映画史走馬灯。永遠のヌーヴェル・ヴァーガー
デビュー作『大人は判ってくれない』でのジャン=ピエール・レオーは、
子どもながらに、
なにも自分は顔やアクションで売る俳優というわけではないはずだ
などとちゃんと認識している顔付きをしている。
でも、われらがジャン=ピエール・レオーのことを、
本や雑誌など、静止画であらためてよくみると、
うむ?まんざらハンサムじゃないわけでもないなぁ、
と思える瞬間にふと出くわすことがあるものだ。
が、ひとたび彼がスクリーン上で振る舞う
その身ぶりや言動を前にすれば、
やってくれるねえ、と思わず目尻や口元が弛んでしまうのだから
まったくおかしな俳優である。
おもえば、ゴダ-ルの『WEEK-END』でみせた
あの軟弱きわまりないひじ打ち、
トリュフォーの『夜霧の恋人たち』でみせた
鏡の前で愛する人物の名を連呼する狂態。
あるいは、ベルトリッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』で見せた
過剰なまでに芝居がかった映画狂ぶり。
ユスターシュ『ママと娼婦』での饒舌を極める年上キラーぶり。
カウリスマキの『コントラクト・キラー』での
自殺もままならないくたびれた中年男の哀愁。
それらを見つめる眼差しに、
間違ってもハリウッドスターなどが引き合いにだされようはずがない。
見れば見るほど、レオーはあたかもお笑い芸人のように、
そこにいるだけで笑いをとる術に長けている、
そう納得することとなり、
まるで演技とは思えない“自然なぎこちなさ”で、
二枚目俳優などという退屈な言葉の響きなど
簡単に消し去ってしまうだろう。
ことさら、それがドワネルシリーズにおいては、顕著である。
暗い背景を背負った13歳の少年レオーが、
『大人は判ってくれない』で、この映画史に飛び出して以来、
その後『二十歳の恋』で早くも蒼く苦く女につまづいた青年レオーが、
『夜霧の恋人たち』や『家庭』などで一人前の家庭人レオーとして、
結婚という因習のなかで、子を持つ親になり、
人並みの幸福と人しれぬドタバタを繰り返し、
ドワネルの総決算である『逃げ去る恋』では、
いい歳をした中年レオーが、
それまでの悲喜劇的要素にみちた恋愛ドラマに、
とりあえず終止符を打つにいたるまで、
決して愛の定住をえることのないキャラクターを
必死に生き続ける様をさらして終わるのだ。
『家庭』においては、日本人女性キョウコから
ハンサムなフランス人として恋されてしまうわけだし、
『恋のエチュード』では、英国女姉妹相手に
クールでハンサムないい男ぶりを発揮してくれはする。
おおよそ、レオーをとりまくそのフィルムはみな、
女と男のいるフィルムなのだから、こうしたことが起りえないとは限らない。
といって、レオーがハリウッド的な色恋を演じうるなどとは
とうてい考え付かない。
結局のところ、シリアスに演じようが、コミカルに演じようが、
トリュフォーがいなくなっても、ゴダ-ルが老いたいまも、
レオーはレオーでありつづけるしかない。
そういえば、『大人はわかってくれない』の最後、
あれは、海辺でのストップモーションで終わる少年の姿に
人生から逃げさること、または追いかけけることへの序奏をにじませ
女たちからの逃亡、いみじくも
それが映画史そのものへのストップモーションでもあった
とでもいうべきなのだろう。
映画史をかえりみても、
自らの成長を作品とともに刻印し続けたという意味で、
たぶんに幸福なる映画体験とよべる
この一連のドワネルシリーズによって、
その特異なるキャラクターの存在を、
確固として印象付けられてしまった我々は、
たえずせわしない動きをもってして、
ときに過剰なまでに饒舌で、エキセントリック、
概ねぎこちない挙動が画面をスピーディーに駆け抜けるといった、
およそ普遍的なヒーロー像からはほど遠い、
非職業俳優的としての身体運動が繰り返されるだけの、
ヌーヴェル・ヴァーグとしての然るべき象徴的な残像を、
いつまでも忘れがたく網膜に焼き付けてしまうのだ。
後に語り継がれることになるヌーヴェル・ヴァーグ的な資質そのものとして、
俳優ならざる彼こそは、トリュフォーの分身はもとより、
ドワネルがレオーなのか、レオーがドワネルなのか、
つまりは従来の俳優的要素をあわせ持たない姿として、
いまもなお鮮烈に映画史を生き延びている。
いみじくも、ドワネルという姓が、
ヌーヴェル・ヴァ-グの作家たちの精神的な父、
ジャン・ルノワールの秘書の名から得たもの、
とされていることからも
「観念よりも生身の人間をいかすべきだという教訓」を学んだ
この作家へのオマージュともいうべく「人間」がそこに描きだされているのだ。
こうして、このヌーヴェル・ヴァーグの亡霊を背に、
以後アキ・カウリスマキ『コントラクトキラー』や『ラヴィ・ド・ボエーム』で、
オリヴィエ・アサイヤスは『IRMA VEP』や『パリ・セヴェイユ』
ツァイ・ミン・リャンは『ふたつの時、ふたりの時間』、
フィリップ・ガレルの『愛の誕生』、
そして最新では諏訪敦彦による『ライオンは今夜死ぬ』など、
それぞれの映画のなかで、彼、レオーをして、
たとえくたびれた老俳優になりはててしまったとしても、
その個性は、愛さずにはいられない、
永遠のヌーヴェル・ヴァーガーとしてのレオーに
いまだ、惜しみなき賛辞はやむことをしらない。
では、いったいアントワーヌ・ドワネルとは何ものであったのか?
