諏訪敦彦『風の電話』をめぐって
透明さを通じて不透明さを知る。いまこそ風の言葉に優しい眼差しを 今年もまたあの忌まわしい瞬間がやってきてそして風のように過ぎ去っていった。今から10年前、3月11日午後14時46分の記憶。この覚えのない痛みを、どこからと...
透明さを通じて不透明さを知る。いまこそ風の言葉に優しい眼差しを 今年もまたあの忌まわしい瞬間がやってきてそして風のように過ぎ去っていった。今から10年前、3月11日午後14時46分の記憶。この覚えのない痛みを、どこからと...
こうしてメリエスから始まり、ラモリスが昇華させたこうした感性が あのトリュフォーの処女作『大人はわかってくれない』にも受け継がれていったのだろう。 子供騙しの商業ファンタジーに対する答えがここにある。 ポエジーの奇跡がもたらした映画に改めて乾杯! そしてViva Lamorisse!
こういう親子ドラマというのが、実は好きだったりする。 お祖父ちゃん役のチャンバラトリオ、南方英二もいい味を出している。 昭和であれば、こういうドラマがいくつもあったし それをテレビを通じてふんだんに見て育ってきたのである。 最近じゃなかなかみられなくなっているというのもあるが、 これはこれで、しっかり笑いとペーソスが噛み合った情的ドラマである。 はっきりいってB級もB級ではあるが、そこは単なるB級には終わらない、 らも節というものが、随所に流れているのだ。
ジャンヌ・モロー演じるカトリーヌは この主演によって女性解放運動の旗手として、 多くの女性からの共感を呼び、映画自体もヒットを記録。 まさに女性解放が叫ばれる映画にふさわしい、 時代の夜明けを象徴していると言っていいだろう。
沈んでゆく太陽が放つ緑の光線が幸運をもたらすという ジュール・ヴェルヌの話をもとに 揺れ動く一人の若い女の子の心理に被せて 構成されている『緑の光線』は男性が見る以上に、 女性が見る方がより理解できうる話なのではないだろうか?
誰にだってどうしても忘れられない、そして外せない映画というものがある。 といえば、そのなかに『小さな恋のメロディ』をあげぬわけにはいかない。 そう、ちょうど、メロディが金魚を公共の水場に解き放って眺めるシーンのように、 ただただその光景を眺めてみていたいのだ。 蓮華の花咲く野原を、どこまでも手押しトロッコで 地平線に向かって遠のいてゆくあのラストシーン。 そんな二人の姿を、ずっとずっと見ていたかったのだ。 そこは理屈じゃないのである
ベトナム幻想、未だ醒めやらず ベトナム料理は好きで何度か口にしたことはあるけれどベトナムという国へは一度も行ったことはないし、知り合いがいるわけでもないのになぜだか、なんども足を運んでいるような気がしている。あのベトナム...
そうした緊張感を絶えず観る側にさえ強いるほど、 ある意味固有で雄弁なる映画である。 が、以前には見られなかったファンタジックで、 より意識的なフィクション空間がそこにあり、 子供というファクターを通じて 新しい物語に行き着いた監督自身の境地が 垣間見れるような気がした。
当時、小津安二郎を心の師と考えていたヴェンダースにとっては まさにフィリップ・ヴィンターとアリスの関係は 限定的ではあるが運命共同体、 つまりは擬似家族として、旅を通して絆を深めてゆくことになる。
ヴェンダースの『都会のアリス』が ボクダノビッチの『ペーパームーン』にあまりに類似しているというので 脚本の修正を余儀なくされたという事実は知っている。 いみじくもどちらも1973年の映画である。 一方がヨーロッパ、一方がアメリカという違いはある。