わがざわめきの餓鬼道、ママとラピュタを求めて。昭和アニソン祭
日本はいまや世界にほこるアニメ大国ではあるけれど、 正直、僕が子供の頃、見て育ったような、 素朴かつ、なかなか味わいのあるアニメなんて、遠い日の花火であり、 いまや、その絵のタッチも中身も、どれもが 現代風にアレンジされてしまった。 確かにそれらは小気味よく、こぎれいなもので 大多数を占められている気がするが どうも心に引っかからないのは何故だろう?
日本はいまや世界にほこるアニメ大国ではあるけれど、 正直、僕が子供の頃、見て育ったような、 素朴かつ、なかなか味わいのあるアニメなんて、遠い日の花火であり、 いまや、その絵のタッチも中身も、どれもが 現代風にアレンジされてしまった。 確かにそれらは小気味よく、こぎれいなもので 大多数を占められている気がするが どうも心に引っかからないのは何故だろう?
80年代を振り返ってみると、 一般にはバブルの時代、情報過多なメディア文化が溢れ、 サブカルを始め、ポストモダンやニューアカ(デミズム)などが 雑多なまでにはびこっており、そのどれと言って 正直、全て理解していたとは思えない。 まさに空気を感じ取っていたに過ぎない。
少なくとも、僕が知見してきたモノに関しては そうした流れのなかに産み落とされた、ものばかりだ。 それが時代と共に希薄になって、 コマーシャル主義、インスタントで中身が薄っぺらいモノにかわって今日に至っている気がしている。 もちろん、それは僕個人の感想だが、 それを結論として、昔は良かった、などというつもりはない。 が、そうしたものをリアルタイムで、体感できたことは 幸福な出来事であったと思う。
新しい時代の幕開けを告げるかのように 開催された万博のことが、なんとなくうろ覚えだけど、 記憶の片隅に、あるにはある。 世の中のことなんて、何にもわからなかった。 それでも、ぼくはリアル七十年代を生きた。
しかし、どうころんでも、万人が納得し共感を得るような そんな60’sを回想できそうもない。 といって、単にマイナーで、へんてこなものばかりを振りかざす気にもなれない。 あくまで、心に響く後付けの60’s というくくりでしかない。 はたして、当時、このエリアに熱狂していた人がいるのだろうか、 いたとしたら、きっと仲良くなれたかどうかさておき 今より遙かにレアで、特殊な人種だったのはまちがいないだろう。
その時代にながれていたものを今聴いても かっこいいものもたくさんあるし、 単に古い、新しい、なんて次元でおっぽっておくのは あまりにもったいない。 そんなわけで、独断と偏見は変わらないが、 ときおり、時代考証もまじえながら、 これまでの流れに沿って昭和見聞録をとりあげみよう。
この『東京小説』は、現在から未来へかけての トウキョウの有り様、行く末を暗示している。 いわば、とてつもなく大きなテーマでありながら、 いつになく、野坂節はクールに、どこか達観したかのように 軽やかに決めてくれる14の短編小説からなっている。 野坂文学、その文体は麻薬のように読み手を酔わせるのだが、 その世界に踏み込んでいけばいくほど、 この作家の懐の深さを発見する。 そう、僕にってはNOSAKAとはたえず発見の作家でもある。
終戦記念だからと言って戦争体験もない人間が 適当なこと、偉そうなことなんて書けないし、 別段書くこともないのだが そんな時、ふと十数年前に観た映画 ソクーロフの『太陽』のことを思い返した。 『太陽』で描かれたのは禁断の象徴たる 昭和天皇その人だったからだ。
文化人類学者山口昌男によれば、 「ルル」というのは舞台芸術のジャンルで人気を博し、 女の道化師として、日常のモラルに抗った、 いわばアナーキないち体現者のことだという。 岸田理生原作、演出佐藤信の舞台『忘れな草』で いみじくもルルを演じた山口小夜子の根底には そうしたアナーキズムが脈々と受け継がれていたのだろう。
『寺内貫太郎一家』の主人である石屋の貫太郎は いわゆる頑固おやじそのもので、 課長としていつも威張っていて、全くもって独裁的である。 おそらく設定は昭和一桁の世代だろう。 時に暴言、暴力は当たり前だ。 だが、そレゆえに本質的な優しさや愛情が よりダイレクトに伝わってくるのである。 無論、ドラマとしての誇張はあるものの、 昭和を生きてきた人間には、多少なりとも馴染みがあり、 決して他人事には思えない家族の風景なのである。
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