自分の内面を照らしてくれる一枚の絵として、
今も心に留まって我がゆく道を照らしてくれている気がするのである。

いつかは原画をこの目で生で鑑賞したいものだが
自分にとっては、あからさまな宗教画より
こうした慈愛に満ちた絵画を思うだけで
何やら心が清められるような
そんなカタルシス的作品でもあるのだ。

Arvo Pärt : Littlemore Tractus

Pärt: Littlemore Tractus · Estonian Philharmonic Chamber Choir · Tallinn Chamber Orchestra · Tõnu Kaljuste · Arvo Pärt

2件のコメント

同感です。おそらく貧しいだろう子供たちを慈愛に満ちた目で描き出している。名だたるスペインの画家の中で一番好きな画家です。

コメントありがとうございます。ムリーリョいいですね。
年齢を重ねて、ますます良さがわかってきました。
とくにこの一枚は子供の頃からずっとこころに残って大好きです。

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