とあらためて問い直すならば、
そこはやはりその分身ともいうべきか、父というべく
トリュフォー自身に語ってもらうしかない。
大人になったアントワーヌ・ドワネルは、模範的な人間からは程遠い人物であり、むしろ卑劣で、狡猾な人間だ。魅力があるが、それをうまく利用する術も心得ている。嘘もつくし、隠し事もする。甘ったれで、自分の愛を女に与える以上に、女からの愛を期待し、女に愛を求めるという、エゴイズムまるだしの男なのである。アントワーヌ・ドワネルは、もはや、ごく普通の「ある男」ではない。ごく特殊な「ある男」なのである。
参考文献:友よ映画よ 山田宏一 ちくま文庫92
トリュフォー「アントワーヌ・ドワネルという名前」より
ジャン=ピエール・レオーの魅力がわかるこれだけは見て欲しいシネマ5選
大人は判ってくれない 1959 フランソワ・トリュフォー
いわずもがなのデビュー作。
ヌーヴェル・ヴァーグはここから始まったといって過言ではない。
心の渇きが盗みに向かわせるが、
アントワーヌ・ドワネルの心にはシネマトグラフの祝福が刻印されていたのである。
こうして、記念すべきアントワーヌ・ドワネルシリーズは
レオーの成長共に映画史に燦然と刻印されることになるのである。
ママと娼婦 1973 ジャン・ユスターシュ
ヌーヴェル・ヴァーグの兄だと公言してやまないユスターシュ作品のなかでも、レオーは健在である。
しゃべるはしゃべる。とにかく台詞のラッシュ。
ある意味、トリュフォーのドワネルシリーズよりも
レオーらしさ満開の4時間弱、レオー好きにはたまらない作品だ。
Week-end 1967 ジャン=リック・ゴダール
ややもすれば小難しいゴダール節炸裂の前に、立ち尽くしてしまうかもしれないのだが、
そこにレオーが登場すれば、なんのことはない喜劇に転じるのだ。
レオーの出番は一瞬の出来事だが、
その個性は一度見れば忘れられないものだ。レオーの貴重な肘撃ちチョップに腹を抱えるのはご愛敬。
コントラクト・キラー 1990 アキ・カウリスマキ
くたびれた中年男のクタクタ感を、さすがはヌーヴェルヴァーグの荒波でもまれたレオーが、
これまた一癖あるカウリスマキの作品のなかで実にツボの演技をみせてくれる。
ヌーヴェルヴァーグの作家以外の作品のなかで
レオーの個性がここまで失われずに発揮されれているのは、
なんといってもカウリスマキとの相性が抜群だからだろう。
ライオンは今夜死ぬ 2018 諏訪敦彦
老いさらばえたレオー。アントワーヌ・ドワネル時代のあのはつらつ感は消えて、
そのくたびれ感そのものに生々しい現実感がにじむ。
がしかし、我らがレオーは老いてもレオーである運命から逃れられない。
転んでもただで起きないレオーは健在である。
諏訪敦彦による俳優レオーのドキュメント性が貴重な映画体験として刻印されていることに
感動を覚えぬわけにはいかない。レオーフォーエバー。
コメントを残す